ある方からメール添付で送っていただいた熊本城の写真、
昭和初期といった風情だがさて撮影ポイントは何処だろうかとのお問い合わせもいただいたが、頭をかかえてしまう。
右側の石垣の出張りの先に見える建物は加藤神社でしょう。
乗り合いバスに隠れて見えないが後背部の石垣は何なんだろう?こんなに低い石垣があったかな~・・・
撮影ポイントは「不開門」に至る登坂入口(バスの位置)のやや手前といった処か、プリントアウトして、今度この辺りを歩いてみたいと思います。
ある方からメール添付で送っていただいた熊本城の写真、
昭和初期といった風情だがさて撮影ポイントは何処だろうかとのお問い合わせもいただいたが、頭をかかえてしまう。
右側の石垣の出張りの先に見える建物は加藤神社でしょう。
乗り合いバスに隠れて見えないが後背部の石垣は何なんだろう?こんなに低い石垣があったかな~・・・
撮影ポイントは「不開門」に至る登坂入口(バスの位置)のやや手前といった処か、プリントアウトして、今度この辺りを歩いてみたいと思います。
昨日今日と風速10m程の風が吹き荒れています。梅雨入り以来大雨にもならず、今朝も時折太陽が顔を出していますが、午後は小降りの予報です。
時折強い風が部屋の中を行き抜け、私の足元の史料などを吹き飛ばしたりしています。
余りの風の強さに、御近所の庭の虎落が倒れたり、植木鉢が落ちて割れたりしています。近所のマンションのベランダには、主が外出中なのか洗濯物が大暴れしたり、まだ取り込まれていない鯉のぼりの矢車も大回転したり大事です。
散歩に出ても風でおされて前へ進めない有様で、今日は短距離ですませましたが、木々の小枝が折れて散乱して道路を走り回っています。
そんな中、奥方は所用で出かけましたから、私は留守番を仰せつかりました。
今日の熊本は30度越えになるようですから、そろそろ窓を閉めてクーラーを入れて、読書三昧で過ごすことにしましょう。
皆様もご自愛くださいませ。
5月初旬愛知県豊田市の取水堰の底が抜けるという珍事が発生した。
こういうことが発生するのだと驚かされたが、TOYOTAをはじめとする工場や、田植え時期の農業用水の取水が出来ないという異常事態となった。
当時はメディアも大々的に報道していたが、最近ではWEB で調べてもよく判らない。
熊本は水の宝庫で水道水も湧き水だし、こういう話はよそ事のように思っていたが、よくよく考えると全県下という話ではない。
昔の人たちが苦労をして用水路を作りこれが現役で活躍してい居る所は多い。
「熊本藩年表稿」をみると、米の収穫が干ばつに依って大打撃を受けたことの記録が多くみられるが、各地に灌漑の施設が行きわたっていたという思いで考えると間違うことになる。「肥後藩農業水利史」という本田章男氏の著によると、降雨量の少ない時期川上で取水し、水争いが多くあったことが記されている。
また、鹿子木惟善著「歛法問答」では、白川の課題開発であると、意外な指摘がある。
藩の重臣の御赦免開き地に引き込まれたものらしく、漏水もひどいと鹿子木は指摘している。
下流域の惣庄屋や郡代などの申し立てにより話し合いも行われているようだが、川下側の不利は否めない。
藩の米の収穫は、藩全域の問題でありまさに農業用水の管理問題は重大事であった。
雨ごい・虫追いなどの行事も真剣事であったろう。
矢部の通潤橋の建設などが、まさにその土地の農民たちの総意にもとづく郷納金で賄われ建設されたというダイナミックな話も、まさに農業の命である水を求める切実な思いがなさしめた成果である。
今は観光の大事な目玉であるが、まだ現役である。
寛永十四年天草島原にて一揆が勃発した。押し詰まった極月(十二月)廿五日の長岡監物宛長岡佐渡(興長)の書状を読むと、光尚をはじめ諸将、未だ出陣もままならず河尻に詰めていることが判る。
頼母佐(有吉)は嶋原に被遣候人数之惣司として渡海仕筈ニ付、直ニ河尻ニ罷在、佐渡守・監物両人之内も壱人宛河尻ニ詰、
諸御用弁シ候様被仰付、興長則罷越候処、左候而ハ熊本にての御用筋不便利ニ付、監物・頼母ニも申談、其趣等申上候、
右ニ付廿五日佐渡守河尻より監物ニ遣候状
一筆申入候、拙者儀何とそ仕、今晩罷帰候様ニ可仕候、然ハ其元ニ両人居不申候而ハ不成儀ニ候通、
沅西堂へも委申候処ニ、一段尤之由ニ而、何とそ仕貴様無御越様ニ仕度存事候、拙者も罷帰候ハゝ、
御用之外は此地へ不参様ニ爰元相済シ罷帰度存候、併此段いまたしかとハ究り不申候、昨日我等罷越
候刻なんばんつけ物つほのちいさきを一ッ持参仕、肥後様へ上ヶ申候間、貴様も御越之儀ニ候ハゝ、
何にても手かるき物を御持参可然候、爲御心得申入候、将又榎津へ舟廻シ候へとの 公儀御触状之
写今朝参、請取申候、爰元も何かといそかわしき体ニ而御座候、面上ならてハ不得申候、恐惶謹言
極月廿五日 長 佐渡(判)
長 監物殿
人々御中
尚々、夜前も鳥うたひ時分迄 御前ニ相詰、ひざのいたさ草臥申候事可被成御推量候、以上
三卿家老の内、有吉頼母佐は嶋原に渡る「人数之惣司」(総大将)で河尻に詰めて公儀の指示を今か今かと待っている。
松井佐渡(興長)は御用繁多である。光尚の御前に「鳥うたひ時分」(鶏が啼き始める時分)詰め、膝の痛さで草臥れているというボヤキが面白い。「面上の上」(お会いした上)でなければ申し得ずとはまさか膝の痛さと草臥れの話ではあるまい。細川家筆頭家老の重責は重い。秘密裏の話は直接対面の上という訳だ。
ここに詰めている訳にはいかず、御城へ戻りたい、そして監物(米田是季)と入れ替わろうとの話である。
自分が光尚に届けた土産を示し、同様の物を持参するように指示がこまかい。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」にわんどという言葉が出てくる。
ウイキペディアを見ると、その説明に少々筋違いな表現が見える。
「ワンドは、淀川の改修工事によって生まれたものであり、もともと局地的な用語であった。明治期に行われた淀川の改修工事では、蒸気船が遡行しやすいように、あえて水路を曲折させて流れを緩める工事が行なわれた。水路が曲がった部分は水圧の影響を受けやすいので、岸から川に向かって垂直に水制とよばれる河川構造物を設置した。やがてこの水制に囲まれたところに土砂がたまり、その上に水際を好む植生が繁茂し、現在のワンドの元の形が作られた。」とある。
どなたが書かれたものか判らないが、200数十年前の熊本では、すでにワンドは言葉としても治水・利水の機能として存在していた。
上記ウイキペディアではその語源として「入江や川の淀み、淵などを「わんど」と呼ぶ地方があり・・・」と書いている。熊本のわんどはこれに近いが、これとて説明不足で、熊本のわんどはこれらの機能を形成させるために人工的に作ったもの、または水制の「堰や刎」などに依って自然に形成されたものを含めての総称である。
ウイキペディアが記する処を、大正解と考えてはならない一例である。(ほかにも多々あるが・・・)
他にも手元にいろいろ熊本城関係の本はあるのだが、私が疑問に思う事に答えを得ようとこの四冊を精読している。
Ⅰ、隈本古城史 1984・11・30 熊本県立第一高等学校
Ⅱ、入門江戸時代の熊本 1994・ 4・ 1 松本寿三郎編 三章文庫
Ⅲ、加藤清正・築城と治水 2006・ 5・27 谷川健一編 冨山房
ⅳ、熊本城・歴史と魅力 2008・ 3・30 富田紘一著 熊本城顕彰会
発行年を見ると、14年前には私の疑問に対する説明はいろいろなされていたことが判る。勉強不足がはなはだしい。
もっともこれらの本を私が手に入れたのは、Ⅰについては最近の事である。
ただし私の疑問にたいして、これらの著が確答いただいているわけではない。以下私のQとAである。
Q1、茶臼山ト隈本之絵図
1、制作時代の比定
A・「Ⅰの前史の付論として森山功氏の茶臼山ト隈本之絵図についてという論考があり、工藤敬一・阿蘇品保夫・富田紘一氏
らとの意見交換により、千葉城築城以前を示したもの」とある。
2、四木社や神田原の位置(坪井川の川向うに描かれている)
A・この問題に対する答えは見受けられない。「書き間違え」という記述も見えない。
3、白川の流路の変更の時期と自然河床か人口河床か
A・この問題も確答は見受けられない。
Q2、熊本城築城の時期
A・慶長六年着工(続撰清正記)~十二年完成(乃美文書)とした一時期の論考は影を潜めている。
現在では大方が三年着工としているが、裏付け史料として「Ⅱに於ける森山恒夫雄氏の論考「隈本から熊本へ」において、
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺覚」の「慶長三年建て方」の記述を採用されたことは画期的である。
Q3、白川の蛇行の原因
A・茶臼山ト隈本之絵図の成立年において直流していた白川が、慶長国絵図で見られるような蛇行の原因についての積極的な
発言は見受けられない。京町台下を迂回して流れていた坪井川は、かっての厚生年金会館の建築にあたっての地盤調査で
人口河床である事が証明されている。本来の流れは「堀」として残されていたのだろう。
それを考えると私は熊本城築城時に人工的に開削して坪井川につないだと考えて居るが、何の根拠もない。
(どこかの大学で模型でも作って実験して極めてほしい。)
Q4、細川時代に継ぎ足されたという二様の石垣上に、加藤時代の本丸御殿があることに就いて
A・本丸御殿の建設の目玉とも思える「昭君の間」が細川時代に継ぎ足された石垣の上に存在するという事は、次の二択しかない。
1、昭君の間が石垣の継ぎ足し後(細川時代)に立てられた
2、細川時代の形式だとされる石垣が、加藤時代の石工に依って建設が済んでいたこと
私は(2)としなければ、この二様の石垣は説明がつかないように思う。
追記 : ■軌道修正か「二様の石垣建設年」で書きましたが、加藤時代という事になったようです。
毎日何かしら探し物をしている。時間の浪費がものすごいから、これがすっと見つかると大いに有難いのだが数日たっても見つからないものがある。
人生、随分損をしていると実感させられる。
私の悪い癖で、いろんな調べ物をするとき書き散らかしてしまう。
これをパンチングしてまとめようと思うのだが、見つからないとその原稿がまた行方不明となり、これを又探すという莫迦なことをやっている。
この間、本の山崩れで足の小指を痛めたが、その場所には又小山が出来てしまった。
探し物は「見つけにくい物」ではなく、ただ行方が分からない「A4の穴あけパンチ」(商品名ゲージパンチ)である。
二穴パンチで事すませて、とじ紐で結んでおこうと考え着いたが、こんどはその二穴パンチが見当たらない。
どうも身近なところではない感じがする。ゲージパンチと二穴パンチは何処か一緒の所に隠れている。
あるとすればTV台の下の飾り棚があやしい。爺様のこの推理は正しくて棚の中の紙箱から古い電卓などと共に見つけ出した。
問題は、これを思い出すのに二日かかったという深刻な事実だ。脳細胞の凄まじい崩壊に唖然とする。
■内藤市之允は、(南東29-8)内藤九八郎家の6代目・平左衛門(市之允)
寛政三年四月~寛政八年九月 飽田詫摩郡代(寛政七年一月 市之允ト改名)、寛政八年九月~享和三年六月 玉名郡代
享和三年六月~文化元年十二月 奉行副役、家紋は「丸に小文字紋」
■内藤五兵衛は、(南東29-6)内藤五兵衛家の7代目・喜一(五兵衛)、家紋は「丸に流鼓紋」
■内藤は、 名前の記載がない、家紋は「丸に剣花菱紋」
■内藤長十郎は、殉死の家(南東29-5)内藤信之允家の9代建司(左大夫)か。2代長十郎・元続 は忠利に殉死、隠居していた父が跡式相続し、長十郎の弟が相続した。家紋は「丸に杏葉」もしくは「丸に茗荷」いずれか特定できない。
■内藤宗賢は、御医師で【青龍寺以来】【田邊城籠城衆】(南東56-15 医) 内藤宗賢家の8代宗賢。家紋は「日の丸扇紋」
■永井紋右衛門は、(南東28-9)永井謙吉家、代々紋右衛門名乗りの人が多く、人物の特定が出来ない。
家紋は「隅切り立角に花菱紋」
■永井 幸琢は、【丹後以来】御医師(南東56-16 医)永井幸淳家の5代、家紋は記載なし
■中村茂助は、【青龍寺以来】(南東29-17)中村新平家の8代目。初代新助妻は忠興公御乳母(父藤孝公、義昭公御漂伯
御供の折、町屋に隠れ御育永禄十一年御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死
家紋は「丸に毬寄せ紋]「丸に抜け九曜紋」
■永広格蔵は、(南東28-23)永廣次郎八家の5代目。消息として「文化七年五月七日:永廣格蔵、祖父老衰ニ付、医薬等不便利ニ付、
出府所江養母差添置申度段相達候付、其通及差図候段、組脇より届候事 (熊本市史資料編第三編p260在宅願頭書)」とある。
永広姓は熊本市の出水の長溝地区に多く居られたように思う。家紋は「隅切り平角に千切紋」
■永田司馬記は、(南東26-17)永田 正家の8代目司馬記(十左衛門)である。家紋は「丸に違い角」「一文字に三つ星」
■永田仁三兵衛は、(南東26-19)永田武左衛門家の6代目、嫡子の傳之助(金左衛門)は奉行職へ上った。
家紋は
■永田一郎は、(南東28-13)永田内蔵次家の5代目。家紋は「一つ右巴」
■永山八郎助は、不明
■永松民熊は、(南東26-16)永松庄之助家の8代目。家紋「隅切り平角に左三つ巴」「 」
■永屋市兵衛は、(南東26-13)永屋伊平家の6代目猪兵衛(市兵衛)。家紋は「 」「 」
■永屋清右衛門は、(南東28-12)永屋大次郎家の6代目。家紋は「蛇の目紋」
■永良弥角は、(南東26-10)永良慶次郎家の6代目。家紋は「丸に左巴紋」
■永良儀右衛門は、(南東28-8)永良壬生彦家の6代目。同上家の本家筋。家紋は同上
■長塩清右衛門は、(南東28-3)長塩清一郎家の7代八百八(清右衛門)か。家紋は「柏巴紋」か?
随分古い史料を引っ張り出して見たら、コピーの文字が消えかかっている。
それもそのはず「感熱式」のコピーだから、年代物である。経年ごとに消え行く運命にあるようだ。
まずはコピーの許や、記事の出典を確認し必要なものについては新たにコピーをするという作業が加わった。
もうこの年だから、また必要とすることはないようにも思えるが、毎日傘寿爺様の脳みそはガラガラと崩壊しているから、覚えることなど論外でコピーしていることさえ忘れかねない。
リスト化が必要だが、そのこと自体を忘れるかもしれんな~と、惨憺たる気持ちである。
CDやUSBでの記録保存も、まかり間違えば誤操作や紛失などで失われることがあるから、二重・三重の安全策を講じる必要がある。
これで「わが家の歴史」の執筆の手が止まってしまった。
最近のある方からのメール、HNだから本名は判らない。
「150石取りだったがある時から突然100石になった」と大いにご不満である。
もう15年ほど前だが、「100石とりだったが■石■人扶持」になったと、これは怒り心頭というようなことがあった。
御返事申し上げたがその後は何の音沙汰もなく、納得されたかどうかは良くわからない。
これは我が家でも同様の事があったから、良く理解できる。
先代が亡くなり、跡目を相続するものが幼少であったりすると、その人が成人(元服)するまでの間、このような措置が取られる。
成人すると元の家禄を頂戴し、大概御番方に召し出されるという次第である。
さて頭書の例は、先祖附で確認できないから思いつくまま御返事した。
「100石取りになった方はご養子さんではないですか?」
すると、「えっ、何故わかるのですか」と御返事があり、恐縮された御様子であった。
これとて我が家も経験している。跡取りがなく家女に養子を迎えるとこういう措置を取られるようだが、同じような例がある事からすると、ちゃんとした決まり事として規定があるのだろうが、まだその資料を探し得ないでいる。
これらは一種の救済措置であろう。
有名な高禄の某家では、数代養子がつづいているが、その間でやはり同様の措置が取られているようだ。
但し同族別家からの養子では減石はないように思える。
そして宝暦期以降に於いては、知行分けによる別家創立は家禄500石以上家と限られたようだ。
ということは、分家が認められない500石以下の御宅では、養子を迎えると減知になる可能性があるから、なんとか男子を産みたいという思いがお有りだったろう。
私がいまいち理解できないのは、男子を幼少期に養子に入れられるケースがある。これが相続に当たりどうなっているのかが良くわからないでいる。
ご存知の方がおられたらご教示の程を・・・
肥後細川家侍帳 著者 松本寿三郎 出版社 細川藩政史研究会 刊行年 1980年
「えつこんなものがあるの」と一瞬驚いてしまった。
「熊本藩侍帳集成」が出る前に、上記と同じ名前の黄色い表紙の冊子が4冊出たことがあるが、その合冊本だろうか?
4冊の冊子は1977~79年にかけて発刊されているが、この本は1980年とある。やはり合本だろう。
だとすれば市販はされていなかったのではないか? ちょっとしたレア本のような感じがする。
毎日という訳ではないが、「新・細川藩侍帳」を整備を続けている。
自分ながら莫迦なことをしていると感じているのだが、なんだか生き様を残そうとあがいて来たようにも思える。
何か大論文を書こうというのではなく、ただただ資料を集めて、侍帳に反映させる作業だから、頑張りさえすれば出来るという感覚はある。
むかしこのサイト発足時には「他力本願的」という言葉を冠していた。
まさしく人様の御手を借りてという手の内を見せている。腹黒い虫の良さでスタートした。
色々な方から有難い情報を得ながら、ここまで来たという感じで、その意味では私の目論見は当たったという事になる。
ただし、いつあの世からお迎えが来るかもしれないから、できれば跡を継いでくれるような方はいないかと考えるのだが、本当にこんな作業をするもの好きの方は見当たらない。
「平成肥後国誌」を編纂されたDr高田のご苦労に比べれば足元にも及ばないが、やり始めたら足が抜けない感じもある。
現在公開している「新・細川藩侍帳」も一応の体をなし、いろんな方に活用していただいているように御見受けする。
色々な加筆変更はUSBに落とし込みながら進めているから、随時ご覧いただける環境にはなっていない。
だから、私がくたばるとそのデータがUP出来ないから、現況で一度UPしておくべきだろうとも考える。
私が生きた證などという大仰なことではなくて、たんなる酔狂の至りなのだが、それはそれで極めてみようという心境である。
もう「いつまで」等とは言わず、毎日の過程が完成品と思って力の抜けた感じである。
唯今、今日の完成を目指してタイピングの作業中である。
熊本史談会6月例会に出席する。今日は「西南戦争」研究の第一人者・勇知之氏の講演である。
会員出席16名に加え、ビジターも同じくらいの方々の出席を得た。
前半45分は会の例会で、連絡事項その他で時間を費やす。10時開演の予定だが勇先生の姿が見えない。
会長はじめ役員の方々がそわそわし始めた。電話連絡もつかないようだ。5分が建ち10分が経過すると、もしや事故でもと考えたり始める。
15分が経ち、30分にもなるとこれは手違いだろうという雰囲気になってきた。
司会者はあの手この手で時間消化につとめられる。そして大番外で突然私にご指名がきた。
未だ随分時間が残っている。まずいなと思いながら、なんとか時間をつぶさなければならない。
特にビジターの皆さんには不快な思いで御帰りになる事を避けなければと思い、頭をフル回転させて30分余りの「余計な話」を申し上げた。
こういう時はくだらない話が良い。時折笑い顔も見えたから善しとしなければならないが・・・こういうのは疲れる。
とどのつまりは、勇先生の土日の勘違いで、全く違う方向にお出かけという事が判ったが、事故ではなくて一安心。
また日を改めて話をお聞きすることになる。
しかし、多くのビジターの皆様が出席されたという事は、皆さんの関心の高さが伺えた。
夫々の家に歴史があり、夫々の方がいろんな歴史の場面に遭遇されているだろう。
今一度「我が家の歴史」を振り返ってご先祖様を偲んでいただきたいと力説・・した。
こういうのは疲れる。しばらく午睡と参ろうと思う。
鳴け聞こう我が領分のホトトギス
出典がどこにあるのか良く承知しないが、加藤清正が詠んだものだとされている。
どなたかの創作であろうが、よくつくられた句ではある。
小領主が割拠してまとまりのなかった肥後の国は、佐々成政の治めるところとなるとその小領主たちが反旗を翻した。
いわゆる「肥後国衆一揆」である。その結果は秀吉にとっては好都合であったろう。一揆衆を成敗し成政をなき者とし、小領主たちは新領主加藤清正の許に服従せしめた。
成政の失敗を良く手本として治世に臨んだ。良い家臣にも恵まれ治水利水の事業は美田を産んだ。
そのために「神」ともたたえられ、地元熊本では「清正公」に二重敬称で「様」をつけ、親しみをもって「せいしょこさん」と呼ぶ。
熊本は「俺が俺が・・」で、個人の主張が強く、意見がまとまらないお国柄であるが、これは小領主の割拠時代の産物であろう。
「聞こう」という清正のこの想いは清正一人のものであったのが残念である。