百醜千拙草

何とかやっています

レビューのこと、平和の終わり

2012-04-24 | Weblog

先週依頼があった論文レビュー二本とグラントのレビュー、よく見てみるとどちらも昔の知り合いがらみでした。論文の一つは十年ほど前に独立した知り合いからのもので、その間、一度だけ学会で会っただけでしたが、なんと十年前のテーマをネチネチやっていました。正直、そのネチネチさに感動しました。多少冗長でしたが、シブい良い論文でした。私はすぐ興味が移るので困ります。よい論文を読むと、研究というのは、深く掘り下げていくことが重要なのだなと思います。もう一つは、学会などで数回、話をしただけの間柄の人の研究室からですが、仕事についてはお互い細々とやっていた昔のころから知っています。私はいまだに細々なのに、相手方はいまや中規模の研究グループを抱え、iPS研究の一部門の教授として活躍中。以前もこのジャーナルに論文を発表していたのを覚えています。私もこのジャーナルのレベルの雑誌に論文がコンスタントに載るようになればいいのになあ、と常々、思っています。グラントの方はベルギーからで、つい最近独立した知り合いの下でポスドクを始めた人のフェローシップの応募でした。見てみるとよく書けています。この春、数本引き受けたイタリアのグラントの出来と比べたらはるかに良いです。当然ですが、グラントにしても論文にしても、読み手のことを考えて書いてあるものはやはり高い得点をとることになります。科学コミュニケーションは情報の送り手と受け手との間のやりとりですから、情報を送る方は受け手のこと考えるのは当然のことなのです。実際は、そう思っていない人がかなり沢山いるという印象があります。研究の口頭発表で、スライドの方だけ見ていて聴衆の方を一切見ないような人がいます。日本人には結構、多いです。こういう人の発表は、内容が伝わっているかどうかを見ながら喋っていないので、分りにくいです。中には、聴衆のレスポンスを全く見ていないくせに、発表内容の質問に対して「話を聞いていたのか?」と逆切れしたりする人もいます。これはみっともないです。人に話をするときは、相手の目を見て話せ、といいますね。大勢の聴衆に対して話す場合も同じです。聴衆全員の目を見るのは不可能でも、聴衆がどのように自分の話を聞いているかのフィードバックを取りながら話すことは重要だと思います。グラントも論文も、読み手が十分言いたいことを理解できるような考慮がされてあり、そして読み手が持つであろう疑問に対して答えを与えていくような書き方がしてあると、評価する立場としては、読みやすいですし、そして何より、その研究者は同様の思慮深い態度でもって研究にも臨むだろう、と好意的な先入観をもつことになると思います。一方、オレの研究はスゴいだろう、スゴさのわからないヤツはバカだ、と言わんばかりのグラントや論文もあり、そういうものは大抵、中身は大したことはありません。

さて、今週、4-26に小沢氏への判決が出ることになります。無罪は当然ですが、裁判長は、この起訴そのものの問題を論じ、冤罪をでっち上げた検察と検察審査会を厳しく批判してその調査を促すような判決文を出さないとダメです。しかし、「ミスター推認」の時のように、有罪判決を出す可能性はあります。公訴棄却をしなかった時点で、この裁判長はヒラメで上を見ながら仕事をしているのではないかという危惧があります。つまり、裁判長が司法人としてのintegrityを重んじず、前回同様、最高裁に脅されて「魂」を売ってしまう可能性は低くないということです。その場合の日本の統治システムに対する国民の不信は拭い難いものになると私は思います。最高裁はそこまでバカでしょうか。そうでないことを望みますが、これまで散々、政治家、官僚どものバカさ加減を見せつけられてきましたから、最高裁がそこまでバカでも驚きません。しかし、そうなれば、日本の平和はもう終りでしょう。日本が、法治国家でも民主主義国家でもない、官僚独裁国家に過ぎないということを宣言することになるわけですから。国民の統治機構への不信が高まれば、普通の国だと、暴動がおこり市民戦争となります。この国難にあってなお、己の利益しか考えない官僚組織に対しては、平和ボケで骨抜きにされてきた日本国民でも、さすがにキレるのではないかと思うのですが。

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