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子どもをみる目を、みる

2006年11月18日 | 雑記帳
 野口先生をお迎えしての研修会のまとめの一部として、次のことを書いた。

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 今回のテーマ「子どもを『見る』目を鍛える」は、夏に開催されたある民間教育研究団体で野口先生の講演題になっていたものを参考にして設定した。
 しかし、今考えるとそれは「見る」ではなく「みる」とすべきだったようである。
 「みる」は「見る」でもあるが、「視る」「看る」「診る」と幅広い意味づけができるし、今回のお話によりふさわしかっただろうと思う。
 先生に宛てて依頼した文書には、例として次のことを書いた。

【今の子どもをどう捉えるか】
【授業においてどんな所に着目して「受け」ていくか】

 快楽追求、消費文化の真っ只中で育つ子どものひ弱さについて、幾度も言及している野口先生ではあるが、けして目の前の子どもを諦めたり、手放したりはしない。子どもは常に「向上欲求」を持つ存在としてみられており、それを信じて授業が構築されてゆく。
 授業に対する反応を、挙手や「音声発言」を中心としないで「ノート発言」という形で顕在化させていく、「音読発言」で理解度をはかる、そして「表情発言」に気を配る…これらは多様な「みる」と解釈することができる。
 
 さらに言えば、「野口流」として著名な○×方式の二者択一型発問は、全員参加を促し当事者性を意識させるための手法であるが、同時に子どもを「みる」有効な手立てとも言えるのではないか。今回の授業ではなかったようだが、特に子どもの発言を取り上げて問いの形にする場合は強く「みる」意識がでていると感じる。
 取り上げるポイントの一つはおそらく教材解釈とのズレにあると予想できる。
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 かの斎藤喜博氏は、子どもを「見る目」の重要性を大きく語っていたはずだ。

 大西忠治氏は、「とらえる視線」という言葉でそれを表していた。

 上條晴夫氏には名著「子どもウォッチング」がある。

 「子どもをみる目」を、私たちはもっと学ぶ必要があると改めて思う。
事実を通して、より具体的に、より体系的に、より実践的に…
そうした研修を組み立てていく必要がある。