きのうは大変失礼いたしました。 お昼前後に雪が舞うようになりました。それをこたつに入ってみていました。積もることは全くない降り方です。
(午前10時過ぎ)
ということで、きょうは10日ですが9日になったつもりで書かせていただきます。12月9日、羨ましいことに公務員にボーナスが支給されたのですね。もうボーナスと縁が切れてから何年になるのでしょうか? 全く関係のない季節の風物詩?となってしまいました。
でもニュースによると一番多い支給額は最高裁判所の長官の500何十万円とか。私に言わせれば裁判所は、特に最高裁判所はそれだけ働いているか?ということです。今回の騒音訴訟でも地裁高裁の奮励努力を台無しにしてしまいましたし、、そんな権力寄りの裁判官に高額のボーナスは不要であると皮肉りたくもなります。
とくに言えるのは庶民感覚とのあまりの乖離ですね。国政選挙における1票の格差に対する考え方には呆れてものが言えません。庶民感覚からすれば2倍の差だってもう大きな格差差別ではないですか。それなのに隔離された特別の輩はそうは考えないようです。
(寒いのにさすが若者)
また9日は夏目漱石の命日、それも没後100年の命日とか。死ぬまでにもう一度漱石全集を読もうと考えていたのですが、なかなかどうして読めません。その代り朝日新聞での毎日の漱石の新聞小説を読ませていただきました。 毎日少しずつ決まった分量を読み進めるのと、自分の好きなだけ読み進めるのとではそれぞれにいいところはありますが、新聞小説は毎日が楽しみになるようです。
ここ10数年かな新聞小説を全て読むようにしているのは。なれればこれが結構面白いのです。待ち遠しくなります。ましてや中央紙ですので朝刊と夕刊の二つの小説が読めるわけで、これは嬉しいことです。 みなさんのなかで新聞小説に目を通していない方がいればもったいないので是非とも目を通すようにお勧めします。途中からでもいいですよ。
(左側の岩の上にサギがいます。)
そして12月9日は私の尊崇する作家「野坂昭如」が亡くなった日です。早いですね、もう一年が経つのです。永六輔も大橋巨泉も亡くなりました。その前に水木しげるも亡くなりました。(敬称略)
(ヘビースモーカーですから)
興味深い記事が12月2日の朝日新聞にありました。 『火垂るの墓 原点の防空壕』 『野坂昭如さんが妹と過ごした地』 『研究家ら自伝もとに確認』 という見出しです。 「火垂るの墓」は反戦争小説の傑作中の傑作ですね。
12月2日の朝日新聞
西宮市満池谷(まんちだに)町に親類宅や防空壕があったそうです。西宮の阪神本線ではなく、阪急神戸線の夙川の北側ですね。 西宮と言えば、私にとってもとっても思い出の多い、若かりし頃に住んだ街です。
阪神甲子園の独身寮に居ましたから、大阪までの通勤は阪神電車に乗って梅田まで行き、そこから地下鉄御堂筋線に乗り換えて、本町かその手前の淀屋橋で降りて会社へ通ったものです。(だからその昔流行った、「雨の御堂筋」がすきになりました。)毎日阪神甲子園球場の脇を通りました。 そのむかしは阪神甲子園パークがあり、野球場のほか、動物やプール、とってもでかいボーリング場なんかもありまたね。
朝は8時18分かな、これはぎりぎり間に合う阪神電車の甲子園駅発の時間で急行電車だったかな。仕事が終わってからは特急が甲子園駅に止まってくれましたので、特急電車を利用しました。甲子園球場で阪神タイガースの試合があると、電車の前に虎のマークをつけていましたね。
甲子園浜までもすぐでしたので、仲間と夏に砂浜で凧揚げをしたことがありました。そのころから甲子園浜の埋め立て工事をしていましたので、もうすっかり様変わりしていることでしょうね。
またしても話しは脱線しました。でもいいのです、このブログは子どもの知らないことを、子どもにも伝えておきたいと思っていますので。
もしもそのうち大阪へ行くことがあったら、時間があれば寄ってみたいなと思います。
「新潮45」という雑誌をご存知ですか。個人的にはつまらない右寄りの本ですが、その中でこれだけは読んでいこうと思うようなものがありました。だから図書館で借りて、該当する部分をコピーしています。 奥さんの野坂暘子さんが毎月夫野坂昭如との生活の思い出等を描いています。
連載がスタートしたのは、今年の2月です。そのときは「だまされ庵日記 追悼 野坂昭如」となっていましたが、3月号からは「うそつき 野坂昭如との日々泣き笑い」という標題となっています。 図書館の蔵書ですので新しい号は本棚になかなか並んでいません。 このなかで一番新しいのが下の左側で、6月号です。
「この季節、あなたは空を仰いでいた」 これは6月5日に神戸大空襲があったからです。そして野坂昭如が浮浪児になった日です。
奥さんは書いています、「彼の人生は、生まれた時から小説であり、ドラマチックであるが、この日はまさに運命というほかない。彼にとって、原点ともいえる大きな意味を含んだ日であったのだろう。」と。 「野坂が一生背負い、語り続けてきた戦争というおろかな人間の行いを忘れてはいけない。許してはならない。」 とも。
彼が「神戸空襲を記録する会」に寄稿した文章を掲載しています。その中から引用させていただきます。
『ぼくは空を見上げ、ここに鉄砲があればと願った。B29を打ち落としてやる、やられっぱなしが悔しくて涙が流れた。ハッと我にかえり、振り向いて家を見た。庭の立ち木が真黒な煙をあげている。玄関がない。さっきまでそこにあった家がない。真っ赤な炎が吹き上がっていた。黒い部分は煙がゆるやかに流れ出ていた。
屑かごだった。養父は人員殺傷小型爆弾の直撃を受けたのだ。養母は一歳二ヶ月の妹を守り地下壕で大火傷。
「お父さん、お母さん」
ぼくは三度呼んだ。そして逃げた。走った。六甲山の麓へ後も見ずに駈け出し、どぶに飛び込み、石のフタの下にもぐり込んだ。目の前にタケノコの如く数百本の焼夷弾が植わった。真赤な空に金色の粉が雪のように舞い落ちてくる。木立の間から見える海側はすべて火であった。ぼくの家族も焼きつくされていた。後は何も覚えていない。記憶を消したのか。ぼくは一人ぽっちとなる。
まだ十四歳だった。』
焼夷弾の説明もしています。 「六センチほどの八角形で長さ八〇センチ。これが何百本と束ねられ、地上に近くなりバラバラにほどける」
前にも書きましたが、私の親もよく言っていました、花火の打ちあがる音が焼夷弾の落下してくる音と似ていると。そして不発となった焼夷弾の油脂をとって燃料に使っていたそうです。