津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(243)寛永五年・日帳(二月朔日・二日)

2020-05-27 06:35:21 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)朔日・二日 

         |
         |    朔日
         |
         |    (長浜、規矩郡)長浜ラーメン発祥の地
忠利遊漁     |一、今日長はまへ、あミ御引せニ被成 御座候事、
         |            朱貝
三斎へあけ貝進上 |一、三斎様へ為御音信、あけかい弐桶被進之候、御使者ニハ谷小八郎被参候事、 御書箱壱つ、中津

         |  御奉行衆へ、飯田才兵衛・坂崎清左衛門ゟ之そへ状壱通相渡候事、
         |               (衛冬)
谷衛友ヨリ使者  |一、谷助兵衛殿ゟ被仰聞候ハ、谷右兵衛所ゟ使者差越申候、使者之名ハ沢瀬加兵衛と申候、御次手を
         |  以、立 御耳候様ニと、被仰越候間、 御帰城次第可立 御耳通、御返事申候事、
         |  (曽根村、規矩郡)
打チシ丹頂鶴ヲ郡 |一、そねの源兵衛、たんちやう之靏壱つ打候て差上候、小崎與次兵衛・平井五郎兵衛持被上候事、
奉行持参ス    |
八幡松ノ坊へ初穂 |一、八幡松ノ坊ニ、御初穂銀弐枚被進之候、但、当年之御初穂銀也、
銀二枚      |
         |

         |
         |    二日
         |
         |一、上田太郎右衛門尉、知行所へ可参旨、御暇被下候ま、罷越申候、頓而罷帰由被申候事、
中川久盛へ鶴ヲ贈 |一、中川内膳様へ、靏一つ被進候、幷御内中川加賀守殿へ、御馬一疋被遣候、御使者ニハ今橋三右衛
ル        |  門被遣候事、
谷衛冬ヨリ紫革  |一、谷宇兵衛殿ゟ御使者参候、御音信ニハ紫かわ五枚持参候事、
         |  (近江滋賀郡)
菅沼定芳へ鷹ヲ贈 |一、膳所へ御鷹すへ被遣御鷹師、礒辺三右衛門也、大坂ゟぜゞ迄ノ餌もちニハ、大坂川舟ノ加子を遣
ル        |  可被申由、寺嶋方へ可申遣事、
         |(異筆)
脇差ノ請取    |「一、朝山斎内少介わきさし壱つ、我等請取、慥ニ相渡申候、      酒井七郎右衛門(花押)
         |   (忠広)
         |一、加藤肥後様内並河志摩守所ゟ、又飛脚被差上候事、
         |                   (国遠)
宇佐旧記下着   |一、宇佐旧記ノ下着被仕由ニて、小紙三帖、道倫ニ渡申候事、
         |一、御大工之作兵衛ニも、弐帖渡候事、
         |                        (銭)
並河志摩守飛脚へ |一、並河志摩守所ゟ之飛脚ニ、壱歩一つ被下候、京鏡壱貫文可被遣之旨、 御意ニ候へ共、京鏡無之ニ
京銭ナク壱歩銀ヲ |  付而、壱歩を遣申候事、
給ス       |
         |  (長門豊浦郡)
高麗鷹ノ売価   |一、下関ゟ高麗鷹うりニ参候を、壱居被成御買候、代銀ハ壱貫八百六十目にて候事、
         |     寛永三年後水尾天皇伏見城行幸
行幸時ニ鉄炮足軽 |一、去々年行幸之時、御鉄炮衆見苦被 思召ニ付、もめんノ■白キはだ着三十被 仰付、御きせ被成
ノ行装見苦シトテ |  候、是を持下置候へ共、于今払不申候、いつれへ払可申候哉と、井門亀右衛門与小玉角介・国友
白木綿ノ肌着ヲ着 |  半右衛門与伊加利久左衛門両人申ニ付、安場二左衛門方へ渡候へと、申渡候、何かと今迄払候儀
セシム ソノ肌着 |             (坂崎成政)(永良長兵衛)
ヲ武具奉行へ渡ス |  相延候哉と、申候ヘハ、坂清左・永長兵なとへ度々申候ヘハ、御いそかわしく候とて、埒明不申
         |  候、其上京二て、谷忠兵衛殿ゟうけ取申二付、忠兵衛殿へも数度申候へ共、埒明不申、今迄延引
         |  仕由、申候事、
         |                                  (村上景則)
長岡河内家来ノ召 |一、古や七左衛門被申候ハ、御ふち人入江田小左衛門子八助と申もの、今迄長岡河内守所二めし遣置候4
抱ヲ乞ウ     |  へ共、暇を遣申候、八介申候ハ 殿様歩ノ御小姓衆ノ明所も御座候ハヽ、御奉公ニ罷出度奉存候
景則方ニ構ナシ  |  間、各様へ申てくれ候へと申ニ付、如此候、河内かまいハ少も無之由被申候、頭衆と可有御談合
         |  由、返事申候事、
         |

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         高麗鷹のお値段

             ・ 銀一貫は、1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛
             ・ 当時(江戸時代前期)における金一両は銀貨六〇匁に相当するものとする。
             ・ 金価格については特定しがたいが、ここでは一両を80,000円と仮定する。
             ・ これらのことから銀一貫は、80,000円×(1,000匁÷60匁)≒1,330,000円

        ・ 高麗鷹の値段「壱貫八百六十目」は、
           1,330,000円×1,86=2,474,000円   250万円ほどですが、さてこれが高いのか安いのかよく判りませんね。

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■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 30(原文36分)

2020-05-26 15:41:13 | ご挨拶

36         候へとの 御上意ニ候間諸勢一度ニ押寄一揆  
          をはたし候へとの儀候間其旨を御まもり
          候へと私ニ被仰候間頼母伯耆舟相留申たる
          にてハ御座有ましくと存候 其上先書弐如申上
          越中様御遣番歩之御小姓衆を頼母所ゟ
                誓文
          立允様へ上せいもんを立友田源左衛門を以申
          上候事
         一一揆大矢野をあけ申段ハ熊本ニて聞得申候を
          御家老中談合之上ニて上使之御衆へ隠申由
          申候 其わけハ肥後之御人数熊本を不打出
          内ニ大矢野を一揆あけのき候と御座候ヘハ御
          国之為如何ニ候との儀ニ御座候由申候事
         一きり志たん男女之数事付上不申鉄炮数
          人数之事斗 ちかハ迄も可申上旨奉          
          得其意候 原之城之人数よくはたらきし
          もの八千程御座候内鉄炮数五百御座候と申候
          さいせんハ鉄炮千丁御座候と申候かそれハうそニて
          御座候 五百丁必定之由申候 城々廻り海手迄も 

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■花の装い

2020-05-26 10:40:14 | 徒然

 この時期あちこちに紫陽花の花が咲き始めた。まだ初々しい乙女の感じである。散歩しながら「花の装い美しく・・」と裕次郎の歌を口ずさんでいる。
雨をまち、日に日に鞠の形を整えその色を変えていく。何を惑わそうとしているのだろうか?
今年の梅雨入りはやや遅いようだ。散歩から帰りつくころ、小さな雨が降り出した。
お昼からは小雨の予報、やはり紫陽花には雨が良く似合う。

        紫陽花や 誰が為鞠を装える  津々

                                                         

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■細川小倉藩(242)寛永五年・日帳(正月廿九・晦日)

2020-05-26 06:46:45 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正月)廿九・晦日 

         |
         |    廿九日
         |
忠利溜池ニ放鷹  |一、今日ため池ニ、御鷹野ニ被成 御出候事
惣銀幷有馬ノ汲湯 |一、御船頭舟下五郎兵衛罷下候ニ、惣銀、又有馬之湯積下由申候事、
積下ル      |
         |   (立成)
岡本蔵人知行ノ算 |一、道家左近右衛門ゟ被申越候ハ、岡元蔵人内一郎兵衛ニ、彼知行之庄屋相そへ進之候、知行之算用
用        |  被仰付通、被申越ニ付而、加藤新兵衛・栗野伝介方ニ、算用被聞候へと申遣候事、
         |         麻殻
大橋ヨリ麻木廻漕 |一、中津郡大橋ニ、麻木百束有之を、舟を遣し積廻申候様ニと、末村九右衛門申ニ付而、則鏡善右衛
         |  門ニ申渡候也、
         |  (重政)   (楢)
呼野金山詰鉄炮足 |一、続亀介与■崎理介儀、呼野金山ニ永ク居申ニ付、妻子引越度由申候間、御門出切手か被遣由、
軽妻子ノ引越ヲ願 |  亀介内飯田二左衛門をよひ、申渡候事、  
ウ   門出切手 |
平茸       |一、春木金太夫ゟ、平茸一はち上ヶ被申候事、
         |                               西大野ノ内
ノ探索     |一、歩之御小姓衆寺内五兵衛・山本喜兵衛けりを見せニ遣候処ニ、大塚村三つ居申由、被申候事、
         |  (徳力村、規矩郡以下同)(新道ヵ)
         |一、徳利木・高多布・■■寺・蒲生・合馬、伊藤太左衛門・谷小八郎見申候へ共、居不申由、被申候事、

         |     (高津尾村)      
         |                (規矩郡)(同上)
鳥見規矩郡ニヲ |一、内藤平左衛門・松村四郎兵衛、西大野・東大野・石原町辺見申候へとも、けり居不申由、被申候
見ズ       |  事、
         |                  (利宗)加藤家臣、春日局実兄、当時62歳、翌6年家光に仕える。
斎藤利宗ヨリ鷹ヲ |一、式ア殿ゟ、使者を以被仰聞候ハ、斎藤伊豆所ゟ鷹をすへさせ、歩之御小姓と見え候仁被参候間、
贈ラル      |  やと奉行可申付由、被仰越ニ付、則申付候事、
         |            (規矩郡、以下同)(伊)
鳥見       |一、山本安大夫・三輪権内、三郎丸・井川・葛原・曽根・うるしさき・たはら・つだ・ぬき・中野・
         |  (冬野)
規矩郡中ナシ  |  ふいの・横代・丸か口・石田・水町、ありき候へとも、けり居不申由、被申候事、
         |                (規矩郡、以下同)  (越か)(隠蓑)
鳥見       |一、横井宇左衛門・山路勘左衛門、石原・横代・堀石・かくれみの・志井・野原、参候而見申候へと
規矩郡中ナシ  |  も、けり居不申候、志井ニハ年内ゟけり四つ五つ居申候へ共、此十日斗以前ゟ居不申由、庄や次
         |  右衛門と申者申候由、被申候事、
         |                      御小袖壱つ
         |                  銀子弐枚  〃〃〃〃〃
斎藤利宗使者ニ給 |一、斎藤伊豆所ゟ、鷹をすへ来候使ニ、御銀弐枚被下候事、右ノ使者奉行ニ、益永太兵衛付申候事、
銀        |                  〃〃〃〃
         |  但、歩之御小姓也、
取上シ脇差ヲ返付 |一、坂崎一角内吉ノ介、わきさし御せんさくニ付、被 召上候へ共、御赦免ニ付、返被下、慥請取申
         |        異筆                                        一角内
ス     請取 |  候、以上、「但、送状ニ相違無御座候、以上」             宮崎三太夫(花押)
         |

         |
         |    晦日
         |
         | (浦上)                                                  (国遠)
京ヨリノ唐塗ノ |一、瀬兵衛ゟ、去年京ゟ下申唐ぬりの折敷之由ニて、四箱ニ三十九枚御座候、被成 御意候ハ、道倫
ニ絵ヲ描カシム |  ニ申渡、絵を書せ可申由ニ付、其段道倫ニ申候ヘハ、是迄出置候へと被申ニ付、出申候間、此段
         |  道倫へカ申渡由ニて、被出候事、但、広沢少右衛門ニ渡ス、
                                                                                                                                                               
         | (高月)
人留番之小者神頭 |一、人留ノ御番西村善兵衛、じんどうの御矢一筋持参仕候、昨日被成御通候御跡御座候由申候而、善
         |                    (三淵之徳)
ノ矢ヲ拾得ス   |  兵衛小ものひらい申由ニて、上ヶ申候、則左膳殿を以上被申候ヘハ、よく上ヶ申由、被成 御意
         |  旨、則申渡候事、
         | (規矩)
唐ノ円座進上   |一、きく郡ノ横目大谷八左衛門、唐ノゑんざのよしニて、竹かわニ而仕候ゑんさを五つ上申候処、被
         |  為入 御意候間、今十可仕上旨、白田昌斎申来候、則申渡候事、
         |               (塗師)
塗師ノ奉行    |一、下田源右衛門・藤田久左衛門、ぬしの奉行ニ付申候事、
         |  
                                         

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■熊本県立図書館・全業務再開

2020-05-25 17:58:41 | 熊本

 ようやく今日25日、熊本県立図書館が全業務を再開しました。但し9:30~15:30(以降は消毒作業の由)だそうです。
早速出かけようと思いますが、早速明日は休館日、なんと間が悪いことでしょうか。
コロナ暇もこれで何とか解消しそうな感じです。それでも十分注意して利用致しましょう。

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(36)

2020-05-25 12:48:05 | 史料

                 

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■福岡県史・近世篇「細川小倉藩」挑戦から一年

2020-05-25 10:33:11 | 徒然
 
■福岡県史・近世篇「細川小倉藩」に挑む

 福岡県史・近世篇「細川小倉藩」という刊本が三巻ある。内容は奉行所の「日帳」だが、「日帳」とか「万(萬)日帳」、「御用覚書帳」とか名称はいろいろである。第一巻は「寛永元年から寛永五......
 

    現在お届けしている「細川小倉藩 寛永□□年日帳(□□月□□日)」は今日で241回になった。
gooブログは毎朝、「1年前の記事」を教えてくれるが、上が一年前の記事であり、実質スタートは5月27日の■元和七年・御印帳(七月朔日~十日)である。
この時期はまだ通し№を付していないが、№を付けたのは8月22日の■元和拾年 萬覚書(1)であり、それ以前に53回ご紹介している。1年間で都合294回(241回+53回)ご紹介したことになる。
悪友に言わせると「ご苦労なこったい」ということになるが、タイピングしていると否応なしに記事を精読するから、この一年でかなりの情報が頭の中に入ったように思う。但し、87爺の脳細胞の破壊は相当のスピードで進んでおり、収入より支出が多く赤字が累積している感じである。
お読みになった方から、先祖に関する記事があったとわざわざご連絡いただいたりすると、爺様はうれしくなって、腱鞘炎や肩の凝りをわすれて頑張るのである。
最近は一日に1.5~2頁分をタイピングしているが、ほぼ2時間を要する。コロナ暇から解放されると、これはどうなる事か判らないが・・・
ご支援に感謝申し上げます。

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■細川小倉藩(241)寛永五年・日帳(正月廿八日)

2020-05-25 07:02:58 | ご挨拶

                      (寛永五年正月)廿八日 

         |
         |    廿八日
         |
         |                      鴨ノ
嶋田直時ヨリ三斎 |一、三斎様へ、嶋田越前様ゟ被進之候このわた・〇たゝきの入たる箱壱つ、神戸喜平次与市左衛門・
ヘノ音信     |  小谷忠二郎与與左衛門両人ニ持せ、幷 殿様ゟ之 御書箱壱つ相渡、中津へ遣申候事、
村上景広武具書  |一、村上八郎左衛門家・武具をかきませ候帳一冊、昨日河内被上候を、懸 御目候処、家ハ可請取
雑之帳 家ハ収公 |  候、武具ハ河内ニ被遣旨、被 仰出候、則我等共ゟ、此段河内方へ可申遣旨 御意ニ付、書状相
武具ハ景則へ遣ス |  調、古や七左衛門ゟ可被届由申渡、状渡申候事、

                            参考:■村上景広と景則

愛宕山ヨリ百味ノ |一、愛宕宝蔵院ゟ、御百味之御札箱壱つ幷御状、坂崎清左衛門披露可有由ニて、昨日歩之御小姓吉村
札        |                                         (道家立成)
         |  次左衛門被持下候、呉服箱ノ内ニ入テ下候を、坂本二兵衛・加来二郎兵衛両人ニて取出、左近右
         |  衛門を以上申候事、
         |               (屋脱)
西ノ茶屋柿ノ台木 |一、夕ア道倫被申候ハ、西ノ御ちやノ前ノ畠ニ、柿ノ台木をうへ候へと、前廉上林甚介ニ被 仰付候
ノ植付      |  へ共、右ノ畠ハ水つき申候間、清水辺ニて、甚介見立次第ニうへ置候へと、可申渡由被申ニ付、
         |  其段甚助ニ申渡し候事、
小篠次太夫出府ニ |一、小篠次太夫妻子を江戸へ引越可申旨、被 仰出候へとも、手前用意何共不罷成候ニ付、引越候儀
妻子ヲ引越ス事不 |  も成申間敷通、山田加左衛門を以被申候ニ付、弥年を入被相尋候へと、申渡候処ニ、右被申候
如意二ツキ用意ナ |  ニ、今以不相替候間、御次而次第立 御耳可申由、加左衛門被申候事、
ラズ       |
         |  (與原、京都郡)
忠利帰途休息セル |一、伊与原の庄屋九郎右衛門を、加藤新兵衛被召連登城仕、被申候ハ、こんど殿様中津ゟ 御帰城之
庄屋御礼ニ登城ス |  刻、かの庄や所へ御こしを被成御懸、殊外御懇にて御銀壱枚致拝領候付、為御礼罷出申候、進物
蛤ヲ進上ス    |  ニハはまくり一鉢持参仕候事、
         |  (久留島通春)2代豊後森藩主
久留島通春ヨリ使 |一、来嶋右衛門市殿ゟ、御使者二神喜内被参候、御音信ニハ紙五拾束入之折持参之由、古屋七左衛
者進物ハ紙五十束 |  門被申候、
中川久盛使者   |一、中川内膳殿ゟ御使者、八木七太夫と申仁被参候、
使者ヲ振舞ウ   |一、右ノ御使者両人とも二、今晩被成御振舞候事、
家臣ノ下人ヲ釈放 |一、菊野伊織内之つま蔵・坂崎一角内よしの介・鈴木勘四郎内彦兵衛、被成御赦免、主々へ渡申候、
ス  忠利自筆ノ |  則被成御赦免との 御自筆之 御書出、此方ニ取置、 御印之袋ニ入置候也、
赦免上ヲ御印ノ袋 |
ニ納ム      |
         |                  ( 鬢 鏡 )   (毛抜)    (袱紗)
入牢人所持品没収 |一、数右衛門ふところニ、銀子三きれ・ひんかゝミ壱つ・けぬき壱つ、ふくさ物ニ包有を、今日御
         |  糺明之時、見出申由ニ而、番ニ付居候御鉄炮衆伊藤金左衛門与中川二郎右衛門持来候を、御掃除
符ヲセシム    |  坊主玄斎・杉山藤兵衛与ノ斎藤羽右衛門ニ請取せ、符をさせ候て置候、
使者ニ小袖ヲ給ス |一、久留嶋右衛門市様・中川内膳様御使者ニ、御小袖弐つ宛被遣候事、
         |              (津川近元)     (朝山)    (吉田カ)
新籠入牢人数書立 |一、今日籠ニ御入被也候人数ハ、数馬殿内鹿ノ介・斎内少介・縫殿内角ノ介・百介内久七・佐伝次内
         |  数右衛門・半十郎内くず兵衛・主水内角内、此分新籠へ入申候事
         |

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■「特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編」

2020-05-24 18:28:43 | 熊本

 今般熊本市の熊本城研究センターは「特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編」を発刊したことを発表した。
残念ながら民間に於いては刊行物は入手は不可能である。所蔵する図書館等での閲覧又は以下の如くPDF資料が提供されたので、こちらをご覧いただきたい。
尚、「特別史跡熊本城跡総括報告書 歴史資料編」は先年同様にPDF資料が提供されているので、同研究所サイトからご覧いただきたい。

   特別史跡熊本城跡総括報告書 調査研究編

正誤表

第1分冊

PDF 表紙・図版・目次 新しいウィンドウで(PDF:1.39メガバイト)

PDF 第1章 調査の概要 新しいウィンドウで(PDF:536.6キロバイト)

 

第2分冊

PDF 第4章 発掘調査の概要 第3節 各地区の概要と発掘成果(4/4) 新しいウィンドウで(PDF:11.95メガバイト)

PDF 第5章 総括(1/2) 新しいウィンドウで(PDF:22.7メガバイト)

PDF 第5章 総括(2/2) 新しいウィンドウで(PDF:16.33メガバイト)

PDF 第6章 熊本城の調査研究と課題 新しいウィンドウで(PDF:1.23メガバイト)

PDF 第7章 付編(1/2) 新しいウィンドウで(PDF:23.47メガバイト)

PDF 第7章 付編(2/2) 新しいウィンドウで(PDF:16.06メガバイト)

PDF 奥付 新しいウィンドウで(PDF:505.2キロバイト)

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■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 29(原文35分)

2020-05-24 09:36:16 | 史料

            有吉・志水
35         間頼母・伯耆なと舟合待候へと申たる由候 是
          ハ 上使之御衆からの被仰様ニて■御座有間                            ■候と思えるが?不要文字か?
          敷候頼母伯耆なとか 立允様を留可申ため
          私ニ申し候と被 思召候間能々可申上之旨奉得
          其意候被成 御意候ヘハ左様成儀も可有御
          座候哉 立允様河内村ニ被成 御座候時ハ頼母
          大矢野へ渡志はやきを仕居候 其後陳ニ
          上使衆御座候て志はやき彼是も被仰付之
                上津浦
          由候 此段ハかうつらニて熊本勢申候ハあけ
                         勢子?
          のき候大矢野之あき家野山をやきせこ
          たち山をからせ候へと 上使衆被仰■ニての          ■罷か?
                 (文章もしくは文字が一部脱落しているのではないか、意味不明・・???)
                          上津浦
          にも火をつけさせ日をくらし候故かうつらへ
          於そなわりしと万民口々ニ申候を承候 又
               三角
          御国之内ミすミにて 立允様ゟ 上使衆へ
          私御使ニ被遣候時 甚三郎殿被仰候ハ 立允様御
                                    23歳
          若御座候間御さきかけをも可被成候左様之
          儀ニて無之候 上様ゟ之被 仰出ニハ味方之
          人数を壱人もうたせす一揆をふろふし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この一連の「志方半兵衛言上之覚」に於いては、随所に「志はやき」「芝やき」という言葉が現れている。
当方ではいろいろ資料を読むなど調べてきたが、意味を測りかねて上記のような表示をしてきた。
その中で、このことにお気づきになられた方から、お尋ねをいただいたが現況確答が出来ない状況である。
今回(原文35)においても「志はやき」という表記があるが、これは有吉頼母が大矢野でこれを指示していることが伺え、次項では上使衆がこれを「彼是も被仰付」とある事からすると、幕府軍からも命令されて実施していることが判る。
「芝、志は」とは「柴」であり、「おばあさんは山へ柴刈に行きました」の柴で、山野に自生する小さな雑木である。
これを焼いている状況が見て取れる。

その後に続く記述には、上使衆が大矢野島の明(空)家を焼き、山を焼き、苅らせと命令していることが判る。
これはいわゆる戦場に於ける「射界の清掃」とは違う性格であり、山や田畠を焼き、切支丹たちの隠れ住む場所や食料の供給をなくそうとするものであろう。
「芝やき」もまた、同様の意味を持つ言葉であろうと推測されるが、断定に及ばないでいる。
つい先ごろ亡くなられた、立教大学名誉教授の藤木久志氏の著「雑兵たちの戦場」をみると、戦場の村の苅り田や放火などは戦術的に日常茶飯であったことが伺える。


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■細川小倉藩(240)寛永五年・日帳(正月廿七日)

2020-05-24 06:40:34 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正月)廿七日 

         |
         |    廿七日
         |
河喜多八助眼病  |一、河喜多八助ゟ、古田七左衛門を以被申越候ハ、眼気殊外悪敷候間、中津近所ニ、主眼ニ合薬御座
         |  候間、罷越、羪生仕度候通、被申越ニ付、加然通申候事、
         |  (村上景則)
村上景則相続ノ礼 |一、長岡河内、夜前中津ゟ為御礼被参候、 三斎様ゟ之 御書も参候ニ付而、古屋七左衛門持被上候
ニ中津ヨリ来ル  |  へとも、はや御門立申ニ付而、我々所へ被持参候を、則我々両人持上り、 御前へ差上申候、河 
         |  内ハ今朝御礼被申上、被成御振舞候事、
         |  (松井興長)
         |一、式ア少殿、此中御煩にて候つる処ニ、被成御快気、今日被成御登城候事、
村上景則主知行惣 |一、長岡河内方ゟ、平左衛門を以上被申越候ハ、はやき申事にて候へ共、大坂御普請諸役之者なと仕立候
成ノ算用ヲ求ム  |    村上景広
         |  間、八郎左衛門知行去物成之儀、差引被仰付候て可被下候、又前廉八郎左衛門御供ニ罷上候時ニ
戻米       |  戻米なとも有之様ニ承及申候、左様之段をも差引被仕候様ニ、金子・中神ニ被仰渡可被下候事、
景則ノ算用    |一、河内儀ハ、惣別小倉御米をかり申間敷通、前廉 三斎様被 仰付候、今又八郎左衛門跡 仰
         |  付、壱万石ニなり申候とても、得 御諚候ハねハ御米かり申儀罷成申間敷と存候間、左様ニ御座候
景広馬乗ノ借米  |  ハヽ、八郎左衛門馬乗共ニかし被下御借米之分も返弁可仕候、しかれとも、今ほと米の手廻何と
忠利ノ袖判ヲ請ケ |  も罷成間敷候間、 御袖判をも申請、銀子にて上納可仕と存候、いかゝ可有御座候哉と被仰聞ニ付
銀子ニテ上納スル |  而、此方ゟ申候ハ、米と銀とのさわけの様子ハ、惣積り仕ものと談合仕候ハねハ、とかくの御返
ハ如何      |  事難申候由申渡候事、何時御返弁候とても、請取可申由、申渡候事、
         |          〃
         |一、右八郎左衛門知行分、去物成ともニ、長岡河内方へ急度被仕、渡候へと、加藤新兵衛・栗野伝介
         |  ニ申渡候事、
諸方ヨリノ書状  |一、京都長講堂へ被遣候御使者、歩之御小姓衆吉村次左衛門被罷下候ニ、
         |  一、章林院ゟノ御返書ノ御文箱一つ、
         |  一、加々山主馬へ当り申、あら川と有之御文箱壱つ、
         |    菅(定芳)  
         |  一、■沼織ア様ゟノ御返書壱つ、
         |  被持下候事、
         |   (直時)
         |一、嶋田越前様ゟ之御返書之御文箱壱つ、御船頭中靏ニ左衛門持下候事、
嶋田直時ヨリ鴨ノ |一、嶋田越前様ゟ、鴨のたゝき・のこのわた入申箱二つ、内壱つハ 三斎様へ被進之由、御船頭ニ左
叩海鼠腸     |  衛門持下候、
京ヨリノ鼓革調緒 |一、京都ゟつゝミのかわ・しらへ入申候しふかミ包壱つ、吉村次左衛門被持下候、南畝小兵衛ニ渡被
ヲ奥納戸奉行へ渡 |  申候事、
ス        |
木綿足袋     |一、吉村次左衛門ニ、長講堂ゟもめんたひ二束給候由、被申候事、
村上景広家屋敷之 |一、村上八郎左衛門家屋敷之帳、幷道具も有之帳被差上候事、
帳幷道具ノ帳   |                                      (皆川)(林)
村上景広遺物ノ刀 |一、村上八郎左衛門遺物ノ刀一腰箱ニ入、茶碗壱つ箱ニ入、書置文箱ニ入、右野分、治ア・隠岐両人
幷茶碗   遺書 |  へ相渡申候事、
         |                                    (沼)
菅沼定芳へ野雁ノ |一、正月六日ニ、歩之御小姓吉村次左衛門、御使者ニ京へ被成御上せ候時、菅紹織ア様へ被進候野雁ノ
羽失念シテ渡サズ |  羽ノ入たる箱、次左衛門ニ不相渡、此座敷たなノ下ニ入候て在之候、此儀、此中ハ知レ不申候処
         |  ニ、今日自左衛門罷下、被申候ハ、織ア様被仰候ハ、野雁ノ羽を被下候由、 御書ニ相見え候へ
         |  共、羽ハ不参候、如何候て不参候哉、使取おとし申候哉と、被仰ニ付、京都ニて相尋候へ共、
         |                              
         |  無之ニ相究、罷下申由ニ付、たつね申候ヘハ、右ノ仕合ニ候ニ付、三宅勘三郎を以、此段申上候
         |                              〃
         |  処ニ、 御機嫌も損不申由、勘三郎被申候事、但、 御前ニハ右之段々ハ不申上、失念仕、渡不
         |    
         |  申由〇申上候事、 

 

注記:
今回の記事に於いては、村上景広の死去に伴う息・景則の家督のことが取り上げられている。次回の記事にも続きの記事があるが、特に表示した。
景広は能島・村上水軍の出で村上隆重の嫡男で備中笠岡城主であったが、大阪の陣に於いて随身していた毛利氏が敗北するとここを離れ、細川忠興の招きにより10,000石で召し仕えた。寛永4年10月1日死去した。これを受けて忠興は息・景則に父・景広に遺領10,000石を相続させた。
以降景則は、始終三斎の家老職として中津から八代に至り、その死去まで付き従った。三齋死去後の景則は本藩との軋轢があり、離国のやむなきに至った。

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■どくだみの花

2020-05-23 17:56:17 | 徒然

                 どくだみの白きを備前と決めて採り  津々

 散歩の途中のどくだみの花が白い十字をの花を付けて愛らしい。
匂いのきついどくだみは茶花に使われることはない。しかし風情は茶花そのものである。
二三本採りながら、備前の小壷に挿そうと決めた。どくだみは薬草である。
行違う私の手元の花を眺めた老女は不思議そうに私の顔を一瞥したが、まさか花を飾るとは思っていなかっただろう。
私が草花に興味を持つのは、茶道を勉強したことによる。茶道は私にいろいろな財産を残してくれた。

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■読書中「上井覚兼日記」

2020-05-23 16:44:39 | 書籍・読書

 「コロナ暇」の中、「上井覚兼日記」の原文を読み始めた。
原本は重要文化財として東大史料編纂所に収蔵されているが、その写しが鹿児島大学付属図書館に所蔵され、そしてこれを国文学史料館のアーカイブスで見ることができる。
原文を読むのだから読む事さえ大変だし意訳もままならない。故に遅々として進まない。
1、243コマという膨大な量だから、一日2頁で進んだとしても一年九ヶ月ほどはかかるという大部である。
今日は4日目だが、現在10コマに到着していない。

天正二年八月から始まるこの日記は、薩摩の島津義久の家老・上井覚兼が約12年間にわたり記録したものである。
まさに島津氏が豊後の大友等と覇権を争った時代の記録であり、この時期の肥後国を知るうえでは何とか読了したいとあらぬ挑戦をしてみた。
大日本古記録(東大史料編纂所編・全三冊)もあるのだが、古文にチャレンジして汗を流そうと思っている。
古文読解力をUPさせようとの思いもあるが、とんでもない話だとすっかり気付いている。肝試しという感じである。

大日本古記録のほうも、熊本県立図書館が全オープンの暁には出かけて眺めてみようと思っている。

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■細川小倉藩(239)寛永五年・日帳(正月廿五・六日)

2020-05-23 06:48:18 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正月)廿五・六日 

         |
         |    廿五日
         |
         |                                       御
小々性等ノ内ノ者 |一、御小々姓衆ノ内もの御穿鑿被 仰付儀ニ而、大勢しちへや・籠へ御入被成候、右之奉行ハ横田権
ノ詮索ニ大勢質部 |  佐・湯浅角兵衛両人ニ、与之衆被成御添被 仰付候、
屋牢ニ入ル    |
         |                                     (立成)
岡本蔵人内ノ者ヲ |一、岡本蔵人内のもの九人ともニ、今日 御前相済、しちへやゟ被成御出候、道家左近右衛門ゟ状を
釈放シ上方へ上ス |  相そへ、上方へも上せ可申旨、 御意之事、
         |            (近元)
津川近元草履取走 |一、右御小々姓衆ノ内、津川数馬殿そうり取鹿の介と申もの、はしり申候ニ付而、方々堺目へも人を
ルニツキ境目諸門 |  遣、其外御門/\、川口へも申遣、人改申候事、
河口人改ヲ命ズ  |
外曲ノ塀ノ覆ソノ |一、とがわのへいのおゝい、人大勢かけ不申、そこね候所ヲも新敷不仕、そのまゝゆひつけ置申様ニ
マヽ結付クヲ命ズ |  との 御意ニ付、其段則御奉行神西長五郎ニ被申候事
         |

         |
         |    廿六日
         |
         |
津川近元草履取発 |一、津川数馬殿内鹿介、見出申候ものハ、御扶持人之御表屋清介と申ものにて御座候、大門のわきニ
見サル      |                                      (惟英)
捕縛ノ様子    |  むしろをかふり、大わきさしを、ふところ内ニさし居申候、左候而、むかへの竹原清太夫屋敷
         |  ははしりこミ申候を見付、其儘、吉田少右衛門へ注進仕、少右衛門所ゟ此段被申越ニ付而、我々
         |                                         (浜手)
         |  も参、やしきの内尋申候へ共、居不申付、方々へ人を廻、尋させ申候処ニ、大門のわきはまての
         |  御門
         |  〇御番屋所ノ下水通ニ居申候を、田中伝兵衛前廉召仕申候安東八右衛門と申牢人、田川ニ居申候
         |  か、兵庫所へ見廻参罷出、見付申付候を、余田三右衛門番所ノ下のそき、罷出候へ、わきさしを
         |  も出候へと申候ヘハ、わきさしを出し申候、則三右衛門つなをかけ、引出申候処・奥村少兵衛両
         |                           〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃
         |  人ニ而引出申候、其の外数多寄合、つなをかけ申候事、
         |   (久盛)
中川久盛ヨリ音信 |一、中川内膳様ゟ御飛脚参候、御音信ニ、野大根・鴨三つ参候、御状も参候事、
         |一、右内膳様ゟ之御飛脚ニ、其まゝ 御返書申候ヲ、古庄次左衛門ニ持せ遣、御飛脚ニ渡させ申候
         |  事、
         |

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■秀吉公お出まし

2020-05-22 17:22:51 | 歴史

                                   

 昨日今日にかけて各種メディアは、大阪市の大宮神社から檜造りの豊臣秀吉像が見つかったことを報じた。
没後420余年となるがいつ頃の作品か、しかし状態も良く顔の表情なども見事である。
この神社は豊臣家により大坂城の鬼門を護る神社とされたが、これは徳川時代においても同様であったとされる。
そこに密かにこのような木造が収蔵されていたのである。神社が徳川家を慮って隠し置いたものであろうが、よくぞ今日まで残されたものだ。

 豊臣秀吉没後の豊国神社に対する徳川家康の扱いは容赦ないものであった。常軌を逸したものがあった。
豊国神社の創建は慶長四年だとされるが、吉田神道家が大きくかかわっている。「兼見卿記」で知られる吉田兼見により秀吉は神となり祀られた。そしてその弟である梵舜は神宮寺の社僧となって豊国神社の建立から破却に至る時代を生きている。
又兼見の子・兼治(室は細川幽齋女・伊也)は宮司を勤めたが、その三男兼従が梵舜と共に苦労を共にした。
後に豊国神社の別当となった梵舜は豊臣・徳川を問わず多くの武将の知る所となった。
しかし、大阪の陣後の家康の豊臣家に関する扱いは異常なものとなり、豊国神社は二次にわたり徹底的に破却された。
豊国神社の参道は妙法院により塞がれ、神宮寺も又没収された。
梵舜はひそかに豊国神社のご神体を、自邸神龍院に持ち帰り「鎮守大明神」として守り続けたという。

 豊国神社が再建されるきっかけとなったのは、明治二年明治天皇による再興の沙汰があってのことである。
お言葉には「大坂に於いて」とあった。それがために大阪の豊国神社(ほうこくじんじゃ)の建立のために選定された地こそが、中之島にあった細川家大坂屋敷の跡である。その後二度遷宮して現在の地に収まった。
またかって家康によって破却された秀吉の埋葬地・京都の豊国廟豊国神社(とよくにじんじゃ)と共にまた整備がなされた。
長い間、徳川家により祭祠さえも禁止されたきた秀吉が、死去から300年を経てそれぞれの地で大歓声を持って迎えられたのである。
                            参考:津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」

しして今回発見されたこの木像も、不運な歳月を経ながらついに日の目を見た。
秀吉フアンにはたまらない朗報であろう。

コメント (2)
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