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叱られ者の受講記

2017年08月03日 | 教育ノート
 久しぶりに、師匠と仰ぐ野口芳宏先生のお話を聴いた。

 講義のテーマは「教科化に向けた道徳教育の在り方」。
 直接の関わりを持てなくなっているが、教育界にとっては喫緊のことでもある。
 ただ本県では、民間団体が「教育者研究会」と銘打っても、現役教員の参加が依然として少なく、残念なことだ。



 講義の導入は、幾度となく聞いている「現在の世相や若者問題の責任の中心はどこにあるか」という問いである。

 A家庭教育  B学校教育  C社会教育

 この問いに関しては、教員が多く集まる研修会においても同様だが、Aに挙手が多く集まる傾向がある。

 野口先生はいつもBと言い切る。
 むろん個々の解釈や断はあろうが、実はこの問いの本質は、先生の次の言葉に表れている。

 「『B学校教育』に手を挙げない学校教育関係者は、いったいどういう考えなのか」

 学校の本質は教育であり、教育の専門機関としてそこに関わる者の責任やいかに…ということであろう。

 
 今回は、続けて語られた「家庭は教育のためにあるのではない」という一言が、その本質・根本を考えるうえで、今さらながら心に響いた。
 改めて考えさせられることは、家庭の本質である「安らぎ」を子どもたち自身が十分に感じて育っているのか、いわば教育の下地の部分が危うくなっているという現実である。


 道徳の教科化という「制度の変更、改正」に話が及んだ時に、ぽんと言い放った一言が、実に師匠らしい。

 「制度によって教育が良くなるなら簡単だよ」

 一人一人の教師の意識改革こそ問題である、という結論に対しては誰しも納得するだろう。

 それゆえ、結構な時間をかけて「制度の変更、改正」に関して語られてきたことは検討されるべきなのだ。

 しかし、残念ながら現場はその優先度を高められる実態にない。
 さらに、地域毎や教員個々の温度差があることはわかっていても、それを踏まえた取組みが継続される見込みは薄い。それは縦割り行政の弊害とも言うべきことだ。

 結果、一律に進められていく危険性を常に孕み、形骸化された「制度」だけが残り…。


 と、あまりに悲観的な見方をしてしまったか。

 これでは師匠にまた叱られる。