先日仮漬けした白菜を、いよいよ本漬けすることにしました。白菜漬けは初めてですので、美味しい白菜漬けができるか心配です。1つ失敗したのは、仮漬けするときに「白菜漬の素」を入れ忘れたことです。たまたまお店で見つけた「白菜漬の素」、食塩に混ぜて使うのですが混ぜ忘れてしまいました。このため、今回の本漬けで使うことにしました。仮漬けで出た水に「白菜漬の素」を混ぜて、本漬けする直前に白菜に浸しました。
水がたくさん出た仮漬け白菜 本漬け用に「白菜漬の素」と昆布を用意
仮漬け時には、40L樽からはみ出るほどの白菜でした。しかし、今回樽を見ると、樽の1/2程度に縮んでいました。このため、40L樽から30L樽に移して本漬けることにしました。仮漬けされた白菜を少しかじってみると、4%食塩でしたので少ししょっぱかったです。しかし、この方が長持ちするかもしれません。40L樽から移す時、いったん「白菜の素」を入れた水に浸してから30L樽に漬け込みました。その時、細かく切った昆布をまぶしました。
白菜を詰め込みながら、細かくした昆布をまぶす
30L樽に本漬けの白菜を積めた後、仮漬けの時と同じように重石として石臼を載せておきました。1月末には食べられるのではないかと思っています。食塩も4%とやや多めでしたので、春まではもつと思います。どんな味になるのかは分かりませんが、今年の経験を来年に生かそうと思います。今回、広島菜漬け,たくあん漬け,白菜漬けと三つ試みましたが、三つはやや負担でした。来年は、二つに絞ってそれぞれ完璧な漬物を目指したいと思っています。
「白菜漬の素」に浸す 石臼を重石として乗せる
午前中白菜の本漬けをして、午後からキャベツを収穫しました。8月に苗作りを開始し、9月末に苗を植え付けしました。種まきから約5ヶ月後の収穫となりました。害虫に食害されないように、寒冷紗で覆ったのは正解でした。全く食害されていませんでした。ただ12月になって寒冷紗を外したために鳥に一部の葉を食べられていました。しかし、キャベツの玉の部分は全く被害なしでした。来年もこの方式で栽培してみようと思います。
害虫などの被害が全く無かったキャベツ、綺麗な玉になる
収穫する時、カマを使ってみましたが滑ってうまく切り取りできません。そこで包丁の刃を押し付けるようにして切ると、キャベツの茎がポロリと折れました。続いて、外葉を取ると綺麗な玉キャベツが現れました。とても美味しそうなキャベツです。食べるのが惜しいほどです。自宅で食べるキャベツを何個か確保した後、残り何個かを親しい人にあげました。まだ何個かは畑に残してあるので、しばらくはキャベツ料理を楽しめそうです。
包丁の刃で押すように茎を切る 外葉を取ると美味しそうな玉キャベツ
ところで、年末に母親が花が欲しいと言いました。最初シクラメンにしようかと思いましたが、毎年のように枯らしてきました。そこで大晦日近くになって、つぼみが付いたシャコバサボテンの鉢を1つ買いました。先日バリアフリーに改造した母親の部屋の一番暖かく日差しの明るい場所に置きました。場所が良かったのか、そのシャコバサボテンが今満開です。
満開のシャコバサボテンの花
晩秋八王子の我家に来た姪の成人式が14日神奈川県であったのですが、大雪で往生したそうです。しかし、この山口県は雨でした。農作業できないため、久しぶりに日立製トランジスタラジオTH-660の修理を再開しようと思いました。しかし、このラジオは受信周波数がずれていると思われるのですが、局部発信周波数などが分からないため本当にそうなのが分かりません。周波数カウンタがあるのですが、局部発信の電圧(0.1~0.2V)がとても低いので計測できません。高周波増幅器を作るのは大げさかなとも思います。そこで、自作したシグナルトレーサーを簡易な高周波増幅器にして、周波数カウンタが測定ができる電圧まで昇圧させる改造をすることにしました。もちろん、従来のシグナルトレーサーとしても使えるように。
改造前のシグナルトレーサー部の基板
まず、改造前のシグナルトレーサーでどのくらい高周波を増幅してくれるかテストしました。すると、低周波増幅用トランジスタ(2SB75)を使っているためか、さっぱり増幅してくれません。あたりまえですが。
そこで、手持ちの数少ない高周波増幅用ゲルマニウムトランジスタと交換してみました。交換したのは2SA468(ft:15MHz,Hfe:70)で規格的には十分です。このトランジスタは、以前ラジオか何かから引き抜いてストックしておいたものです。このトランジスタと交換してテストすると、問題なく増幅してくれました。
交換前のトランジスタ2SB75 交換後のトランジスタ2SA468
中波程度の高周波を問題なく増幅することが分かったため、増幅した高周波を取り出す端子(数日前徳山で購入した端子)を取り付けました。ドリルで小さな穴を開け、丸ヤスリでこそげ落とすようにして穴を広げました。穴に端子をはめ込むと、トランジスタのコレクタ側から線を引きました。なお、トランジスタ入力側のインピーダンスは低いため、測定するラジオ回路に影響を与える恐れがあります。効果のほどは分かりませんが、インピーダンスを上げるためエミッタ直結に200Ωの抵抗を取り付けておきました。
新たな端子用の穴を開ける エミッタ直結の200Ωの抵抗
これらの改造を経て新たなシグナルトレーサーが出来上がりました。ラジオを修理する時、ちょっとした改造や工夫がとても役に立つことがあります。現代の高校生にとってどうだか分かりませんが、私が高校生の頃は測定器などはとても高価でした。たった一本の真空管で、ラジオを作ったり,発信機に使ったり,増幅器に使いました。さらに、その増幅器を改造してシグナルトレーサーなどにしたりと、とことん使いまわしました。
当時真空管はとても高価でしたので、おこずかいではとても買えませんでした。このため、あちこちのゴミ捨て場に行っては、捨てられたラジオがないかよく探しました。捨てられたラジオを見つけると嬉しくて胸が高鳴ったものでした。そして、捨てられたラジオの部品を大切に使いまわしました。その部品(主に真空管)は今も捨てられず、いくつかまだ残しています。
新たに取り付けた端子、修理中のトランジスタラジオでテスト中
新しくなったシグナルトレーサーの交流入力側に、修理中ラジオの局部発信波を取り出して入力してみました。そして、新しく取り付けた出力端子に周波数カウンタの入力側に結びました。すると、ちゃんと周波数をカウントしてくれました。改造は成功でした。ラジオの周波数ダイヤルを回すと、978.8KHzから2.26MHzまで変わりました。この値から455KHzを差し引くと523.8~1805KHzです。530~1600KHz位がラジオ受信周波数なので、少し高い方に寄っているような気がします。トラッキングがずれているのかも知れません。とにかくラジオ内部の高周波をカウントできるようになったので良かったです。
局部発信最低周波数 局部発信最高周波数
光市の一番東側にあり田布施の境界となっている梶取岬からのハイキングコースに行ってきました。国道188号線を光市に向かって行くと、麻里府を過ぎてしばらくして梶取岬に着きます。その岬からすぐの集落である五軒屋のバス停から200mほど田布施側にそのコースの入口があります。千坊山大平山コバルトラインの入口です。このコバルトラインへは3年前にも来たことがあります。
コバルトライン入口を少し登った場所から振り返る
5年位前はコバルトライン入口には立派な案内板がありました。しかし、月日が経ってすっかり文字が読めなくなっていました。近くに寄ってみると、千坊山大平山コバルトライン入口と書いてあるのが分かります。入口から少し登ると、瀬戸内海周防灘の海が見えます。少し霞がかかっているためか、はるか対岸の大分県はあまり見えませんでした。
コバルトライン入口 大平山のツリーハウス
コバルトラインをどんどん進み大平山近くに来ると、右に隠れるような小さな道がありました。その道を行ってみると、馬島方面を見下ろす小さな広場がありました。また、その後ろにツリーハウスがありました。道はさらに山へと進んでいました。大平山へと続いているのではないかと思います。時間が限られているため、ツリーハウスを見学して元の道に戻りました。
麻里府への脇道 コバルトラインから見た牛島
コバルトラインをしばらく進むと、田布施町麻里府中郷へと続く脇道がありました。その道は、森の中へ続いていました。いつかこの道を探索してみたいと思っています。コバルトラインをどんどん進んでいると、国道188号線が見下ろせる場所に着きました。眼下に五軒屋集落が見えました。ところで、このコバルトラインは昔に比べて木が茂ってきたため、見晴らしが悪くなっていました。このため、見晴らしが良い場所がなかなかありません。
道から見下ろした五軒屋集落とコバルトライン入口
コバルトラインを進むと、竹尾の龍泉寺への道がありました。この脇道は舗装されているため車などが時々通るようです。道しるべもちゃんとした石作りです。この脇道はこれまで、何度か私も通ったことがあります。ちなみに、秋クスノキの種子を採種したのはこの龍泉寺です。この道を降りて行くと竹尾を通って、麻里府に行くか西田布施方面に行くことができます。
再びコバルトラインを進むと、ひっそりとした十字路に着きました。まっすぐ進むとコバルト台地に,右(東)に下りると竹尾に,左(西)に下りると岩屋です。昔この十字路は竹尾と岩屋を結ぶ要所だったのでしょう、お地蔵様が安置されています。今回はまっすぐ進みました。
右に下ると龍泉寺、石の標識 岩屋への下り道
小麦畑を広げるため、隣りに生えている木々(けやき,ナラ)を伐採しています。去年の4月に伐採しましたが、その時は比較的小さな木だったため簡単に伐採できました。むしろ、木の周りに生えている雑草の刈り取りに時間を取られました。今回の伐採は、太い木が主ですので、一度では伐採できそうにもありません。また根元からの伐採は少し危険ですので、大きな木は枝を中心とした伐採になりました。
小さな木とは言え、注意深く根元から伐採
二列に並んだ木のうち、道路側の一列目の木は比較的小さいため根元から伐採しました。それでも直径は15cmはあるため、自分に倒れないように、またチェーンソーを巻き込まないように注意しながらの伐採です。伐採するときは自然に倒れる方向を読むことが大事です。倒れる側の根本を少し切って、次に反対側からどんどん切っていきます。ある程度チェーンソーで切り込みを入れると、倒れると読んだ方向に自然に木が倒れます。
太い木は、太枝を中心に伐採 道路側の一列を伐採完了
一列目は比較的容易に伐採できたのですが、二列目は大変です。どれも木の種類がけやきです。ナラと比べて幹が硬く湿っているため時間がかかります。また、直径が30cm以上あるため、木に登って枝を切り払う要領で伐採しました。太い幹本体は今年伐採しないで、枯れた2,3年後に伐採しようと思います。ハシゴを使って木に登り、チェーンソーを構えての伐採は体力的にもきついです。
太い木(けやき)は、根元ではなく太い枝を伐採
これまで、チェーンソーで木を伐採中に失敗したことがたくさんあります。一番多いのが、チェーンソーが幹にはさまれてどうにも動かなくなることです。木が倒れる方向を読み間違ったときによく起こります。また、倒したつもりが他の木に引っかかって倒れないこともあります。特に太い幹の場合、倒れる方向を読むことが重要です。また、人が通る道路になどに倒れては困ります。そのような時は、ロープを使うなどして別の方向に倒れるように誘導します。
伐採した枝が幹を離れないミス 一本の木の枝を全て切り払う
今回は全ての樹木を伐採できませんでした。しかし、冬の間に少しずつ伐採し続けようと思います。今回伐採した木や枝葉が、だいぶ小麦畑に倒れました。これらの木をチェーンソーで大まかに切り、小麦畑から隣に持ち出しました。隣は、これら伐採した木や枝で足の踏み場がないほどです。冬の間に少しずつ細かくカットして我家に持ち帰り、たき火にするかストーブの暖にしようと思います。
足の踏み場がないほどの伐採した木や枝
4か月ぶりに徳山に行ってきました。前回は、銀行の記帳に行ったついでに動物園や美術博物館に行きました。今回は、記帳に行くのは同じですが電子部品を買いに行きました。ラジオなどの修理のために使っている自作シグナルトレーサーの改造のための部品を購入するためです。まずは、駅に降りてすぐ右にある銀行に行きました。東京ではどの駅にもだいたいある都市銀行ですが、山口県にはあまりありません。記帳のためだけに、一番近い支店がある徳山に行ってきました。
徳山駅を北に下りて見渡した駅前ロータリー
記帳後、今度は山口銀行に行きました。この銀行は、逆に東京では支店を見たことがありません。もっぱら山口県に帰ってから利用している銀行です。この徳山支店に行って、農業機械の部品を購入するための振込みをしました。なかなか立派な建物でした。
降り立った徳山駅 立派な建物の山口銀行
銀行での記帳と振込みが終わると、電子部品を購入するためドイ音響無線に行きました。かつて、柳井市にも電子部品を売る店がありました。今、店は残っていますが電子部品は売っていません。ドイ音響無線はもっぱらアマチュア無線の機器を売ったり、アマチュア無線技士養成講座を開いたり、電子部品を売っています。急がない場合は通信販売でよいのですが、急ぐ場合はここか岩国にある電子部品販売店に行くしかありません。
アマチュア無線機器や電子部品を売っているドイ音響無線
購入したのは、緑の端子1個とバナナクリップ2個です。これらの総額よりも、田布施と徳山の往復運賃の方が高いのが、ちょっとむなしい所です。ゲルマニウムトランジスタを購入しようと思いましたが、すでに完売でした。150MHZまで使えるトランジスタだったのですが残念でした。帰りに、近く閉店予定の近鉄松下に行ってみました。すると、予想通り閉店セールの真っ最中でした。しかし、閉店セール実施中にも関わらずあまり人がいませんでした。
購入した端子1個とバナナクリップ2個 人通りの静かな銀南街
近鉄松下を見上げた後、銀南街にある御堀堂の外郎店に行きました。私は名古屋の外郎が一番好きなのですが、名古屋にはそう行けません。徳山に来たついでに、お土産として外郎を買って帰ることにしました。名古屋の外郎は大きさや形が羊羹のようで、食べたい大きさに切って食べます。山口県の外郎は始めから食べやすい大きさになっています。私は、手に掴んで豪快にむしゃむしゃ食べることができる名古屋の外郎の方が好きです。
閉店売り尽くしセール中の近鉄松下、でも閑散
田布施に戻ると、田布施地域交流館傍の高齢者いきいき館に寄り、来月10日のウォーキング定例会の会議室を予約しました。次に、麻郷公民館に行きました。そして、新年の挨拶をして少し談笑しました。談笑しているうちに30日の「昔を知ろう集会」のお手伝いをすることになりました。一応「コマ回し」担当です。野外で子供達を教えたことはたくさんありますが、小学校に直接行って教えたのは5年ほど前のわら細工以来です。久しぶりの母校訪問になりそうです。
銀南街の御堀堂の外郎店、内装など全体的にお行儀良いお店
東京から持ち帰った耕運機、これまで畑の耕運に何度も使ってきました。しかし、畑を耕しているとだんだん出力が落ちてきて、そのうちパタリとエンジンが停止する故障が頻発するようになりました。エンジン故障の原因を突き止める基本の一つとしてプラグを取りはずして調べてみました。すると、またプラグが真っ黒になっていました。これはガソリン過多が原因です。このさい、耕運機エンジンのキャブレターを取り外して徹底的に調査することにしました。
取り外して分解することにした、耕運機の吸気を含むキャブレター部
この耕運機は、数年前に東京八王子市の畑で盗まれたものと同型の耕運機です。使い慣れていた耕運機と同じものを探して、ようやく中古で1万程度のものを見つけて購入したものです。これまで、いろいろ手直ししながら使ってきました。まず、キャブレターを外して、内部を調べてみました。すると、フロート室にたくさんのゴミが溜まっていました。このゴミをキャブクリーナで綺麗に取り除きました。
キャブレター(左)とエアフィルター(右) 汚れが溜まったフロート室
さらに、フロート室内のガソリン量を一定に保つフロートを取り出しました。このフロートのニードルバルブが磨耗すると、ガソリンを保てずガソリン過多になります。一番多いガソリン過多の原因は、このニードルバルブの磨耗です。かつて、このニードルバルブの磨耗でガソリン過多になったため、ニードルバルブを交換修理したり、ニードルバルブを磨いて修理したことがあります。しかし、この耕運機のニードルバルブは正常でした。このため、キャブレターの原因によるガソリン過多ではないことが分かりました。
フロート室を取りバルブピンを抜く バルブの先端をチェックするも正常
キャブレターのその他の部分をいろいろ調べてみましたが、どうもキャブレターが原因ではなさそうです。キャブレターが正常にも関わらずプラグが黒くなるのは、吸入する空気が少ないことで一見ガソリン過多に似た現象になることが原因です。その原因はエアフィルター(吸気フィルターとも言う)の詰まりです。掃除機のフィルターが詰まると、空気を吸わなくなる現象と同じです。吸入するガソリン量は同じでも吸入する空気が少ないと、ガソリン過多となりススが発生し、それがプラグを黒く汚します。
溜めたガソリンにエアフィルタを浸して洗浄中
そこで、エアフィルターを取り出して見ると驚きました。なんと、エアフィルターがオイルで湿っているではありませんか。フィルターには乾式フィルターと湿式フィルターの2方式があります。湿式フィルターはオイルで湿らせます。私が推測するに、中古で販売する時に、素人がこの耕運機を調整したようです。乾式フィルターを湿式フィルターと間違えて、オイルで湿らせたのに違いありません。乾式フィルターにオイルを浸すと、時間が経つにつれてだんだんオイルが固まってきます。すると、しだいに空気の吸入量が減ってガソリン過多現象になり、プラグがススで汚れて黒くなります。そして、エンジンの調子が悪くなるのです。
ガソリン過多で黒く汚れたプラグ 汚れを取り除いたプラグ
オイルを取り除くため、ボールにガソリンを溜めてその中にエアフィルターを浸しました。しばらくすると、オイルがガソリンに溶けてフィルターの詰まりが解消されました。一方、汚れたプラグを赤熱して汚れの原因であるススを取り除きました。その後、分解したキャブレターなどを再び耕運機に取り付けました。また、綺麗にしたプラグも耕運機にはめ込みました。ガソリンコックをひねって、始動ロープを引っ張ると、この寒いのにチョークを入れずに一発でエンジンがかかりました。吸気フィルターのオイルを洗浄したことが正解でした。
ついでに、耕運機のベルトも調査しました。すると、だいぶへたっていました。取り替えるほどではないのですが、近々に新しいベルトを注文しておこうと思います。2月末にジャガイモの種芋を植え付けますが、その頃から耕運機をよく使うようになりました。今のうちに故障を修理して良かったです。使おうと思った時に初めて故障していたことに気がつくと、植え付けや種まきが遅れてしまいますので。
だいぶ、へたっていたベルト。近々注文を予定
去年の秋に種まきをした小麦に肥料をまきました。手でまこうと思いましたが、寒い上に畑が広いので、手押し種まき機を使ってまきました。その機械には、種をまく時に土を押しのける小さなスキ(犂)が付いています。このスキが付いていると、麦を傷つけてしまいます。肥料をまく前に、このスキを取り外しました。
手押しの種まき機、丸部分のスキ(犂)を外す
スキは二箇所がボルトで固定されています。そのボルト、長年外していなかったためすっかり錆ついていました。このため、油をつけながらゆっくりと外しました。このスキ部分は、落ちた種が当たってばらまくような仕組みになっています。なるべく人力で農作業したい私は、この機械を重宝しています。種まき機ではありますが、肥料まき機としても使えるところが気に入っています。
スキを固定しているボルトを外す 取り外したスキ部分
スキを取り外すと、その機械の肥料のまき方と量を決めます。小麦は24cm感間隔で株まきしましたが、肥料は筋まきします。筋まきを指定して、落ちる肥料の量を最大に指定しました。筋まき指定と肥料の落ちる量を指定し終わると小麦畑に向かいました。最初、高塔公会堂近くの小麦畑で肥料をまきました。
まき方を筋まきに指定 化成肥料を適量挿入する
この機械は、満杯に充填すると2往復分ほど肥料をまけます。小麦畑の片側から順番に、手で押しながら肥料をまいていきました。2往復するたびに肥料を再度充填しました。この畑は冬場に午後日が陰るためか、畑が湿っぽくなっていました。このため、肥料をまきながら機械を押していると、車輪に土がくっつきます。時々、立ち止まりながらそのくっついた土を取り除きました。
午後日陰のためか、やや湿っぽい小麦畑
肥料をまいていると、畑の隣でN商店の方がたき火をしていることに気がつきました。しばし手を休め、近づいて挨拶をし談笑しました。この手押し機械が珍しいようで何の作業をしているのか聞かれました。肥料をまいている事を説明すると納得した様子でした。談笑後、再び肥料をまきました。ほどなくして肥料をまき終り家に帰りました。
N商店の方と談笑後、再びのんびりと肥料をまく
朝起きて新聞を取ろうとポストを覗き込むと、ハガキが1枚入ってることに気がつきました。昨日、郵便屋さんが届けてくれたのに違いありません。ハガキの送り主を見ると、シンガポールで暮らしている娘からでした。元旦に、年賀状を送るとのメールがあったことを思い出しました。日本にハガキが届くのに一週間かかるようです。
元旦に投函して一週間後に届いたシンガポール発年賀状
私が読んだ後、母親に見せました。すると孫娘のハガキをずっと読んでいました。外国で暮らしている孫娘のことが心配で仕方ないようです。仕事はちゃんとしてるのだろうか、結婚できるのだろうか、病気をしていないだろうか、外国人に襲われないだろうか・・・・などなど母親は心おだやかではないようです。
私は、娘と時々skype(インターネット通話)で話をしているので、多少心配している程度です。ただ2月に日本の日系大手メーカーに転職するようですが日本人がいないらしく、どれだけ頑張れるか少し心配しています。
孫娘からの年賀状を読んでいる母親
去年の春に田布施に帰って、漬物をいろいろ漬けています。先日、広島菜漬け,たくあん漬けをしましたが、ようやくメインの白菜漬をします。白菜は仮漬けと本漬けをしますが、今回は仮漬けです。仮漬けしたのは、9月上旬に種をまいて育てた白菜と、苗を作って10月上旬に移植した白菜です。最初、苗を移植して育てた白菜を収穫しました。次に種から育てた白菜を収穫しました。種から育てた白菜は、11月に行われた高塔地区ふれあい会に提供しました。その残りの株を収穫して漬けました。
苗を移植して育てた白菜を収穫して一輪車に積む
種をまいて育てた白菜は害虫が入らないように寒冷紗をかけました。このため、まったく食害されていませんでした。また、早めに種をまいたので重さも3kg位でした。一方、苗を育てて移植した白菜は、害虫対策の寒冷紗を被せませんでした。また、農薬もまったく使いませんでした。移植が遅かったため重さは1.5kg程度の小ぶりの白菜になりました。葉の先端が少し虫食い状態でしたが、外葉をはずすと食害は目立ちません。寒冷紗がなくても白菜は作れることがわかりました。
並べた白菜を包丁で二等分 根元を包丁でVカット
さて、白菜を収穫すると干しやすいように二等分しました。さらに、根元をVカットしました。また、食塩が染み込みやすいように包丁で根元に切れ目を入れました。このように加工した白菜を一つ一つ重さを測った上で干しました。白菜の総重量は27.1gでした。白菜の平均の重さは2kgでした。むしろで干すと良いのですが、私は庭木の上に並べるようにして干しました。白菜を干すために並べ終わると、漬けるための食塩を用意しました。
漬けるため、重さを計量 40Lの樽に仮詰めテスト
漬けるための食塩は白菜総重量の4%の1kgにしました。これは広島菜漬けと同じ割合です。食塩は新たに買わないで、家にあった5kg袋入りの食塩を使いました。亡き父親が作った漬物用として余っていた食塩です。袋の中で食塩が固まっていたため、手で揉んでほぐしました。
重さを計量後、庭木の上で半日乾燥させた白菜
白菜を干している間、昼食したり山に行って今後伐採する木々を確認したりしました。そして、午後3時頃白菜の仮漬けを始めました。半日干すと、白菜の葉と葉の間にわずかに隙間ができます。その隙間を開くようにしながら、食塩をすりこむようにまぶします。そして、根元に食塩を多めに振りかけます。次に樽の中に、食塩をすりこんだ白菜を次々に詰め込んでいきます。
計量した食塩約1kg 樽の底に押し付けるように詰める
次々に白菜を詰め込んでいくと、最後に樽をはみ出るように白菜が盛り上がります。その一番上の白菜には大目の食塩をまぶします。全体的に食塩は、樽の底の方は薄めに、上の方は濃い目にします。すべての食塩をまぶすと、重し蓋の上に、靴を脱いで乗ります。すると体重がかかるためか、少し白菜が押されて縮みます。重し蓋から降りると、重石を乗せます。
白菜の上に食塩をまぶす 靴を脱いで重し蓋の上に乗る
重石として庭石を使おうと思いましたが、使っていない石臼があることに気がつきました。石臼の上石を重石として重し蓋の上に載せました。順調にいけば3日後頃には水が上がると思います。そうなれば、本漬けに入ろうと思います。今回は単純な白菜漬けをしますが、うまくいけば来年は大好きなキムチも作ってみたいと思っています。
石臼を重石として使った白菜仮漬け、右は漬け込み中のたくあん
前回赤子山の北側を散策しましたが、道を間違えてしまい残念な結果に終わりました。登り始めた地点は柳井市の余田で、降りたのは宇佐木でした。そして、ぐるっと田布路木や周東病院など柳井市側を大回りしたスタート地点に戻りました。
前回の反省を元に、今回は赤子山の南側を散策してみました。平生町の沼から登って柳井市余田の荒木側に降りました。そして、熊毛南高校,竪ヶ浜をぐるっとまわってスタート地点の平生町沼に戻りました。今回は、赤子山を楽しめました。
スタート地点の沼八幡宮 沼八幡宮傍の赤子山登山口
平生町沼八幡宮は、私が平生保育園に通っていた頃、保育園から歩いてよく遊びに行った場所です。今はスーパーのMaxValueなどが建ち並んでいますが、65年ほど前は広々とした田んぼでした。その一面田んぼのあぜ道を、先生に連れられて行列になって沼八幡宮に行きました。長い階段を登ったことをよく覚えています。その沼八幡宮の傍に赤子山登山口があります。その登山口からは快適なハイキングコースとなっていました。
沼からのハイキングコースを登りきると、赤子山の鞍部に到着
沼からの快適なハイキングコースを45分位でしょうか、登ると尾根の鞍部に到着しました。その鞍部はちょっとした十字路になっていました。東に行くと赤子山山頂に,北に行くと余田中村に,西に行くと余田荒木に行きます。このさいすべての方向に行ってみました。最初、東方向の赤子山の頂上に、次に北方向の余田中村に、そして西に向かって余田荒木に下山することにしました。最初に行った東方向は、前回歩いた山道が待っていました。前回歩いた道をたどって赤子山山頂に行きました。
前回歩いた赤子山の同じ場所で休憩しながら平生街を眼下に
大きい丸は南周防大橋、右下の小さな丸は新八海橋
赤子山山頂から戻ると、今度は北側の道を降りました。すると10分位で、前回通った中村林道に降りました。赤子山登山口が、こんなところにあったのかと思いました。ただ、中村林道に赤子山への登山道標識がなかったため気がつかなかったのです。中村林道そばの空き地で立って、赤子山の北側に広がる山などを見下ろしました。前回散策した柳井市大平山や柳井市伊陸の氷室山などがよく見えました。
中村林道に至る途中の切り通し 中村林道側の赤子山登山口
中村林道から再び赤子山尾根の鞍部に戻りました。がれた山道を15分位上ると鞍部です。ただし、この中村林道からの山道は手入れしないとすぐに笹が茂ってしまいます。毎年誰かが笹などを下刈りして登山道を守っているのでしょう。願わくば登山道の標識があると迷わなくて済みます。ここに標識が立っていれば、前回赤子山に登った時のように道に迷わなくて済んでのではないかと思います。
赤子山北側中村林道側から見た眺め、山口フラワーランドなどが見える
左丸は柳井市大平山、右丸は柳井市伊陸の氷室岳
鞍部に戻ると西に向かって歩きました。しばらく歩くと鉄塔がありました。そこから平生街を見下ろせました。しかし鉄塔が邪魔をしてよく見えませんでした。その鉄塔下の広々した場所に腰をかけて小休止しました。小休止を終えると、どんどん西に向かって歩きました。しばらくは展望が望めません。途中、竪ヶ浜の民家がたくさん見えました。そこで、竪ヶ浜に直接降りることができる道がないかどうか藪に入りましたが、いくら降りても道らしきものがありません。どうも道は無いようです。元来た道に戻って余田の荒木方面に進みました。
鞍部の西近くの鉄塔 明るい木々を抜けるように歩く
しばらく進むと、また鉄塔に出ました。鉄塔が立っている場所から、北西の方向がよく見渡せました。行者山や石城山が見えました。だいぶ田布施側に来たようです。少し休憩の後、再び歩き始めました。どんどん高度を下げて、着いたところは中村林道の西の端でした。以前通ったことがある場所です。こんな場所にも、赤子山への登山口があるとは。赤子山登山口の標識が無いため、これまで分かりませんでした。
鉄塔から見えた行者山と石城山、もうすぐ中村林道の西端
中村林道の西端にある赤子山登山口に降りると、坂本病院がすぐ近くに見えました。登山口からどんどん田布施方面に行くと、熊毛南高校があります。その熊毛南高校やすぐ隣にある荒木神社を見ながら、荒木川沿いに竪ヶ浜を平生に向かって進みました。下山した場所から3km位歩き続けて、スタート地点の沼八幡宮に到着しました。ほどよい疲れで体がホカホカしました。
下山した場所から見えた坂本病院 熊毛南高校と荒木神社の森
自宅に帰った後、持って行ったGPSデータをパソコンに取り込んでました。すると、地図上ではよく分からなかったコースがよく分かりました。赤子山は、鉄塔を管理するための道がそのままハイキングコースになっているようです。前回道を間違えて往生しましたが、思っていたより赤子山は歩きやすいことが分かりました。
今回歩いた赤子山の南側コース、歩跡がよく分かる
去年、使っているタンスが壊れてどうにも使えなくなりました。そのため、通信販売で購入した自作用タンスを製作しました。今回、その壊れたタンスをたき火で燃やしました。また、枯れ草や枯れ木なども燃やしまた。寒い季節なので、たき火をすると体が暖まります。
燃やしているタンスの底 燃やしやすいようにバラバラにしたタンス
最初に壊れたタンスを燃やしましたが、あらかじめ、ハンマーを使って壊れたタンスを燃やしやすい大きさに壊しておきました。そして、バラバラにした木片を少しずつ火にくべました。昼までには、タンスはすべて灰になりました。・・・・壊れたタンスさんへ。これまでご苦労様。これからは、灰となって自然に返ってください。
勢いよく燃えているタンス、木片にしたためよく燃える
昼からは、枯れ木や枯れ草を燃やしました。最初、燃えやすい木の枝から燃やし、火が大きくなると燃えにくい湿った朽木などを燃やしました。湿った朽木から出た水が熱でシューシュー言います。このようにして、夕方までにはあらかた家周りの枯れ木や草はほぼ燃やしました。
しかし、山には放置された倒木,枯れ竹,笹などが大量にあります。今後は、山にある倒木などを運び出さなければなりません。里山生活は自然にあふれた生活ですが、里山を維持する手仕事がたくさんあります。あせらずゆっくりと作業するにつきます。
小枝を重ねて燃やす 湿った枯れ草や朽木も燃やす
去年の春に田布施に帰り、秋に大根を作りました。収穫して軒下に干していた大根が、ようやく干しあがりました。このため、たくあんを漬けることにしました。白菜や広島菜などはこれまで漬けたことがありますが、たくあん漬けは初めてです。素人なりに工夫して漬けることにしました。我家で干した大根はさまざまの大きさがあります。乾いてよく曲がる大根は樽の底の方に、曲がらない太い大根は蓋近くで漬けることにしました。
ほどよく乾いた大根は、手で押すとよく曲がる
たくあん漬けに使う干した大根ですが、干し大根28本で総重量は16.7Kgでした。一本平均0.6Kgでした。糠は2.2Kgを使いました。混ぜた食塩は多めの1.6Kgです。それに、少々の唐辛子とハサミで細かく切った昆布を加えました。色をつけるためのクチナシは、もともと実が小さかったため、乾かすとさらに縮んで使えそうもありません。たまたまお店を歩いていて、たくあんの素があることに気がつきました。そのたくあんの素を混ぜてみました。なおザラメ糖を加えるとよいようですが、使わないことにしました。今年の経験を来年に生かすつもりです。
糠に混ぜたたくあんの素 食塩,唐辛子,昆布なども混ぜた糠
食塩などを混ぜた糠をバケツに入れて、水を注ぎ込みながらこねるようにして混ぜました。これだけの糠を手で混ぜるのは初めてです。満遍なく混ぜていると、冷たさで指がヒリヒリする上に指先が疲れます。手で摘んで団子状になると、干した大根と糠を樽の底から交互に詰めていきました。空気が入らないようにぎゅうぎゅう押し付けるように詰めました。
糠や食塩をこねるように混ぜる 糠と干し大根をぎゅうぎゅう詰める
干した大根の葉も詰めてみました。干し大根の隙間と最上部に大根葉を詰めました。たくあんと同時に干した大根葉も漬物として食べることができます。たくあんと同時に漬けた大根葉はまだ食べたことがありません。どんな味がするのでしょうか。少し楽しみです。
たくあん漬けの最上部は、干した大根葉で覆う
どんどん干し大根を漬けて、最上部に干した大根葉で覆いました。その上に糠をまぶすように乗せました。そして、ビニール袋で全体を覆い、重し蓋をしました。最後に、その上に20Kg位の石を載せました。さて、どんな味のたくあんが出来上がるでしょうか。
ビニールを閉じて重し蓋を乗せる 20Kg位の石を載せる
たくあん漬けが終わると、先日仮漬けした後に本漬けした広島菜を樽から取り出して食べてみました。広島菜特有の歯ごたえです。昆布などが適度に染みているのか、とても良い味に収まりました。海苔のように、白いご飯に広島菜を巻きつけるようにして食べました。白菜と違った葉緑も食欲をそそります。母親は歯が弱いので、千切りにして食べていました。しばらくは、この広島菜積けが我家の食卓を彩ります。
樽から出した広島菜、美味しそうな匂いに綺麗な緑
田布施町と光市の境にある石城山に半年ぶりに行ってきました。そして、その山腹にあるたくさんの神社にお参りしてきました。一つの頂上付近にこれだけたくさんの神社がある山は聞いたことがありません。それだけ古い信仰対象の山だったのかも知れません。一方、この山には約150年前に神護寺と呼ばれる大規模な寺があったとのことです。明治初頭に廃仏毀釈の対象として壊されたようです。この神護寺は今、平生町の大野に移転しています。どんな歴史がこの山にあったのでしょうか。
石城山鉄塔と石城大師堂近く 池に作られた葦原神社
歴史はともあれ、お正月ですので、このさいすべての神社にお参りすることにしました。最初に駐車場から一番近い荒神社からお参りしました。祠のようにも見えますが、ちゃんと神社の表示がしてあります。日本神社と石城島神社は比較的大きな建物です。面白い神社としては、池に浮かぶように作られた葦原神社、そして物部神社です。これらの神社は、遠めに見ても建物が新しく感じます。明治初期の廃仏毀釈の時、神護寺とその宿坊や付随するお寺が取り壊された時、入れ替わるように作られたのではないでしょうか。
門松が正面に置かれた日本神社 周りの森に溶け込む石城島神社
物部神社がなぜここにあるのか不思議です。聖徳太子の時代、仏教を重んじる曽我氏と古来の宗教を重んじる物部氏が争った結果、物部氏が敗れて滅ぼされました。今の神社に通ずる古来の宗教を大事にした物部氏を、滅んだ後も物部神社として祭ったのではないかと私は思います。私的な考えですが。
石城山の最高地点(362m)にある高日神社からの眺め
石城山の頂上に三角点があるはずなのですが、よく分かりませんでした。その頂上は高日ヶ峰と呼ばれており質素な高日神社があります。ここから柳井方面を見下ろすことができます。これまで登ったことがある、氷室山,多賀神社,大平山,三ヶ岳,琴石山,赤子山,大星山,行者山などが遠望できます。三ヶ岳に隠れるように銭壷山も見えました。石城山に来たついでに、古代朝鮮式山城遺構である石積み(神護石とも言う)を散策しながら見ることにしました。この石積み、3年前に反対側から散策しました。
石垣の構造が分かる古代の石積み(東水門)
この石積みを観察すると、日本の戦国時代などの石垣と明らかに違います。石城山の石垣は工期が迫られていたのか、石を組み合わせるのではなく石を積み重ねるだけの工法のように思えます。石組みではなく石積みです。このためか、この千数百年の間に、あちこちで崩れています。それでも、見るものを圧倒します。千数百年前の古代、この石城山でどんなドラマがあったのでしょうか。私には、古代中国,古代朝鮮の百済,新羅,高句麗の動乱と関わりがあったのではないかと思えます。
横に長い北水門の石積み 西水門の三段の石組み
これらの古代朝鮮式山城の石積み、そもそも、誰が,いつ,なぜ,ここに,何のための記録がまったく残されていません。完成前に放棄されたようにも思えます。しかし、これだけの山城を作るには、資財,知識,労働者がいなければなりません。古代の田布施は入り江になっており重要で豊かな地域だったにちがいありません。古代朝鮮との交流もあったのでしょう。古代の大型古墳が何基もありますので。
西水門付近の休憩所広場から見下ろした光市方面
古代石積みを散策するコースは歩きやすいハイキングコースになっています。古代に思いをはせながら歩くのもよいと思います。数年前に来た時、西水門を過ぎたところに休憩所がありました。しかし、今日行ってみると建物が無くなっていました。広場のようになっていました。その広場からしばらく歩くと、第二奇兵隊が駐屯していた神護寺跡がありました。そして、その向こう側に石城神社がありました。この神社が最後に参拝した神社でした。この神社付近の第二奇兵隊の記念碑を見た後、山頂の鉄塔を見てから石城山を後にしました。
広場からの明るい散策コース 今日最後に参拝した石城神社
石城山を降りる途中、古代朝鮮式山城の遺構の一つである南水門に立ち寄りました。50年位前、私が小学生だった頃、この石積みと共に水門がありました。しかし、今や水門は土砂に埋まって見えなくなっていました。千数百年も保たれていた水門が、たった50年で埋まるものでしょうか。土砂の原因は、南水門にかぶさるように作られた道路ではないかと思います。沢を埋めるように作られた道の土手が少しずつ崩れて土砂になったのではないでしょうか。とても残念です。
石城山から下山中に見えた,大波野,余田,そして柳井市街など
毎月初め、我家の裏に設置している気温記録機器の気温データをパソコンに取り込んでいます。この12月の気温をパソコンに取り込んでみました。すると、12月の上旬寒く、中旬は雨のせいか気温が緩み、下旬は再び寒くなったことが分かります。
最も気温が下がったのは12月27日の午前6時でマイナス2℃でした。ちなみに、積雪となった元旦はマイナス1.5℃でした。これからこの寒さが2月まで続くと思います。
去年と一昨年は東京八王子市で、共に大晦日からお元旦にかけて深夜勤務でした。そして、深夜明けに眠い目をこすりながら高幡不動尊に初詣に行きました。しかし、今年の元旦は山口県で寝正月でした。今日、10年ぶり位に防府天満宮に初詣に行ってきました。防府天満宮は、子供の頃によく親に連れられて行きました。石段がとても高い印象が記憶に残っています。
駅前ロータリー横の巨大リング時計 防府銀座ではお餅つき大会
駅前ロータリー横には、10年位前と同じ位置に巨大なリング状の時計がありました。また、駅から防府銀座までの界隈は、10年位前に初詣したときに解体中の家々がたくさん並んでいました。今回来てみると素敵なビルに建て変わっていました。普段来ても楽しめそうですなビルです。少しずつ街が変わっているようです。
急に人が増えて人だかりの防府天満宮の鳥居前
ところで、防府銀座は10年ほど前、山口県方言の一覧をあちこちに展示していたのに無くなっていました。例えば、「まひげ」は「まゆげ」,「頭が走る」は「頭が痛い」,「そうですのんた」は「そうですねえ」,「ぶち」は「すごく」,「うち」は女性の「わたし」,「わし」は男性の「わたし」,「いけん」は「ダメです」などです。防府銀座あたりまでは人が少なかったのですが、天満宮の鳥居付近に来ると急に人が増えました。
参拝のため石段に並ぶ人々 石段を過ぎ、ようやく天満宮の入り口
防府天満宮の鳥居の屋台付近から数百メートルも参拝する人の列になっていました。30年位前に鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣した時、これよりもさらに大規模な列になっていたことを思い出しました。ここ10年ほど毎年参拝してきた高幡不動尊では、列を警察が規制していました。防府天満宮はそれほど混雑はひどくなく、警察はいませんでした。列を規制するほどのトラブルはないのでしょう。列に並んでいると、寒風にさらされ体が冷えてきます。来年はもう少し日をずらして参拝しようと思います。
参拝する人、おみくじ,安全祈願品購入で混雑する防府天満宮境内
混雑する群集の中、自分の交通安全祈願と母親の足腰健康祈願の品を買い求めました。たくさんの人が買いたがっているため、売り子さんにタイミングよく声をかけないとなかなか買えません。そして、梅が枝餅(うめがえもち)と呼ばれるお餅(実際は団子?)も買いました。このお餅は大宰府天満宮が発祥らしく、その昔お付き合いしていた福岡の女性と、初詣か旅行で大宰府に行った時に買ったことがあります。「木の枝に梅花が咲いたように餅をたくさん付けた縁起物が由来。」と話をしてくれました。大宰府天満宮ではこの縁起物のお餅を専門に作るお店が並んでいました。
交通安全祈願と足腰健康祈願 梅が枝餅を購入、ここも大行列
梅が枝餅を買うめため列に並んでいる頃、曇り空になり冷たい風が吹くようになりました。雨具を持って来なかったため、早々に帰ることにしました。石段を降りていると、参拝する人々の列がまだ続いていました。途中、露天でから揚げを買って食べました。そして、早足に防府駅に向かいました。明日からは、いつものように農作業などを始めようと思います。
露天付近から続く参拝の列 賑やかな露天でから揚げを購入