『あなたの人生の物語』、著者・テッド・チャン
寝本で読んでいたので時間がかかった上に、書き込みを忘れた。テッド・チャンの短編小説集。くわえて、途中で同名タイトルの映画(ビデオ)をみて、そちらの方を先にアップしてしまっていた。それぞれの短編ごとにコメントを書いているのでそのままに書き込むことにする。
1作目「バビロンの塔」はバビロンのバベルの塔の物語のようだが、空間が円環する物語。
2作目「理解」は昏倒してビタミンKを投与された結果脳が活性化されて超天才になった男、同様の治療経験によって脳が活性化された男との対決に臨むが・・・。
3作目「ゼロで割る」は数学者のカップルの物語ハーバード大学の数学者のレネーは「1=2」というこれまでの整数論ではありえない証明をなし得たという。パートナーのカールはそうした極限の思考に陥ったレネーの自殺未遂に立ち会ったこともあるが、この会話が彼女との接点の最後だと思う。
さて、第4作目が映画「メッセージ」の原作となった「あなたの人生の物語」だ。原作なので映画とは違うことは映画製作上あるいは脚本の展開上の変更だからそれはそれでいい。とはいえ、気になるので気がついたところをまずは記しておこう。
主人公ルイーズ・バンクスと事件の後結婚する相手の名前は小説ではゲーリー・ドネリーだが、映画ではイアン・ドネリーとなっている。
娘の死は25歳の折の登山中の事故のようだが映画では年齢は良くわからないがおそらく10代でがん治療のための脱毛と思しき症状で病床に横たわっていたので娘の死因は異なっている。
小説では宇宙からの飛来物は世界で112、米国には9機飛来しているとしているが、映画では12カ国に飛来となっている。
飛来物の形状は小説ではルッキンググラス(鏡、姿見?)と表現されていて、映画で表現されている巨大な卵型の形状とは色彩や形状とは大きく違う。さらに、小説ではこのルッキンググラスはテントで覆われ、物語はこの中で展開するが、映画では宇宙船の中に入っていく。
宇宙人、小説と映画とも宇宙人に名称はなく「それ」と表現される(小説、映画ともにヘプタポットとも書かれる。由来は、古典的タコ型宇宙人だが、7本足なのでヘプタ、ポットは足の意)。さらに、個体識別のための個人名が不明なので小説ではフラッパーとラズベリーと名付けるのだが、映画ではアボットとコステロとよんでいた。
ともあれ、ルッキンググラス越しのコミュニケーションでは文字による手法とすることになって、人間側もヘプタポット側もコンピュータと表示装置(モニター)を使っている。映画の方はルッキンググラスに吹き付けるようにして文字を描いていたが・・・。
液晶でもない、もちろん鏡でもないルッキングフラスを挟んで言語学者のルイーズは相手言語の理解を試みる。音声による会話を通じた言語分析では不十分と感じたルイーズは文字による対話を通して言語分析を行う方針に転じる。そして、音声言語についてヘプタポットA,表語文字とみなしたものをヘプタポッドBと名付ける。しかし、表語文字(ロゴグラム、logogran)ではなくすぐに、ヘプタポットの文字は表義文字(セマグラム、semagram)であるとみなす(表意文字(イデオグラム、ideogram)ではなく、表義文字としたのはどういうことか)。人類の言語では、数学における数式や音楽における楽譜がこれに当たるという(これは、従来表意文字とされてきたものであるはずだ)。表語文字を複数組み合わせて、誰が何をする(主語、目的語、動詞)を一文字で表現することができると考えた。
音声言語の場合は、時間に拘束される。始まりがあり、終りがある。それに対して図示言語(表義文字)は同時的もしくは共時的あるいはゲシュタルト的に表現が可能。統語(文法)はどう考えればいいのだろうか。
ヘプタポットとのコンタクトに関する物語は現在で、ルイーズ自身の視点で展開される。ルイーズはヘプタボット言語を習熟していくなかで次第に未来へのスコープがが拡大していく。作品の中では現在進行型の物語と、娘との未来の物語が交互に描かれる。翻訳の妙ではあるが文体の違いが興味深い。日本語では、未来は確定しているので「・・・でしょう」という語尾が使われる。ところが、小説はあくまでも現在のルイーズの視点で描かれる物語であるので、交互に現れる現在と未来のセクションはいずれも、現在形で表現される。それを翻訳では「・・・でしょう」という語尾で時間の違いが表現されていることがわかる。映画の映像表現としては、未来の映像として視聴者に見せる(あるいは、そのようなイメージを与える)ことになってしまうのでこれは、文字による表現と映像による表現の相違としても興味深い。
物語は娘の誕生のきっかけとなったゲーリーとの会話「こどもはつくりたいかい?」から始まり、愛がかわされ2年間の短い結婚生活のあとゲーリーとルイーズは別れ、ルイーズは一人で娘を育てる。冒頭の会話にたいするに対するルイーズの答え「いいわ」で物語は閉じられ、娘はふたりによってつくられ彼女の短い人生はルイーズによって物語られたのだ。
5作目は「七十二文字」
「七十二文字」について、全く基礎知識がなかったので読み終わってもよく筋が読めなかったのだが、作品中にある七十二文字がユダヤ教の七十二の神の名前であるとか、また、作品中に登場する「カバラ主義者」であるとか、また、「名辞」(原作ではnameなのだが、たしかに「名前」と訳されていると更に混乱したことだろう)を羊皮紙(とは限らないが、紙に書いて、オートマトン(自動人形)の首にあるスロットに押し込むと「名辞」(この場合はコマンドといったほうが良いか)に示されたように動作するとか(これは、ユダヤ教の神話上のゴーレム=泥人形)いったことがわかりはじめると腑に落ちてくる。ゴーレムは、ロボットやフランケンシュタインといったSF小説のキャラクターのオリジナルでもある。さらには本作品では、人類の再生産についての問題解決のために卵子に七十二文字を書き込むというストーリーも登場する。スチームパンクSFのように理解しながら(現代の科学技術とは異なる発展を遂げた代替科学技術の物語)読み進めていたが、ユダヤ教やゴーレム、カバラもくわわった物語となっていた。
この作品は名辞についての話になっていて、名辞という言葉は聞いたことはあったがあまり深く考えてはいなくかったが、アリストテレス論理学を名辞論理学というのだそうだ。Googleで検索するとこの名辞論理学を現代風の記号論理学に置き換えるという内容のページが多く見られる。とりあえず、色々とクリッピングしておく。
6作目は「人類科学の進化」
超人類が誕生して論文集は陳腐化している。超人類はDNT(Digital Neural Transfer)によって意思疎通しているが、旧人類はそれが理解できない。人類科学に関する論文集の編集者からに文章という体裁を撮っている。
7作目は「地獄とは神の不在なり」
両足が不自由に生まれたニールはその障害を気にしないセイラと平和な家庭を築いていたが、天使の降臨によってセイラを失う。一方、母親の胎内で降臨の影響を受けて足をなくして生を受けたジェシカは、神の試練あるいは恩寵として自身の障害を踏まえて布教活動を行っていたが、新たな降臨によって健全な両足を授けられてしまい、自身のアイデンティティに混乱を生じる。この両者が、天使の降臨がしばしば起きるという地域におもむく。ニールは天国に行ったセイラに再び出会うために。ジェシカは自身のアイデンティティの確認のために。新たな降臨に伴う雷撃によってニールは地獄に落ちてセイラとは二度とは会えないことになり、ジェシカは両眼を失い新たな聖痕をえたことになる。ジェシカに憧れ彼女とともにこの地にきて新たな降臨に立ち会って両者の聖痕を見届けたイーサンは、新たに神の恩寵についての布教活動を始める。
天災に出くわして身体の何処かを損傷した場合とか、不治の病(新生物によるものは生存確率が高くなっているが)にかかった場合、なぜ自分がそのような目に合うのか、なにか理由を考えたくなるものであることはあるだろう。東北大震災の際には石原都知事は「天罰」を唱えたが、誰が何に天罰を与えたのか、多くの人がそれに該当したのか、彼の説明では今ひとつよくわからなかった。ひょっとして、天変地異の知らせを受けて改元すると行ったことを連想したのかもしれない。この作品のひねったところは、こうした試練に続けて出会ったニールとジェシカのケースについて扱ったことだろう。また、こうした聖痕が自身のアイデンティティにどのように関わるかについて触れたことだ。
8作目は「顔の美醜について」
ペンブルトン大学で「カリー」の導入を巡って学生や教員などのコメントが並ぶ。「カリー」とは、脳内で反応するニューロンを特定しコントロールするニューロスタットと呼ばれる装置を用いてルッキズムすなわち容貌差別を制御するシステムをさす。主人公のタメラ・ライアンズはこのシステムをはずし、どのように容貌が見えかたが変わるか試す。結局は彼女はふたたび使い始めるのだが、要点は彼女を取り巻く人間関係がその装置を共有するかがポイントであることを知ったからだ。
この作品を読んで、作者が創作したのかと考えた相貌失認症どいう病態が実際に存在することを初めて知った、また、そのほか、人間のコミュニケーションに撮って重要な顔の徴候が認知できない失認症が実際に存在することを知った。前作品ともかかわるが、本来自身の相貌をアイデンティティとして認識できるかどうかがポイントなのであって、そこに他者との比較が生まれることによって問題が生じるということなのだろう。
この短編集の末尾には著者による各作品についてのコメントが書き込まれている。