すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「自然」を見続ける意味

2017年08月06日 | 読書
 養老語録からもう一つ。養老先生の教えとして、いつでもどこでも実行しやすいのは、この言葉である。

 「人が作ったものでない『自然』を毎日10分見続けること」

 その意義について端的に述べられているのは、フォーラム記録のこの文章だと思う。

Volume70
 「情報には人の意識を通過して表出する、人が手を加えない限り変わらないーという特徴があります。変わらないものには時が流れません。ということは、過剰に情報に傾いてしまうと、過ぎゆく時を失ってしまうことになります。止まっているものだけを見ていては、刻々と移り変わっていくものを見る力、『感覚』が鈍くなってしまいます。」




 「価値ある」情報とは何か、と考える。
 その情報に出会って、動きを促すもの、感覚を研ぎ澄ますもの、ととらえていいかもしれない。

 情報そのものに価値の有無はないのだが、情報に対する人の接し方だけが「価値」を決めると言える。

 スマホやPC画面に映し出される情報は絶えず更新されていて、それを目にしていることが、時代の先端を行っているように誤解されがちだ。
 しかし肝心なのは、その情報をどう処理し、身体化できるかである。
 意識だけが情報につき合い、振り回され、そのあげく疲れ果てていく。体はいつも置き去りだ。

 例えば「止まっているもの」の代表格である、紙媒体の「読書」ではどうか。
 読み浸る愉しみはさておき、面白さに夢中になっていく自己の内部感覚を確かめたりすることは、結構できるのではないか。数少ないがそういう経験もある。

 それにしても、いわゆる「自然」には到底叶わない。
 きちんと見る時間を確保できるといい。