台風が日本海に去ったようです。風も穏やかで雨も降らなくなりました。地面がどの程度湿ったか畑を見回りました。木々の千切れた葉がたくさん落ちていました。しかし、倒れている木や野菜はありませんでした。その中で里芋だけは元気に大きな葉を持ち上げていました。今年はどういう訳か里芋が豊作のようです。私の背丈ほどの葉が青々と茂っています。この台風による雨で、より元気に育ちまだまだ大きくなるようです。今後も時間を見ては畑を見回ろうと思います。
私の背丈ほどに育った里芋、まだまだ育ち晩秋にたくさん収穫できそう
里芋は湿った場所でよく育ちます。私が東京に住んでいた頃、田んぼ傍の湿った箇所で里芋を栽培していました。南斜面でもあり、それはそれはよく育ちました。食べたいときに掘って芋を収穫しました。そして、全て掘りつくすのではなく、適度な間隔で里芋をその場所に残していました。すると、来年また里芋が芽生えて育つのです。毎年その繰り返しでした。今はそのような、里芋に向いた畑がありません。
ところで、里芋は芋以外に茎を食べることができます。茎には生では到底食べられないアクがあります。しかし、乾燥すると美味しく食べることができます。みそ汁の中に入れて、麩(ふ)のようにして食べることができます。ちなみにハス芋と呼ばれる里芋は茎だけを食べます。里芋の葉はやや細長い(ラグビーのボール型)のですが、ハス芋はやや丸い形をしています。
たくさん生えた里芋の茎 空を覆うほどの里芋の葉
早朝、小豆と枝豆の株回りの除草と株を二本に減らす間引きをしました。耕耘機を使った畝間の耕耘除草は昨日済ませています。最初は平クワを使って小豆と枝豆の株回りの除草をしました。小石混じりの畑ですので、株回りを除草しているとゴツゴツと小石が当たります。石のない畑ならば削るように除草できるのですが、平クワを打ち込み掘るようにしないと除草できません。カラカラに乾いている硬い畑のため、クワを使うにも力が要ります。朝の作業とは言え、疲れる除草作業でした。
小豆の株と株の間を平クワを使って除草
株間や株回りの除草が終わると、間引きをしました。小豆は4粒程度、枝豆は3粒程度の種を蒔きました。そのため、多めに発芽していました。1株2本になるように、余分な茎を間引きしました。もったいないような気がしますが、多い茎のままだとそれぞれの茎がひ弱に育ちます。結果として収量が少なくなります。これは小豆や枝豆に限りません。どんな野菜,野草,木々も同じことが言えます。ところでお昼頃から雲行きが怪しくなり、雨が降り始めました。台風はまだ、九州沖にあるようです。雲が急ぐように空を移動しています。
株と株の間の草を掘り取る 株間除草が終わった小豆
子供の頃に教わったことがあります。それは、雲が来る方向に立って両手を広げます。すると、右手の方角に台風又は低気圧があるとの知識です。今朝の雲は東から西へと動いていました。つまり、東に向かって両手を広げると右手は南を差します。つまり、台風は南側にあるのです。台風が通過する時、雲の動く方向がどんどん変わります。およそですが、雲が北から南へ動くようになれば台風は東に去り、西から東に動くようになれば、台風が北に去ったことを示します。
間引きする前の枝豆(4~5本) 間引き後の枝豆(2本)
さて、台風はどこに上陸するのでしょうか。天気予報だと、我家がある田布施町の真上を通過するかも知れません。ちなみに、明日勤務する予定だった田布施町郷土館は臨時休館日となりました。我家ではポリタンクに水を溜めたり、懐中電気の電池を新品に交換しました。さらに、アルミサッシの窓もピッタリ閉めました。
株回りの除草後に1株2本になるよう間引きした枝豆、この直後に雨
猛暑日が続いていますが、農作業の手を休める訳にはいきません。農作業と言っても、いくらか涼しい朝と夕の草刈りが中心です。明後日には台風が来るとの予報です。水が不足気味な畑や田んぼには恵みの雨となりますが、栽培している植物が倒れるなどの被害が予想されます。そのため、和綿畑の除草と倒れないように背を短くする剪定をしました。最初に耕耘機で和綿畑の畝間を耕しながら除草しました。除草しないと台風の雨でさらに背が伸びてしまいますので。それにしても暑い毎日です。時々木陰で休みながら作業しました。
和綿畑の畝間を耕耘除草後、平クワで根本を除草
7月下旬に種をまいた小豆も枝豆もすっかり大きくなっています。そのため、和綿の畝間を耕耘機で除草後、小豆と枝豆の畝間もついでに耕耘除草しておきました。一通り耕耘除草が終わると、和綿の背を低くするための剪定をしました。綿はこれからもどんどん背が高くなります。そのまま放置しておくと、人の背を超えるほどに成長します。綿も大きくなると、枝が木質化して木の幹のように太く硬くなります。すると、綿を収穫後に根を引き抜くのが大変になります。
耕耘機で除草中の和綿,小豆,枝豆畑 背が伸びないように芯を切る
ところで、私が栽培している綿は6種類です。和綿(白),洋綿(白,茶,灰,緑)それとジャンボコットンと呼ばれる品種名不明の綿です。品種が混ざらないように畑の距離を開けていますが、移動が大変です。来年は3品種程度に抑えようかと思っています。一番の悩みは、白い綿を和綿だけにするか洋綿(バルバゼンセ)だけにするかです。管理が下手な私は、うっかり両方を混ぜてしまいそうになるからです。品質的には洋綿(バルバゼンセ)が良いです。しかし、昔の田布施町で栽培されていたのは和綿です。そのため、歴史的な意義を考えると和綿を栽培したいところです。
日本で古くから栽培されてきた和綿の花 ピンクが綺麗な洋綿(茶)の花
土曜日に8月初めの田布施コットンクラブをしました。私は整経台を使って、主に織物の経糸を作りました。整経台では今のところ一度に32本程度の経糸しかできません。目標の数百本にはまだまだ足りません。焦らずのんびりと経糸作りをしています。一方で、会が始まる直前にKさんがインドから輸入した自家製紡ぎ糸を持ってきました。そして、玉巻き器などの用具も持ってきました。kさんは用事があるため、今回は会には参加できません。私とTさんが、それらのおよその使い方を事前にKさんに教わりました。他のみなさんは、その紡ぎ糸の玉巻きの方法をTさんから教わり作業をしました。インドでは、紡がれた糸は8の字に巻かれています。それを解きながら玉巻き器に巻いていきました。
玉巻き器で巻かれた紫と灰色の紡ぎ糸、mではなくgで購入
ところで、人が紡いだ糸のためでしょうか、玉巻きをしていると時々糸が切れることがありました。そんな時、たまたま私が知っていたはた結びで切れた糸を結びました。はた結びは結び目が小さいため織物や裁縫時によく使われる結びかたです。今回は一台の玉巻き器を使いましたが、私も持っていますので、次回はKさんと私の二台で玉巻きをすれば早く巻き取れると思います。なお、実際に玉巻きをしていると、8の字に巻かれた糸がもつれることかあります。そのために、二人のペア(巻く人、紡ぎ糸を解く人)で作業すると良いようです。
玉巻きを教えるTさん インドから来た紡ぎ糸 使った玉巻き器
2時間程度作業すると、いつものように休憩タイムです。私は、八ヶ岳の赤岳に登った時のお土産を持ってきました。そして、Mさんが持ってきた赤しそジュースなどの飲物です。他にもお菓子あり。とても美味しかったです。かれこれ30分位談笑したでしょうか、その後作業を再開し、16時過ぎに終わりました。次回は今回に引き続いて紡ぎ糸の玉巻き作業と、簡単な藍の生葉染めをしようかと思っています。
経糸を作るための整経台 これから楽しい休憩タイム
猛暑日が続いている毎日です。郷土館内はクーラーが効いているので涼しいのですが、救急車が音をたてているのを聞くと「もしや熱中症?」と思ってしまいます。その猛暑日の中、早朝から郷土館外の草刈りをしました。9:00に開始したのですが、すでに太陽が昇っている時刻です。汗だくの草刈りとなりました。草刈機を持ってきたのが私だけです。そのため、広い駐車場を一人で炎天下草刈りをしました。最初はよく切れた刃なのですが、だんだん切れにくくなります。すると、刃を交換します。その繰り返しで草を刈りました。
草刈りが終わった郷土館の駐車場、天日乾燥後に集草
私は草刈機を使って広い場所の草刈りをしましたが、他の職員は草刈機が届かない場所の草を刈りました。これまた、日が当たる場所で腰を曲げての草刈りですので大変です。30分草刈りをしては10分休憩の繰り返しです。刈り取った草は地面に広げておきます。すると強い日差しですぐに乾いて枯草になります。次の日、役場の方々がその枯草を集めました。集めた草は焼却場に行くようです。ご苦労様です。今年の郷土館の草刈りは10月が最後です。それにしても、猛暑日の草刈りは汗だくで疲れます。
防火用水近くの草刈り完了 道路に面した箇所は腰を曲げて草刈り
収穫が期待できないと分かっている畑を耕していると、とてもむなしい気持ちになります。先日イノシシに食害された元サツマイモ畑を耕しました。いつまでも畑を放置する訳にもいきません。イノシシが黒マルチを醜く踏みつけたため、黒マルチの残骸が半ば畑に埋まっています。耕耘機をかけると余計黒マルチを混ぜ込んでしまいます。そのため、クワを振り下ろしながら黒マルチの残骸を掘り出しました。やれやれ。
畝に半ば埋まった黒マルチをクワで掘りあげる
最初、元サツマイモ畑を覆っている雑草を草刈機で刈り取りました。草を刈り取ると、イノシシに食害された元サツマイモ畑が姿を現しました。その畝をクワで掘り上げました。来年からはサツマイモを作ることができません。ここ最近イノシシ,タヌキ,猿などの被害の話をよく聞きます。高齢化に伴い里山の管理がおろそかになるにつれ、人の生活域が獣に押されているのでしょう。
雑草の元サツマイモ畑 雑草を刈り取り 黒マルチを取り出す
我家で唯一自給できるジュースがブラックベリージュースです。桃,スモモ,ブルーベリー,ユスラウメ,グミなども我家で栽培していますが、ジュースにはしていません。私が子供の頃栽培していたブラックベリーは野生に近いのか、幹にバラのような棘がたくさん生えていました。しかし、今栽培しているのは栽培種なのか棘がいっさいありません。そのため、収穫がとても楽です。黒く熟した実をそのまま口に入れて食べてもかまいません。しかし、我家ではほとんどの実をジュースにしています。
つぶした果汁を濾してシロップを入れれば、美味しいジュースの出来上がり
ブラックベリージュースの作り方は簡単です。まずは、真っ黒く熟した実を収穫します。熟しすぎた実は発酵が始まっているのか、ワインのような臭いがします。そのような実は捨てます。収穫した実は、水の中に沈めてゴミを取ります。水に浮き上がる実は捨てます。また、実に付いた小さな枝やへたを取ります。
真っ黒く熟した実 傷んでいないか確認 ザルに入れてゴミ取り
ゴミを取って綺麗にした実をミキサーに入れます。水も少しいれます。ミキサーは短時間だけ回します。回し過ぎると種も粉砕されますので。粉砕された実を薄い布に移して、ねじるようにして果汁だけ絞り取ります。上澄みの細かい泡はスプーンで取り去ります。このままでもジュースとして飲むことができますが、やや酸っぱみがあります。そのため、自分の好みに合わせてシロップを入れます。これで、美味しい夏の飲物の出来上がりです。
ミキサーに入れたたくさんの実 絞って果汁を取り出す
出会い地蔵から緩い坂道を下ると、西方寺の石階段下に着きます。この石階段を逆に辿ると、西方寺からほぼ直線に海に向かっています。そして、史跡の一つである船つなぎ石まで繋がっています。かつて、船をつないでいた港から西方寺までの通りは、行きかう人々で賑やかだったことでしょう。幕末期には奇兵隊諸隊の一つの義勇隊が西方寺に駐屯していたとか。義勇隊が出張して留守の時は、田布施町の円立寺の僧練隊が代わりに駐屯していたとのこと。当時は、血走った侍たちが通りを跋扈していたのではないかと思います。その証拠に、西方寺本堂の柱に義勇隊が付けた刀痕がいくつか残っています。
猛暑の中、やっとの思いで西方寺の石階段を登る
西方寺に到着すると、ご住職にお声をおかけして本堂に安置された仏様を拝ませていただきました。そして、柱に残る義勇隊の刀痕を見学させていただきました。ありがとうございました。ところで、義勇隊が起こした加徳丸事件はとても有名です。今の田布施町麻里府の港に着いた薩摩藩借り受けの加徳丸を襲撃して薩摩藩の一人を殺害しました。そして、船に積まれていた積み荷を投げ出して焼いたとの記録が残っています。さらに、殺害した薩摩藩士の首を塩漬けにして大阪に持っていきました。そして、自分達の行動を賛美した上で自決しました。その様子が当時の瓦版(かわらばん)に残っています。田布施町郷土館ではその瓦版の写しを展示したことがあります。
西方寺本堂を見学 義勇隊士が付けた刀痕 長命寺跡から見た室津街
当時、侍の身分ではなかった新撰組が「侍よりも侍らしく」をモットーに京都で活躍しました。当時の義勇隊士にも同じように行動したのではないかと思います。新選組は規範に外れた行動した者には切腹を命じました。それと同じように義勇隊も「侍よりも侍らしく」を行動規範にしたのではないかと思います。現代に生きる我々には到底理解できない規範です。しかし、そのような狂気があったからこそ、今日につながる明治維新が実現できたのだと思います。
お大師山の八十八箇所を巡礼 大師山山頂の大師堂
西方寺を出ると、長命寺跡に向かいました。長命寺があったと思われる立派な石階段を登りました。そして、かつては賑やかだったであろう室津の街並みを見下ろしました。明治初期の廃仏稀釈で、長命寺は廃寺になったか移転したのではないかと思います。長命寺があったと思われる一体を見渡した後、お大師山の八十八箇所巡りをしました。最近巡礼する人が少ないようで、何ヵ所か背の高さほどの草に覆われていました。猛暑の中、一番個所から順番に拝みながら巡りました。お大師山の頂上と麓近くの二ヵ所に、お大師堂と思われるお堂がありました。
道端の船つなぎ石 大きな六角井戸 最後に四階楼を見学
お大師山の巡礼が終わると、海岸近くの船つなぎ石に向かいました。この石が船つなぎ石であることを、傍でガソリンスタンドを経営する同級生に確認しました。その同級生にかつての海岸線も教えてもらいました。ありがとうございました。その同級生のご主人も同級生(田布施出身)です。事故で亡くなる2年前、私が定年を迎えたら会おうと口頭で約束していました。その約束が果たせず今でも残念に思っています。船つなぎ石を見学し終わると六角井戸に向かいました。
ステンドグラスが斬新な四階楼の四階 「道の駅 上関海峡」のアイスで疲れを癒す
最後に四階楼を見学しました。私は何度も来たことがありますが、初めて来た人は感激していました。特にステンドグラスの四階は素敵です。朝日か夕日時にステンドグラスを通して差し込む日差しは虹のように綺麗です。ところで、私の母親(92歳)は、上関に来るといつも四階楼や四階荘を経営していた佐々木のお婆さんのことを「叔母さん」と呼んでいました。その娘さんの一人は柳女(今の柳井高校)に通い母と同級だったそうです。また、他の娘さんの一人は室津の天ぷら屋さんにお嫁入りしたそうです。佐々木のお婆さんは、平生町田名の金福家から佐々木家へ嫁入りしたとのこと。ちなみに私には金福姓の従妹が何人かいます。佐々木のお婆さんとは金福つながりの遠い親戚のようです。しかしながら、佐々木のお婆さんがどのようにして四階楼の継承者になったのか知りたいところです。しかし、今や確認する手立てがありません。
今回の室津の史跡巡りウォーキングに参加された方々、この猛暑の中でお疲れ様でした。来月は、光市の島田駅から岩田駅にかけての史跡を巡ります。
猛暑の中、巡った上関町 室津の史跡コース(全コース)
楢崎剛十郎墓所を出ると、同じ丘にある小方兼九郎墓所に行きました。丘の狭い道を左右に移動していると、蜘蛛の巣が顔にかかって振りほどくのが大変でした。それでも数分で到着しました。言わずと知れた小方兼九郎は四階楼を建てた方で、奇兵隊で幕末に活躍しました。楢崎剛十郎の親戚とのこと。そして、実子の一人が長岡外史と言われており、日本にスキーを導入した人として著名です。長岡外史の生誕碑は下松市と柳井市にあり、出生に謎があるようです。長い髭に特徴がある軍人でした。
日和田山公園にて上関海峡を見下ろしながら昼食休憩
次に丘を降りて、高橋利兵衛墓所に向かいました。当初この墓所が分からなくて探すのに苦労しました。加徳丸事件に加わった奇兵隊諸隊義勇隊士三人の一人でした。他二人が大阪で自決したのを聞いて上関町の西方寺で自決したとのこと。もともとは今の光市出身で砲兵隊をしてしていたようです。出身地の光市島田には高橋利兵衛を祀った祠があります。ちなみに、私の遠い親戚である上関町の佐々木さんの祖先も義勇隊に入っていたようです。上関義勇隊士名簿に佐々木の名前がありますのです。続いて、上関大橋の室津側袂にある吉田松陰の石碑に行きました。漢文(原文),読み下し文,そして現代文の三つの石碑があります。
小方兼九郎墓所 高橋利兵衛墓所 吉田松陰石碑
吉田松陰の石碑を見終わると、道を横切って日和田山公園に行きました。公園には屋根付きのテーブルと椅子がありました。屋根の影があり風通しが良く涼しかったです。この公園からは、皇座山,上盛山,八島,平郡島,そして遠くに四国が遠望できます。さらに、眼下に目を移すと、上関海峡を往来する大型船を見下ろすことができます。皆さんと楽しく談笑しながら、昼食休憩を取りました。
常満寺並びの道脇のお地蔵様 木々に囲まれた加茂神社
30分位の昼食休憩が終わると、日和田山公園を降りました。そして、常満寺並びの道脇にあるお地蔵様に行きました。次に、山上にある大きなソテツ群を見上げながら加茂神社に向かいました。森の中にあるような神社です。伊保庄の加茂神社を勧請した神社ではないかと思います。木々に囲まれて涼しいのですが蚊の大群に襲われたため、すぐ稲荷神社に移動しました。この神社は、皇座山に鎮座する白雲稲荷大明神と何か関係があるのでしょうか。
赤い鳥居が続く稲荷神社 忠魂碑 出会い地蔵尊
稲荷神社の近くに忠魂碑があります。数年前まで、忠魂碑前広場は綺麗に管理されていました。戦友会の高年齢化によって慰霊祭が行われない地区もあるようです。この室津地区も慰霊祭が行われなくなったのではないでしょうか。忠魂碑前広場に足の踏み場もないほどに茂る雑草がそれを暗示しています。忠魂碑を降りると出会い地蔵尊に向かいました。とてもエキゾチックな名前のお地蔵様です。誰と誰が出会うのでしょうか?
猛暑の中、巡った上関町 室津の史跡コース(2/3)
雨のため延期した上関町室津の史跡巡りウォーキングに行ってきました。ちなみに、上関町長島側の史跡は6年前にウォーキングしました。6月の下見ウォーキング時も暑かったのですが、今回8月のウォーキングはさらに猛暑でした。参加者全員が、日傘,水分,紫外線避けクリーム、虫除けスプレーなど万全の準備をしてこのウォーキングに参加しました。猛暑のためか、いつもより少ない5名で楽しく上関町室津の史跡を巡って歩きました。道の駅 上関海峡をスタートすると、最初に四階楼に行きました。四階楼は、遠い親戚である佐々木のお婆さん(物故)が所有していました。ご高齢で維持が難しく、いつしか上関町に寄付したそうです。
常満寺の大イチョウを見上げながら、その由来を知る
四階楼は最後にも立ち寄るので、軽く建物を見上げました。次に、大イチョウを見るため常満寺に向かいました。石階段の工事が終わったようですので、石階段を登って常満寺に行きました。ご住職の奥様に常満寺の本堂に上がらせていただき、仏様を拝ませていただきました。しばらく奥様と歓談しました。ありがとうございました。続いて、鳩子の湯の敷地内にある室津小学校跡地に行きました。昭和30年頃、上関町と室津村が合併する前まで開校していた小学校だと思います。
常満寺の大イチョウ 常満寺の本堂 室津小学校跡地碑
室津小学校跡地碑を過ぎると、海岸沿いの道脇に鎮座する厳嶋神社を参拝しました。最近手入れされていないのか草が生えていました。立っていると蚊が寄ってくるため、近くの室津灯台に移動しました。室津灯台は私が子供~高校生の頃によく来ました。高校生の頃一度、田布施から歩いてこの灯台まで来ました。そして、歩いて帰りました。この灯台に来ると、上関海峡を行き来する船を飽きずに眺めていたことを覚えています。今は、灯台が上関大橋に覆われているように見えます。続いて白浜地区に入りました。そして、崖に鎮座する疫神様などを見ました。
厳嶋神社 室津灯台と上関大橋 崖に鎮座する疫神様など
疫神様などを見学すると、その昔テレビドラマ「鳩子の海」で撮影されたと言われる白浜海岸に行きました。その海岸は今、堤防に囲まれていますが白い砂浜はまだ残っています。しかしながら、今回は満潮だったため砂浜を見ることができませんでした。次に、狭い上り坂の途中にある珍しい五角井戸を見学しました。井戸には錆びた手押しポンプがありました。柄がないため今では使われていないようです。
満潮で見えなかった砂浜 五角井戸と錆びた手押しポンプ
狭い道を通っていると、左右に廃屋がたくさんありました。その昔、井戸を中心に賑やかな声が聞こえたのではないかと想像します。狭い道を上がると、たくさんの墓地がありました。続いて楢崎剛十郎の墓所に行きました。途中に幹がハート型に割れた木がありました。小さな丘に登ると、楢崎剛十郎の墓所と山縣有朋の惜別歌碑がありました。楢崎と山縣は盟友だったのでしょう。楢崎剛十郎は石城山に駐屯していた第二奇兵隊参謀時代、脱走事件で立石孫一郎に惨殺されました。
鳥居を含む墓地群 幹の割れ目がハート型 楢崎剛十郎墓所
田布施町,平生町,そして上関町は幕末期、いろいろな事件が起きました。第二奇兵隊の脱走事件、上関の義勇隊による加徳丸事件、明治初期の奇兵隊脱退者による平生町御館騒動などです。明治維新から150年が経ちますが、どの家にも明治維新に関わる言い伝えがあると思います。ちなみに我家には、奇兵隊に入った息子の安否を気にする母親(曾祖母の母)の話、そして、脱退事件で捕まった人の処刑(平生町人島)を曾祖母が見たとの言い伝えがあります。今ではすっかり歴史になってしまった明治維新ですが、言い伝えを思い出すと身近に感じます。
猛暑の中、巡った上関町 室津の史跡コース(1/3)
江戸時代の記録を見ると、田布施町のほとんどの地区で楮(こうぞ)を栽培していたことが記録されています。そして、当時の川西村で半紙が生産されていたことも記録されています。半紙は、今では習字を書く紙の事を言いますが、江戸時代も同じでしょうか。もし同じだとすれば、習字で使うような薄い紙を生産していたことになります。私には楮の記憶がかすかにあります。特徴的な枝分かれした姿と葉の形に見覚えがあるのです。もしかして、昭和初期頃まで楮が栽培されていたのではないでしょうか。そして、畑の隅っこに捨てられたように残った楮を見たのかも知れません。
真夏になり、ますます大きく成長する楮(こうぞ)
江戸時代に使われた紙を見る機会があるのですが、当時の紙には二種類あったのではないかと思います。一つは、証文などを書くために使われた今で言う和紙です。とても丈夫です。もう一つはとても薄いペラペラのこよりに使うような紙(半紙?)です。ちょっとした手習い紙,手紙,貸し借りの記録などに使ったようです。和紙に対して半紙は粗悪で安価だったようです。庶民用なのでしょう。後者を田布施で生産していたのではないかと思われます。今年は無理ですが、来年は楮を使ってハガキかA4サイズの紙を漉いてみようと思っています。
この枝を裂いて紙の繊維に たくさん枝分かれした楮
八ヶ岳の赤岳に登頂したのは午前11時頃でした。赤岳鉱泉小屋から3時間位でしたので、ほぼ標準タイムで登ったことになります。明け方に台風6号がを通過していったため、霧に包まれた頂上でした。そのため展望が望めませんでした。しかし、時々青空が見えました。時々訪れる青空を見上げながら、早めの昼食を取りました。一昨年登頂を諦めた赤岳です。今回も台風6号の襲来で諦めかけた登頂でした。そのため、喜びもひとしおでした。
時々に頭上に現れた青空、赤岳頂上からみた頂上小屋方面
頂上はさすがに混んでいました。頂上を示す三角点付近では、カメラを撮る方が次々に訪れました。その三角点傍で昼食を取っていたため、シャッターを押す依頼が絶えませんでした。そのたびに、立ち上がって押してさしあげました。逆に、我々のグループが写真を撮る時には、シャツターを押していただきました。頂上は譲り合いやお互い様の精神が必要です。誰もが気持ち良く過ごすための心配りだと思います。
登頂バンザイ! 三角点傍で昼食休憩 最後に三角点にタッチ
頂上にいると、赤岳鉱泉小屋を同じ頃に出発した方々と出会いました。「また出会いましたね」などと声を掛け合いました。さて、頂上には40分位いたでしょうか。12時少し前に下山を開始しました。もう少しいれば、晴れるのではないかと思いました。しかし、いっこうに晴れる気配はありません。今回は登頂できただけでも幸せ者です。足元に注意しながら下山することにしました。
赤岳頂上を振り返りながら 時々晴れて、行者小屋などを展望
赤岳頂上付近は、所々鎖があるような危険な箇所が多くあります。うっかり足を踏み外すと、何10mも転落するような箇所が少なくありません。実際、亡くなった方を慰霊する石碑もありました。しっかり足元を見ながら下りました。樹林帯に降りると危険な個所は無くなります。しかし、それでも気をつける必要があります。道にせり出した木の根、ゴロゴロする石や岩、落ちるとずぶぬれになる沢などです。山には、よく見ると危険な個所がいくらでもあるのです。
さっきまでいた赤岳頂上 行者小屋で休憩 美濃戸口に向かって
樹林帯をしばらく歩くと行者小屋に着きました。椅子を一つ確保して20分位休憩しました。軽く口に入れたり水分を補給しました。数年前のことです。猛暑の中で水分が足りなかったのでしょうか、階段を登ろうとして一歩足を上げると軽く痙攣したことがありました。それ以降、猛暑日には水分を気にしています。行者小屋を出ると、ほとんど休みをとらずに「やまりこ村」まで歩きました。頂上に登ることができた満足感でしょうか、みんな元気にスタスタと歩いていました。今度八ヶ岳に来るときは、晴れた日に来たいものです。「やまのこ村」に着くと、車で温泉に行き疲れた体を癒しました。行きも帰りも運転していただいたiさん、ありがとうございました。参加された方々、お疲れ様でした。
樹林帯の小道を、すたすたと元気に歩く皆
赤岳鉱泉小屋で朝を迎えると、小屋の周りは霧で包まれていました。深夜から早朝にかけて台風6号は通過していったようです。これ以上天候は悪くならない見通しのため、赤岳に登頂することにしました。赤岳鉱泉小屋の方によると、この台風のため宿泊客が半分に減ったとのことでした。このことは、登山客が減ってルートが空いている事を意味します。そのため、あまり渋滞を気にせずに登ることができます。
もう少し岩場を登れば赤岳頂上(標高2899m)
赤岳鉱泉小屋を出ると、行者小屋に向かいました。最初、樹林帯をしばらく歩いていると中山展望台への分かれ道に着きました。中山展望台へは10分で往復できますが、今回は行者小屋に急ぎました。中山展望台への分岐からは下りの道です。しばらく歩くと行者小屋が見えてきました。ここで10分位の休憩を取りました。ここから赤岳まで小屋はありません。、
朝食を済ませた赤岳鉱泉 行者小屋を目指す 中山展望台への分岐点
行者小屋に着いて周りの登山客を観察しました。夏休みのシーズンなのか子供達の姿が少なくありませんでした。家族で来たり、団体で来ているようでした。関西から来ている方も少なくありませんでした。さすがに、海外からの登山客は見かけませんでした。台風のためか登山客はとても少なく、広場の椅子にゆったりと座ることができました。
到着した行者小屋、少し休憩 さあ、赤岳に向かって出発進行
十分な休憩を取ると、赤岳に向かって出発です。ここからは次々に急登が出てきます。今回は文三郎尾根を登りました。この尾根の特長は、次から次へと階段があることです。急登で疲れますが赤岳へは一番近道です。そのため、このルートを登る方が多いとようです。このルートの途中に阿弥陀岳への分岐があります。ところで、台風のため展望が晴れず、ずっと霧と風の中を歩きました。真夏にも関わらず、とても涼しく快適な登りでした。
阿弥陀岳の分岐点 次々と階段を登る 中岳近くで少し休憩
ところで、私が20代の頃に登った時は真冬のお正月でした。硫黄岳から赤岳へ縦走したのですが、どのルートを下山したのか記憶にありません。階段がある文三郎尾根のような下り坂ではなかったように思います。おそらく、赤岳から阿弥陀岳に行って行者山荘経由で赤岳鉱泉小屋に戻ったのではないかと思います。凍てつく真冬、よくもまあ無事に縦走したものだと思います。当時は怖い物知らずの私だったようです。
今回歩いた、赤岳鉱泉小屋~行者山荘~文三郎尾根~赤岳のルート
久しぶりに高い山に登ってきました。八ヶ岳の最高峰赤岳(標高2899m))です。実は一昨年の秋に登頂を試みたのですが、朝から晩までずっと雨でした。そのため登頂を諦めました。今回は再チャレンジの八ヶ岳の赤岳登頂でした。ところで、私にとって赤岳登頂は2度目のことです。初めて登ったのは、私が20代の頃の真冬でした。耐寒訓練をした上で八ヶ岳の硫黄岳~赤岳間を縦走しました。とにかく寒かったことを覚えています。
赤岳鉱泉小屋での楽しい夕食
八ヶ岳に向かう前、運悪く台風6号も来ていました。そのため、今回も赤岳登頂を諦めなければならないのではと憂鬱でした。「やまのこ村」まで車で行きそこから歩きました。台風が近づいていたため、あらかじめカッパを着てのスタートでした。ところで、私が初めて赤岳に登頂した20代、美濃戸口バス停でバスを降りて歩きました。真冬でしたので、登山靴には当然アイゼンを付けていました。
出発した「やまのこ村」 小休止した美濃戸山荘 赤岳鉱泉小屋に向かう
台風の影響のためか時々雨が降りましたが、雑談しながらのんびりと川筋を上流に向かって歩きました。雨が降ると石や木が濡れて靴が滑ることがあります。一昨年同じ道を通った経験が生きたのか、滑ったり転びそうになることは皆無でした。歩いていると、木道などにたくさんの修理の跡がありました。日々道を点検したり、修理している方がいるのでしょう。登山者にとってありがたいことです。感謝!
ザックが濡れないようザックカバー 濡れた木道を注意深く渡る
歩き始めて3時間位経ったでしょうか、宿泊する赤岳鉱泉小屋が見えてきました。私が20代の時に初めてこの小屋に来ました。その時は、宿泊しないで小屋の外にテントを張りました。来たのが大晦日でしたので、私は小さな注連縄を持ってきました。氷点下だったため、張ったテントの内側に付着した息が凍ってキラキラ光っていたのを覚えています。今回は小屋内に宿泊です。夕食は美味しいステーキが出ました。子供や女性を宿泊しやすいようにとの工夫なのでしょう。私が20代だった40年前とは雲泥の差です。
赤岳鉱泉小屋に到着 受付に到着を連絡 ロープワーク講習会
赤岳鉱泉小屋で一つ良いことがありました。夕食後の19時頃、ロープメーカーのMAMMUT(マムート:スイスのアウトドアブランド)によるロープワークの講習会がありました。講習会が一通り終わるとクイズがありました。正解するとMAMMUTからプレゼントが渡されるのです。我々のグループは4人参加しました。クイズの終わり頃になると、私だけがプレゼント無しとなり少々焦りました。ところが、私が得意にしているロープワークの出題がありました。見事MAMMUTのタオルをゲットしました。なお、講習会参加者全員にカラビナとローブのプレゼントがありました。その後、寝床につきました。その夜から朝にかけてだんだん雨が激しくなり、台風が通過していきました。
八ヶ岳赤岳鉱泉小屋までの道のり
農作業小屋で探し物をしていると、陰で何か動くものがいました。そっと近づくとアカテガニでした。手をそのまま差し出すと、大きなハサミで挟まれて痛い思いをします。そのため、たまたま近くにあった軍手で掴み、カニの両脇を指で掴みました。捕まえたアカテガニは怒ってハサミを振り回していました。そのアカテガニ、顔に近づけて久しぶりによく観察しました。
両脇を指で挟んで捕まえたアカテガニ
最近このアカテガニを見かけることが無くなりました。理由は海岸の堤防や護岸工事です。アカテガニは幼生時代を海で過ごします。その後、海から陸に上がるのですが、高い堤防に遮られて上陸できないのです。また、堤防に遮られて親のアカテガニは卵を産むために海に行けないのです。カニにとって住みにくい世の中になってしまったようです。
赤く立派なハサミ 壮観な面構えで お腹を見ると雄です