鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

あの日から、5年9か月、

2016-12-11 14:13:39 | 思いつくまま

 また11日がやってきました。 寒いです。 雪が舞っています。 今朝方は雪がうっすらと積もっていました。 あの日も寒かったです。 雪が降ってきました。 夜は殊の外星空がきれいでした。

  東側

  西側 

 年末でもあり、あの日のことを考えると、思い出すと、どうしても2011年4月24日NHKBSプレミアムで放送された、特選オーケストラライブ 「ズービン・メータ希望の響き」の”G線上のアリア”と”第九”の演奏を思い出します。 

 

 2階でもDVDを聴こうとセットしたのですが、なぜか映りません。それでウイーンフィルの第九第4楽章合唱を聴いています。Christion Thielemonn 指揮のWiener Philhormonikerの演奏です。 第4楽章は27分くらいですので、もうすぐ最後のクライマックスにさしかかります。

 

                

 ソリスト4人の合唱が終わりました。合唱団の最後の合唱です。今終わりました。 仙台フィルの第九特別演奏会はいよいよ1週間後と迫りました。18日の午後開演です。あと1週間です。

 

 

    (2017年1月号です。)

 その204ページから217ページまでの特集として鼎談記事があります。

       

(震災後の大川小学校全景)

 鼎談の中ではとっても重要なことが書かれています。新聞記事やニュースとして語られることのなかったことも話し合われています。 

 3人の中の「佐藤敏郎さん」は元中学校の国語の先生で、いまは学校をやめ、NPOに加入して語り部として精力的に動き回っています。当時6年生だった娘さんを津波で亡くしています。損害賠償裁判には加わってはいません。

 本当はこの「世界」の鼎談記事を読んでいただくのが一番いいのですが、この雑誌は他の雑誌に埋もれてしまって、なかなか本屋に行っても目に入りにくい様ですし、決して安くもないので、かれが語ってることの中で私が重要だと思ったことを書き連ねて行きたいと思います。

 

 『私が知る限り、遺族の人々は、少なくとも一人ひとりの先生のことを責めているのではありません。担任の先生の葬式や法事に行っている遺族も多い。・・・。だから、「先生を断罪」という言葉は私も違和感があります・・・。ただ、偽りや情報隠蔽をはじめとする教育委員会の不誠実な対応が五年以上、繰り返されてきました。その経緯を考えると、教育委員会に対しては、「断罪」でも甘いくらい賀茂しれません。』

 『私たちも、本当に最後の最後まで、時効となる一日前まで、裁判ではない、対話の道を探りました。法廷で勝ち負けを争うのではなく、事故ときちんと向きあって、遺族と一緒に進むというのは、教育委員会にとってもチャンスだったはずです。・・・。教育委員会は、あの三月十一日の時点ですでに裁判を想定して準備をしていた。私はそう思います。自分の子どもの死を嘘と偽りで語られ、説明会のたびに遺族は心を折られて苦しみました。子どもたち、先生たちの命を教訓にもしてくれない。』

 『あの時、校庭から子どもたちを釣れ出すことができたのは、先生しかいないのです。先生は、子どもたちを避難させ、命を救うことのできる素晴らしい存在なのです。・・・。教員はそういう誇りを持つべきだと思います。・・・。私は、あの時、学校であったがために陥ってしまった状況があったと考えています。いわば「学校バイアス」のかかった状況になったのではないか。』

 『大川小学校では、生き残った先生をはじめ、山に逃げようと思っていた人はいたのですが、それが組織の意思決定につながらなかった。そこがもっとも大きな問題です。』

 『裏山に逃げようと考えた先生が複数いたのは事実です。教頭も山に避難したいと思っていた。私は、そこで地域の人に聞いたのが間違いだったと思います。なぜなら、地域の人について言えば、大川小も危険だと予想した人はすでに別の場所に避難しているからです。校庭にいる地域の人は、ここが安全だと思って集まっているわけです。そこで教頭が孤立してしまった。』

 『防災訓練で・・・、重要なのは本部の意思決定の訓練です。それぞれの役割を確認し、情報を共有して意思決定をする本部、大川小ではそれが機能していなかった。』

 『最後にとった避難ルートは、川に向かってしまうルートでした。そこにはフェンスがあって、切れ目の幅九十センチくらいのところを通って避難しました。段差や木もあって、一斉に逃げられない。』

 『生き残った先生は、前任地が海の近くの学校で、かつ自然科学の専門家でした。この先生は地震直後に津波が来ると考え、校舎から校庭に避難するときに「津波が来るから山に逃げるぞ」と言い、いったんは児童も山に逃げはじめた。しかし、それが津波警報の前だったことから「勝手なことをするな」と引き戻されてしまいます。・・・。「(山へ登って)転んだらどうするのか」「落ち着け」などの意見が主導権を握ります。・・・。「もし津波が来たら」ではなく「もし、津波が来なかったら」になった。・・・。あの時、大川小の先生たちは、山へ逃げることを否定したあと、津波警報が出ても、親やバス会社、それに子どもが逃げようと言っても、意思決定の機能をストップさせてしまった。』

 『生き残った子どもたちが一生懸命証言してくれた、その記録を、市教委は廃棄しました。あのとき、子どもたちは「逃げよう」と言っていた、という核心的な事実を、市教委は報告書に盛り込まなかった。そこで検証委員会はもう一度、(生き残った児童の)Tくんに聞き取りをしました。このとき、一番聞かなければならないポイントは、子どもたちに危機意識があったかどうか、という点です。ところが、検証委員会は、「あの時、『山に逃げよう』と言った児童がいたか」という肝心の質問をしていないのです。さらに、児童を迎えに行ったお母さんの、「ラジオを聞いてきた、ここは危ないから逃げて」と訴えた、という証言も採用しなかった。』

 『検証委員会は、・・・。遺族の心を折るための装置だったとしか思えない。』

 『学校はもともと集団なんです。防災に限らず、常に集団を念頭において経営されるのです。学校の「万が一」「念のため」は一般のそれと同じでいいはずがありません。自分の判断で行動できる大人とは異なり、子どもの命をあずかっているのが学校です。』

 『津波のときの避難マニュアルが存在していた、・・・。津波のときは「近隣の空き地や公園に避難する」と明記されています。ところが、大川小の近隣には空き地も公園も存在しない。そういう実体のないマニュアルが震災の数年前から運用されていた。・・・。つまり、このマニュアルによって命を守ろうとは考えてもいなかった、』

 『「命を守るマニュアルになっているかどうか」、・・・。大事なのは想定外のときに役立つかという観点です。・・・。大川小の校庭は日本のどこにでもあります。』

 『生き残ったものの、今は出てこれない先生も、いつかは同じ「船」に乗って、一緒にハモれると思っています。生き残った先生が不幸になるようなことがあってはならない。娘たちが大好きだった先生です。』

 『教育委員会は、・・・。あれだけの人が亡くなったにもかかわらず、その原因と真摯に向き合おうとはしなかった。・・・。説明会などの場での対応は、裁判になることを見越して、組織防衛を優先させたものでした。』

 『辛かったのは、「なんで先生の言うことを聞いたんだ。だから死んだんだ」と言われることです。・・・。でも、「学校に行ったら先生の言うことを聞くんだぞ」と親が送り出せるような学校でなければならないと思います。』

 『みんなが船に乗っているのに、教育委員会や検証委員会は荷物だけ残して船から降りていくような間隔がありますね。…。私たちは遺族なので、この船には乗り続けなくてはならないんです。』

 『わかることはしっかり遺族に説明してほしい。なのに、明らかな嘘や事実の隠蔽があまりにも多い。当初、教育委員会から「説明会は開催しない」と言われて、それはおかしいとなった。・・・。きちんと謝罪をして、しっかりと調査をしていれば、ここまで複雑な問題には成らなかったはずです。』

 

 長い長い引用となってしまいましたが、ここまで読んでくれたみなさまにはこころより感謝申し上げます。どうお感じになったでしょうか。 ありがとうございました。 「先生の言うことを聞いただけなのに」という横断幕をもって裁判に臨んだ原告団の気持ちが改めて重く感じました。


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