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神も始末に負えないポジション

2017年08月24日 | 読書
 「超」という形容(接頭辞)はもはや一般的になってしまった。
 さらに「鬼」が出てきて、そして「神」まで登場する。最近?の流行りは「神対応」か。
 その流れで使われただろう「神ポジション」…いや、しかしこれはないでしょう、そうでしょ!神!と心で叫びつつ、目に留まった文章がある。



Volume72
 「インターネットを通じ、個人の視界がとめどなく拡張される現代においては、もはや『神ポジション』がほとんどの人間にとって所与となりつつある。『多分問題なのは、わかってしまうことと、できることがすごく乖離していることね』」

 書評家倉本さおりが、ある本の「神ポジション」という言葉と登場人物の語る一節を取り上げて述べた文章である。

 例えば半島の国の問題にしても、多くの情報を得て「わかる」ことがたくさんあるけれど、個が「できる」ことと言ったら…。

 現状も全くそうだが、仮に望ましくない混乱が起きたときに、私たちはいったいどんな行動を取るのか、筋道は立っているのだろうか。漠然とした不安がつきまとう。

 「神ポジション」とはある意味で、先日書いた「ポスト真実」とも関わってくる気がする。
 つまり、そのネット上にある膨大な情報の中から、選びとったように見えて実は操作されたり印象付けられたりしたニュースによって「わかった」つもりになってしまうこと。

 そして、どこかに攻撃対象を見つけ、参加態勢を築くかもしれない。
 そんなことばかりが「できる」ポジションが心地よくなっているのかもしれない。
 
 これは、例えば「無能な神」のような名づけられ方もあろうが、それより「洗脳された奴隷」とでも呼んでしまいたいほどである。

 本当の神も始末に負えなくなる。