いやあ、参りました、きょうも暑い、蒸し暑いです。朝方から全体に気温は高かったけど、9時過ぎから劇的に高くなりました。正午は30.6度となっています。きのうの正午は29.0度、おとといは19.9度でした。
いまNHKFMのクラシック何とか(「クラシックカフェ」でした)でロドリーゴのアランフェス協奏曲を流しています。クラシックギターの旋律・音色最高ですねえ。今日この曲を聞けたことでなんかとっても得した気持ちになります。
何にしてもよくこういう曲を作曲したり、また演奏できるのは実に素晴らしいと言ってしまえばそれまでなのですが、私に言わせればまさに”神業に近い”と言わざるを得ません。本当に世の中には素晴らしい才能を持った人々がいるものですね。
そういう一方では平気で殺し合うのですから本当にニンゲンとは困った存在です。アメリカはウクライナにクラスター爆弾を供給するようです。ロシアが先に使っているようですが、それにしてもクラスター爆弾はあまりに非人道的な爆弾だと使用を禁止している国々もあるのにです。(人を殺す爆弾に人道的も非人道的もあったものじゃないですが)
ウクライナはあくまでも使用は対ロシア軍に対してだとは言っていますが、軍人、民間人と厳格に分けられるものかどうか、民間人を盾にするかもしれませんし。
きょう7月10日は、78年前に仙台はアメリカ軍のB29の大編隊により大空襲を受けた日です。正確には9日の真夜中ら10日未明にかけての夜間爆撃ですか。それにより仙台市の中心部はほぼ焼失しました。
(きのう午前中珍しく思い立って戦災復興記念館に行ってきました。写真は同館の地下の展示室にあったものです。)
だいぶ前も前に親父の空襲体験記(とはいえませんが)を書いたことがあります。戦争中は仙台市の中心部といっていいのか、市電の環状線の中に住んでいたようです。当時私はまだ生まれていません、姉が二人いました。
(日本の家屋は紙と木でできている、か。普通の爆弾を落とすというのではなく、日本の家屋構造を研究して、どうすれば一番効率的に延焼するか調べた結果の焼夷弾ですからね。まさに現代のクラスター爆弾に通じるものがありませんか。)
このとき両親がうまく逃げてくれたから私や妹たちもいるわけで、それを考えるとなんかとっても複雑な気持ちになります。ちちが言うには二人の子どもを連れて逃げたのは父で、母は一人で逃げて行ったとかいっていたなあ。それでなくても臆病な母を攻められません。その後も母は言っていたなあ、花火大会の花火が上がる音、ヒュルヒュルヒュルという音が嫌だと。
(正午の時報を知らせる巨大なサイレンは、空襲警報にも使われました。サイレンの音というのは私は嫌だなあ~、聞きたくないです。)
父は裁判所の方に逃げたとか。向かったのは評定河原の広瀬川とか言っていました。途中子どもたちから水をせまがれたとかで、裁判所の水道で水を飲んだらしいです。
戦前のことや戦中のこと、戦後すぐのこと等いっぱい聞いておけばよかったなあと思ったときは時すでに遅しでした。そんなものですよね、常に後悔はあとからやってきます。後悔の繰り返し、後悔のし通しといっていいのかも。
(戦争しなければ、空襲がなければ、陸軍第2師団の司令部とならなければ、空襲を受けて全焼することもなかっただろうに・・・・。国宝の現物を見てみたかった。)
いつのB29の爆撃か分かりませんが、焼夷弾の不発弾の油脂を使って火をおこしたりしたということも聞いたなあ。
仙台空襲、覚えておかなければ!! 若い人の中には、日本がアメリカと戦争したことを知らない人がいるそうですから、、、、何をかいわんやです。