日本の旧暦と七十二候には、穀雨(十九日からですが)に入っての季節の風物詩として、若緑、若鮎、頬白、葱坊主、躑躅(つつじ)、陽炎(かげろう)、藤、山吹、茶摘みが掲載されています。
実際に河原を歩くと、毎日木々の、草木の新緑の濃くなっていく様が新鮮な驚きとともに感じられます。今まさに「若」という字が自然にはふさわしいものとなっています。毎日そういう自然に抱かれて、全身で感じて生活していけることに感謝しかありません。ありがたいことです。
でも現実に目を向けてみると、このコロナ禍、いったいいつまで続くのか、外出自粛、学校の休校はいつまで続くのか、全国民の巣ごもり、閉じこもり状態はいつまで続くのか、五月六日で終焉するのか。とてもそんな感じではないですよね。
異常事態も長く続くと、それが日常となり、異常とは思わなくなってしまうというのが怖いです。仙台でもコロナ禍で職を失い、住を失い、ホームレスになる人が増えている、それも若い世代に増えているという地元の新聞記事を読みました。
一方では、寄ってたかって高齢のホームレスを虐待死させたというニュースもありました。19歳の若者たちですか。執拗に追い回して、石を投げつけたりして殺したようです。ホームレスをいじめたり、殺したりしたというニュースは前からありましたが、これからまたそういう悲惨な事件が増えていくのではないかと暗い気持ちになってしまいます。
きのうの朝日新聞の寄稿記事を読みましたが、とっても考えさせられるものでした。感染拡大がおさまればほっと安心、もう大丈夫ということではないと警鐘を鳴らしています。経済全体のダメージが大きければ、当然ひとり一人の衣食住に対する負荷負担が大きくなり、立ち直るのが大変、場合によっては不可能に近くなってしまう、そうなったら社会はどうなるか、弱者が生きていける社会かどうかということです。
人文知を軽んじた失政 ≪新型コロナ≫ (抄)
京都大学人文科学研究所
准教授 藤原 辰史
ワクチンと薬だけでは、パンデミックを耐えられない。言葉がなければ、激流の中で自分を保てない。言葉と思考が勁(つよ)ければ、視界が定まり、周囲を見わたせる。どこが安全か、どこで人が助けを求めているか。流れとは歴史である。流れを読めば、救命ボートも出せる。歴史から目を逸らし、希望的観測に曇らされた言葉は、激流の渦にあっという間に消えていく。
・・・・・・・・・・・・
歴史の知はいま、長期戦に備えよ、と私たちに伝えている。1918年から20年まで足掛け3年2回の「ぶり返し」を経て、少なくとも4千万人の命を奪ったスペイン風邪のときも、当初は通常のインフルエンザだと皆が楽観していた。
・・・・・・・・・・・・・・
長期戦は、多くの政治家や経済人が今なお勘違いしているように、感染拡大がおさまった時点で終わりではない。パンデミックでいっそう生命の危機にさらされている社会的弱者は、災厄の終息後も生活の闘いが続く。誰かが宣言すれば何かが終わる、というイベント中心的歴史教育は、二つの大戦後の飢餓にせよ、ベトナム戦争後の枯葉剤の後遺症にせよ、戦後こそが庶民の戦場であったという事実をすっかり忘れさせた。第一次世界大戦は、戦後の飢餓と暴力、そして疫病による死者の方が戦争中よりも多かったのだ。
・・・・・・・・・
在宅勤務が可能な仕事は、「弱者」の低賃金労働に支えられることによってしか成立しないという厳粛な事実だ。今の政治が医療現場や生活現場にピントを合わせられないのは、世の仕組みを見据える眼差しが欠如しているからである。・・・・
重心の低い(生活に根差した:管理者注)知こそが、私たちの苦悶を言語化し、行動の理由を説明する手助けとなる。
これまで私たちは政治家や経済人から「人文学の貢献は何か見えにくい」と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられt、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。
危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない。
大雨から1週間以上も経つのに、広瀬川の濁りはまだ残っています。完全には戻っていません。この濁りがいつまでも長引きませんように願うばかりですね。そろそろ稚鮎の放流の時期ですよね。 こちらの方は順調にいくのでしょうか?