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「新しい」を本気で考える

2011年04月12日 | 読書
 4月になって一番使った言葉は、「新しい」かもしれない。トップという確証はないにしろ、まんざら的外れとは言えないだろう。

 新学期、新担任、新入生、新教科書…年度が新しくなったことで、多くのモノに、そういう形容をつけることができる。
 それを受け取る、受けとめる側も、確かにその「新しい」に気持ちが動き、一つネジを巻いて頑張ろうとするのは一般的で、悪いことではない。

 しかし、またこういう時期に「新しい」の本質を考えてみることも大切ではないかと思う。

 糸井重里はこう書いている。

 「新しい」を身にまとうためではなく、「新しい」を本気で考えたときに、「変わらない」が選ばれたら、それは「新しい」ということ。

 商品的な要素に対する言葉かもしれないが、私たちの日常にも通用するのではないか。
 黙っていても時が流れたり、仕事上の命令が下ったりして「新しい」が身にまとわれることがある。その時に、この「新しい」の本質は何だと考えることは必須だ。

 何を新しくすればいいのか、何がこのままであっていいのか吟味してみること。その過程を経て「変わらない」ことが意識されたら、それは「新しい」ことだ。そこから出発できる。

 自分から進んで「新しい」を始めるときにも、何のためかがはっきりしていること。「新しい」というそもそもの魅力だけを欲しがる心を野放しにしてはいけない。上手く操るしたたかさが必要だ。

 「新」という漢字の成り立ちについて指導するスライドを作ったことがある。
 「新」の部首「斤」は「斧」の意味であり、木の切口が新しいことを示していることからできた漢字である。

 その説をとれば、斧やその振り下ろし具合を「新しい」何かに見立てて、スパッと自分自身という木を切っていく…そんなイメージ、つまり新鮮な断面を見せながらことに臨んでいく、それが「新しい」姿と言えるのかなという思いがわく。

 斧を意識し、振り下ろす角度や強さを意識する。
 本気で考えるとはそのことだ。
 仮にその姿が結果的に以前と変わらないとしても、意識さえしっかりしていれば、それはいつも新しい。