本書が出版されたのは2019年11月であって、まさに新型コロナのパンデミックの直前のことであった。しかし、読み終えてみると、そのタイミングはまさに符合しているように思えてならない。
『風の谷のナウシカ』(ただし、マンガ版)は1983年から1995年にかけて、その全7巻を書き継がれてきた作品だ。通しで読むと、必ずしも、各巻が整合的でない部分があるように思える(本書を読むに当たり、再び全巻を読み通してみた)。本書でも、その読み取りは行きつ戻りつ呻吟をくりかえしているように見える。多様な読み取りが可能なので、全体をとおしてその意図を読み取ることは、難しく思える。しかし、あえて、大まかにまとめるなら、環境や生態系についての著者である宮崎駿の思想(環境観)が背景にふくまれているのがマンガ版『風の谷のナウシカ』ということができるだろう。
たとえば、主要な登場キャラクターである王蟲は腐海を拡大する存在ではあるが、ナウシカは、王蟲が媒介する胞子は、やがては、腐海を浄化していく存在であることを知る。ところが、その王蟲は、科学技術によって千年の繁栄の後「火の七日間」によって滅んでいった文明により、次世代に託された環境復興のために作り出された新生物だった。ほかにも、ヒドラが作られて、「シュワの墓所」とよばれる場所、旧人類の遺産として残されていた。「墓所」は、次世代の文明のインキュベーターなのである。しかし、ナウシカは生き残った巨神兵オーマを使い、それを破壊するのである。人間の力によって環境に介入して環境を作り変えようとする人間の営みを拒否するのがナウシカという存在と読み取ることができる。
本書では、さらに、宮崎駿の作品の背後には千年王国や黙示録のイメージが強く残ると指摘している。これは、宮崎の歴史観を指すものとでも言うのだろうか。
人間は生物である限り、環境と再帰的な関係を取り結んできたはずだ。ところが、農業革命以降、人間は科学技術をうみだし、加速的に人間と環境を切り離し、人間中心の環境を構築してきた。つまり、人間と有用栽培植物、有用家畜のみで作られる世界をつくりあげ、そこに侵入しようとする生き物、たとえば、雑草、野獣、病原菌、害虫などを排除しようとする。そして、その他の環境を隔離しようとする。
明示的にそのような意図を持って科学技術を進歩させてきたとは言うべきでないかもしれない。結果としてそのような文明を作り出してきた。人間の作り出した文化が結果としてそのような、人間中心の世界観を生み出してきたともいえる。ただし、ここでいう、人間は、西欧的科学技術を背景とする現代文明、とくに、先進国の人間を指していると考えてよいだろう。
ナウシカがねがうのは、もっとホーリスティックな環境観(もちろん、宮崎駿のそれ)なのだ。生まれくるものは生まれ、滅びゆくものは滅びる、それら全体をとおして環境を捉えようとする。さしずめ、新型コロナの時代であれば、ウィルスも含めたホーリスティックな環境観、つまり、ウィルスは敵だ、抹殺するということではなく、ウィルスとも調和していこうとするといった環境観とでもいえるだろう。物語の最後で、ナウシカのその後の生き方として、腐海の森に帰っていくという説もあると書かれている。
本書をよんで、あらためて、ナウシカの物語のもつ価値に気がつくことができた。以下の『ナウシカ解読』も合わせ読むと良いと思う。