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Lake Griffin
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紅鮭の西京焼き、枝豆、冬瓜とオクラのスープ

紅鮭の西京焼き
枝豆
冬瓜とオクラのスープ

2021-08-19 20:59:13 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『家は生態系:あなたは20万種の生き物と暮らしている』

 
生態学者の著者は、これまで、生態学は外の世界を見てきたという。人類は含まれるものの、人類を取り巻く「自然」における多様な生物からなる生態系及び生態系サービスを見てきたという。だから、家の中にどれぐらい新生物がいるかをしらなかったという。それに対して、本書が取り上げるのは一軒の家にいる生き物すべてを総ざらえしようというのである。そして、その生き物たちが生態系をなしていて、微妙なバランスで成り立っているというのである。なお、本書ではウィルスは登場せず、細菌や原生動物といった微生物、昆虫、ペット、そして、人間が登場する。

たとえば、花粉症などのアレルギーは、多様な環境に暴露されなかったから、身体の免疫システムが反乱を起こして、自己を攻撃するようになったという。これは、子供が育つ家の内外の生態系が、人間の干渉、たとえば、農薬や殺虫剤、さらには、抗生物質などによる干渉受けた結果、多様性を失いそのことが引き金となって、免疫システムの異常を引き起こしてしまうからだ。我々は人類の一員としての遺伝子を引き継いでいて、この遺伝子のセットは、長い進化の歴史の中で環境の中に暴露されてきた結果、構築されてきたものだ。ところが、人類は生態系に多大な干渉を加えて現代文明を構築してきた。たとえば、火を使うことによって、口に入れる微生物の種類は減ったことだろう。せっかく、多様な生き物からなる精緻な生態系が作り上げられていたのに、生態学的ニッチェに空きができてしまい、体内の微生物の間の競合関係を乱してしまう。さらには、衛生環境をととのえ、抗生物質を手に入れる。また、農薬をつくり、殺虫剤をつくる。おかげで平均余命はのびたには違いないが、さらに、人間を取り巻く生き物の種類をへらす。ところが、生き物の側でも進化戦略によって、薬物耐性を身に着け、おかげで、抗生物質が効かなくなり、生き物との間の際限のない軍拡競争に落ち込む。

そうした状況にあっても、家の中をくまなく探ると20万種もの生き物がいることを(ウィルスを入れれば、おそらくその数はもっと膨大になるはずだ)、本書は教えてくれる。しかし、読者は、それなら、もっと清潔にして、これらの生き物を撲滅しなければ、と考えてはならない。そうではなく、こうした多様な世界をせめて維持すること、なんなら、もっと増やしていくことが望ましいと考えること、これが重要なのではないだろうか。

2021-08-19 14:51:50 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ナウシカ考:風の谷の黙示録』

 
本書が出版されたのは2019年11月であって、まさに新型コロナのパンデミックの直前のことであった。しかし、読み終えてみると、そのタイミングはまさに符合しているように思えてならない。

『風の谷のナウシカ』(ただし、マンガ版)は1983年から1995年にかけて、その全7巻を書き継がれてきた作品だ。通しで読むと、必ずしも、各巻が整合的でない部分があるように思える(本書を読むに当たり、再び全巻を読み通してみた)。本書でも、その読み取りは行きつ戻りつ呻吟をくりかえしているように見える。多様な読み取りが可能なので、全体をとおしてその意図を読み取ることは、難しく思える。しかし、あえて、大まかにまとめるなら、環境や生態系についての著者である宮崎駿の思想(環境観)が背景にふくまれているのがマンガ版『風の谷のナウシカ』ということができるだろう。

たとえば、主要な登場キャラクターである王蟲は腐海を拡大する存在ではあるが、ナウシカは、王蟲が媒介する胞子は、やがては、腐海を浄化していく存在であることを知る。ところが、その王蟲は、科学技術によって千年の繁栄の後「火の七日間」によって滅んでいった文明により、次世代に託された環境復興のために作り出された新生物だった。ほかにも、ヒドラが作られて、「シュワの墓所」とよばれる場所、旧人類の遺産として残されていた。「墓所」は、次世代の文明のインキュベーターなのである。しかし、ナウシカは生き残った巨神兵オーマを使い、それを破壊するのである。人間の力によって環境に介入して環境を作り変えようとする人間の営みを拒否するのがナウシカという存在と読み取ることができる。

本書では、さらに、宮崎駿の作品の背後には千年王国や黙示録のイメージが強く残ると指摘している。これは、宮崎の歴史観を指すものとでも言うのだろうか。

人間は生物である限り、環境と再帰的な関係を取り結んできたはずだ。ところが、農業革命以降、人間は科学技術をうみだし、加速的に人間と環境を切り離し、人間中心の環境を構築してきた。つまり、人間と有用栽培植物、有用家畜のみで作られる世界をつくりあげ、そこに侵入しようとする生き物、たとえば、雑草、野獣、病原菌、害虫などを排除しようとする。そして、その他の環境を隔離しようとする。

明示的にそのような意図を持って科学技術を進歩させてきたとは言うべきでないかもしれない。結果としてそのような文明を作り出してきた。人間の作り出した文化が結果としてそのような、人間中心の世界観を生み出してきたともいえる。ただし、ここでいう、人間は、西欧的科学技術を背景とする現代文明、とくに、先進国の人間を指していると考えてよいだろう。

ナウシカがねがうのは、もっとホーリスティックな環境観(もちろん、宮崎駿のそれ)なのだ。生まれくるものは生まれ、滅びゆくものは滅びる、それら全体をとおして環境を捉えようとする。さしずめ、新型コロナの時代であれば、ウィルスも含めたホーリスティックな環境観、つまり、ウィルスは敵だ、抹殺するということではなく、ウィルスとも調和していこうとするといった環境観とでもいえるだろう。物語の最後で、ナウシカのその後の生き方として、腐海の森に帰っていくという説もあると書かれている。

本書をよんで、あらためて、ナウシカの物語のもつ価値に気がつくことができた。以下の『ナウシカ解読』も合わせ読むと良いと思う。

 

2021-08-19 14:32:05 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『明治天皇(上)(下)』

 
 
おもえば、読み上げるのに時間がかかったことだ。オフィスで昼食を取るとき(毎日というわけではない)、わずかな1章の半分ぐらいの分量を読み進めたからだ。特に他意はないが、決して取り組みやすい読みやすいトピックでも内容でもなかったことは確かだ。

しかし、本書を購入して読み始めた動機はなくはない。先の孝明天皇から天皇位を継承したときから始まる明治という時代は、日本にとって大変革の時代であったこと、それを、一人の人物としてどのように見るのかを知りたかったことがひとつだろう。もちろん、彼の生まれる前から、幕末からその動乱は始まってはいたわけだし、明治天皇自身のちからをもって時代が切り開かれたわけでもない。また、どうしても、内容的には、政治向きのことが多かったし、歴史として学んだことを思い出してくれるものであって、新たな内容にであったわけではなかった。

天皇は自分自身のことを語ることはなかったし、感情を見せることも殆どなかったというから、なんとも伝記を書く上でも大変だっただろうとおもう。時々引かれる御製がそのときの感情(あるいは、考え)を伝えているかに見えるが、かといって、さほど、深い読み込みを必要とするような御製とも思えない。

明治という時代は、武士という家柄に基づく官僚組織や政治組織から、学歴など所定のステップを踏めばだれでもが官僚や政治家(政治家は、学歴よりも三バンをひつようとするが)になれるという、大変革の時代であった。この時代におそらく、官僚や政治家としての行動様式、つまり、天皇の影に隠れて自己の責任を回避するという行動様式がうまれ、また、度重なる戦争を通じて、それが、強化されてきたように思える。

昨今一連の新型コロナの際の政治家や官僚は、おそらく、明治の頃から思考法は何も変わっていないように見える。明治天皇の様なカリスマが消滅している今も、あたかも、架空のカリスマがいるかのような思考法や発想法のように思えてしまう。それこそが、明治天皇の残した最大の遺産かもしれない。

2021-08-19 13:53:10 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )