(寛永五年正二月)朔日・二日
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| 朔日
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| (長浜、規矩郡)長浜ラーメン発祥の地
忠利遊漁 |一、今日長はまへ、あミ御引せニ被成 御座候事、
| 朱貝
三斎へあけ貝進上 |一、三斎様へ為御音信、あけかい弐桶被進之候、御使者ニハ谷小八郎被参候事、 御書箱壱つ、中津
| 御奉行衆へ、飯田才兵衛・坂崎清左衛門ゟ之そへ状壱通相渡候事、
| (衛冬)
谷衛友ヨリ使者 |一、谷助兵衛殿ゟ被仰聞候ハ、谷右兵衛所ゟ使者差越申候、使者之名ハ沢瀬加兵衛と申候、御次手を
| 以、立 御耳候様ニと、被仰越候間、 御帰城次第可立 御耳通、御返事申候事、
| (曽根村、規矩郡)
打チシ丹頂鶴ヲ郡 |一、そねの源兵衛、たんちやう之靏壱つ打候て差上候、小崎與次兵衛・平井五郎兵衛持被上候事、
奉行持参ス |
八幡松ノ坊へ初穂 |一、八幡松ノ坊ニ、御初穂銀弐枚被進之候、但、当年之御初穂銀也、
銀二枚 |
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| 二日
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|一、上田太郎右衛門尉、知行所へ可参旨、御暇被下候ま、罷越申候、頓而罷帰由被申候事、
中川久盛へ鶴ヲ贈 |一、中川内膳様へ、靏一つ被進候、幷御内中川加賀守殿へ、御馬一疋被遣候、御使者ニハ今橋三右衛
ル | 門被遣候事、
谷衛冬ヨリ紫革 |一、谷宇兵衛殿ゟ御使者参候、御音信ニハ紫かわ五枚持参候事、
| (近江滋賀郡)
菅沼定芳へ鷹ヲ贈 |一、膳所へ御鷹すへ被遣御鷹師、礒辺三右衛門也、大坂ゟぜゞ迄ノ餌もちニハ、大坂川舟ノ加子を遣
ル | 可被申由、寺嶋方へ可申遣事、
|(異筆)
脇差ノ請取 |「一、朝山斎内少介わきさし壱つ、我等請取、慥ニ相渡申候、 酒井七郎右衛門(花押)」
| (忠広)
|一、加藤肥後様内並河志摩守所ゟ、又飛脚被差上候事、
| (国遠)
宇佐旧記下着 |一、宇佐旧記ノ下着被仕由ニて、小紙三帖、道倫ニ渡申候事、
|一、御大工之作兵衛ニも、弐帖渡候事、
| (銭)
並河志摩守飛脚へ |一、並河志摩守所ゟ之飛脚ニ、壱歩一つ被下候、京鏡壱貫文可被遣之旨、 御意ニ候へ共、京鏡無之ニ
京銭ナク壱歩銀ヲ | 付而、壱歩を遣申候事、
給ス |
| (長門豊浦郡)
高麗鷹ノ売価 |一、下関ゟ高麗鷹うりニ参候を、壱居被成御買候、代銀ハ壱貫八百六十目にて候事、
| 寛永三年後水尾天皇伏見城行幸
行幸時ニ鉄炮足軽 |一、去々年行幸之時、御鉄炮衆見苦被 思召ニ付、もめんノ■白キはだ着三十被 仰付、御きせ被成
ノ行装見苦シトテ | 候、是を持下置候へ共、于今払不申候、いつれへ払可申候哉と、井門亀右衛門与小玉角介・国友
白木綿ノ肌着ヲ着 | 半右衛門与伊加利久左衛門両人申ニ付、安場二左衛門方へ渡候へと、申渡候、何かと今迄払候儀
セシム ソノ肌着 | (坂崎成政)(永良長兵衛)
ヲ武具奉行へ渡ス | 相延候哉と、申候ヘハ、坂清左・永長兵なとへ度々申候ヘハ、御いそかわしく候とて、埒明不申
| 候、其上京二て、谷忠兵衛殿ゟうけ取申二付、忠兵衛殿へも数度申候へ共、埒明不申、今迄延引
| 仕由、申候事、
| (村上景則)
長岡河内家来ノ召 |一、古や七左衛門被申候ハ、御ふち人入江田小左衛門子八助と申もの、今迄長岡河内守所二めし遣置候4
抱ヲ乞ウ | へ共、暇を遣申候、八介申候ハ 殿様歩ノ御小姓衆ノ明所も御座候ハヽ、御奉公ニ罷出度奉存候
景則方ニ構ナシ | 間、各様へ申てくれ候へと申ニ付、如此候、河内かまいハ少も無之由被申候、頭衆と可有御談合
| 由、返事申候事、
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高麗鷹のお値段
・ 銀一貫は、1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛
・ 当時(江戸時代前期)における金一両は銀貨六〇匁に相当するものとする。
・ 金価格については特定しがたいが、ここでは一両を80,000円と仮定する。
・ これらのことから銀一貫は、80,000円×(1,000匁÷60匁)≒1,330,000円
・ 高麗鷹の値段「壱貫八百六十目」は、
1,330,000円×1,86=2,474,000円 250万円ほどですが、さてこれが高いのか安いのかよく判りませんね。