前回、書き直すのが面倒くさくて、要点だけ箇条書きにしましたが、コレはラクでいいですね。そもそも科学論文は、修辞を排して、要点だけをできるだけ単純な文章で書くという訓練をするわけで、私もそういう書き方に慣れているので、箇条書きで書く方が圧倒的に論点もわかりやすいし、書きやすいことを実感しました。
小沢新党、「国民の生活が第一」という会派名と同じ政党名になったようで、いいのではないでしょうか。どう省略するのでしょう?意味が残るように省略するのは難しそうです。確かに「新政研」からとって「新政党」では、党名に中身がありませんし、それにかつての「新生党」とまぎらわしいです。「国民の生活が第一」そもそも、政権交代時の小沢民主党は、このスローガンで選挙を戦いました。政権を委託されたときの民主党幹事長が、クーデター執行部の民主党の変節を批判して、そのスローガンを持って離党し、スローガンそのものを党名にする、というのはわかりやすくてよいです。クーデター執行部が運営する現民主党は、「国民の生活が第一」という精神を捨て去ったのだ、という批判にもなっています。
この数日、新聞はこの小沢新党の話で持ち切り、できる前は、できてもしない新党への期待度を調査したり、新党ができたらできたで、早速、経団連や既得権側の連中から新党批判のコメントを一面に出してネガティブキャンペーンを繰り返しています。マスコミは小沢さんに喰わせてもらっているようなものです。体制側はそれだけ「国民の生活が第一」党を恐れているのでしょう。
この国の政府、官僚、マスコミらは、原発に関する対応でわかるように、ウソを平気でつき、そのウソがどんなにバレバレでも、押し通すキチガイどもです。新党旗揚げに先だって、小沢氏を嵌めた検察審査会のデタラメを探ってきた森ゆう子議員、国会で審査会の証人を呼び、その矛盾やデタラメを指摘した上で、何度も、「どうしてウソをつくのか」と糾弾。普通の人間だったら、ウソをついた証拠を握られて、ウソをついたのを正面から糾弾されたら、大人しく負けを認めるものです。官僚どもは絶対しません。いくら証拠を山積みにされてても、そのウソを壊れたレコードのように繰り返すだけです。悪質極まりない。
続いているのが冗談としか思えない陸山会裁判、これだけの批判を受けながらも、論理もクソもない理屈で控訴した検察役弁護士や、さっさと公訴棄却しない裁判官、どう考えても次の選挙時期に、何か仕掛けてくるでしょう。それがちょっと心配ですが、小沢氏は多分、それも織り込み済みで次の一手を読んでいるのでしょう。
これらの考えは素晴らしいと思います。官僚や既得権に対する正面きっての挑戦です。なぜなら、現在、1、日本の主権は国民ではなく、官僚組織とその守護者である政治家や利権互助会の企業らが実質握っており、2、それは中央集権のピラミッド型権力構造をとっているために地方は中央に隷属してしまっていて、3、日本は安全保障は無論のこと、金融、外交、経済において、アメリカの意向に背くことができない植民地国家である、からです。特に3を明言したことは特筆に値すると思います。
ところで、内田樹の研究室の最近のエントリー、伊丹十三と「戦後精神」を読みました。私は、伊丹十三氏はマルサの女などの映画監督として主に知っているだけすが、マル暴関連の映画を作った時にヤクザに刺され、その後、最終的には510組関係の者にビルの屋上に押し上げられて自殺を強要されたという話を地上げ屋さんのブログで以前読んだ覚えがあります。
その内田樹のエントリー、半冊分ぐらいの長文ですが、なかなか素晴らしい洞察に満ちています。伊丹十三氏が孤立を恐れない高貴な人間であり、ヒューマニティーを守るために戦う人であったという評価に私も同意します。江藤淳と同世代の戦中派であるというのも知りませんでした。この二人が生きていたら、小沢新党の上の綱領を読んで、どう言っただろうと想像せずにおれません。
このエントリーで現代を含む戦後日本の深い病理について再び述べてあります。いわゆる先進国という名のついている国で、ここまで屈辱的な立場にある国はないと私は思います。その日本の立場に対する日本人自らの認識の欠如というか、見て見ないふり、というのが、私にはちょっとガマンできない部分があります。
エントリーでは「貧乏」と「貧乏臭い」の違いについて、述べてあって、私も、日頃から貧乏は仕方が無いが貧乏臭いのはダメだと思っているので、妙に共感してしまいました。貧乏はただの欠乏状態に過ぎないのに、貧乏臭いのは、それを「恥ずかしく思う」ことからにじみ出るイヤラしさです。貧乏という欠乏状態を直視し、改善のための最適の行動をとる、それが貧乏から抜け出す道でしょう。貧乏臭いのは貧乏を直視することを厭い、クサいものに蓋をするような態度ではないでしょうか。この態度、イヤなものを直視せず、蓋をしてしまうことが、戦後日本がいまだにかくまで屈辱的な立場に置かれ、いくら外国にカネを出しても尊敬されない国である原因ではないか、と私は感じるのです。一言でいえば、物的には「貧乏」とはいえないのに「貧乏臭い」国、そんな国に私は見えます。
昨日のニュースで、日本人がブロードウェイで主役をやった、例によって「世界のナントカ」だ、という記事を見ました。これが、私のいう典型的な貧乏くささです。つまり、イヤな現実、日本は戦後ずっとアメリカの植民地であり独立国家ではないという現実を直視するかわりに、その屈辱を日本人の世界の舞台での活躍というもので覆い隠して、日本は独立した一流国だと自らを偽る態度(私は負け犬根性と呼んできましたが)を記事から感じるのです。いくら日本人が活躍したところで、それはブロードウェイであったりベースボールであったりというアメリカの土俵の上での話に過ぎないワケです。いくら日本人が上手にセリフをしゃべって踊ったところで、それを見たアメリカ人は、まず第一にそれが、日本人であることを意識もしないでしょうし、かりに日本人だとわかったところで、(言葉は悪いですが)いわば犬とか猿が凝った芸を見せるのに感心するのと同様に、「へー、日本人も人並みに芸はできるんだね」ぐらいにしか思わないでしょう。つまり、いくら日本人が野球ができてもブロードウェイにでたところで、当のアメリカ人が「日本はすごい」という評価はまずしないと断言できます。それをわかっていながら、メディアは「世界のナントカ」だ、というような記事を書く。その辺が貧乏臭いのです。
国民の生活が第一党の綱領、それが心からのものであれば、素晴らしいです。日本の貧乏くささの根源である官僚組織、その官僚組織を貧乏くさくさせているアメリカ支配を正面から批判しているからです。
小沢新党、「国民の生活が第一」という会派名と同じ政党名になったようで、いいのではないでしょうか。どう省略するのでしょう?意味が残るように省略するのは難しそうです。確かに「新政研」からとって「新政党」では、党名に中身がありませんし、それにかつての「新生党」とまぎらわしいです。「国民の生活が第一」そもそも、政権交代時の小沢民主党は、このスローガンで選挙を戦いました。政権を委託されたときの民主党幹事長が、クーデター執行部の民主党の変節を批判して、そのスローガンを持って離党し、スローガンそのものを党名にする、というのはわかりやすくてよいです。クーデター執行部が運営する現民主党は、「国民の生活が第一」という精神を捨て去ったのだ、という批判にもなっています。
この数日、新聞はこの小沢新党の話で持ち切り、できる前は、できてもしない新党への期待度を調査したり、新党ができたらできたで、早速、経団連や既得権側の連中から新党批判のコメントを一面に出してネガティブキャンペーンを繰り返しています。マスコミは小沢さんに喰わせてもらっているようなものです。体制側はそれだけ「国民の生活が第一」党を恐れているのでしょう。
この国の政府、官僚、マスコミらは、原発に関する対応でわかるように、ウソを平気でつき、そのウソがどんなにバレバレでも、押し通すキチガイどもです。新党旗揚げに先だって、小沢氏を嵌めた検察審査会のデタラメを探ってきた森ゆう子議員、国会で審査会の証人を呼び、その矛盾やデタラメを指摘した上で、何度も、「どうしてウソをつくのか」と糾弾。普通の人間だったら、ウソをついた証拠を握られて、ウソをついたのを正面から糾弾されたら、大人しく負けを認めるものです。官僚どもは絶対しません。いくら証拠を山積みにされてても、そのウソを壊れたレコードのように繰り返すだけです。悪質極まりない。
続いているのが冗談としか思えない陸山会裁判、これだけの批判を受けながらも、論理もクソもない理屈で控訴した検察役弁護士や、さっさと公訴棄却しない裁判官、どう考えても次の選挙時期に、何か仕掛けてくるでしょう。それがちょっと心配ですが、小沢氏は多分、それも織り込み済みで次の一手を読んでいるのでしょう。
新党「国民の生活が第一」は三本柱からなる綱領を設けた。
1、「国民の主権」
国も官僚も企業も団体も、もはや公共の福祉の名の下に情報を独占し隠ぺいすることは許されない。
2、「地域主権」
国と地方の関係については、統治機構の抜本改革の中で協議を先行させる。
3、「国家としての主権」
安全保障のみならず文化・教育・科学技術・経済・金融・外交等々、真の主権国家を確立する。
1、「国民の主権」
国も官僚も企業も団体も、もはや公共の福祉の名の下に情報を独占し隠ぺいすることは許されない。
2、「地域主権」
国と地方の関係については、統治機構の抜本改革の中で協議を先行させる。
3、「国家としての主権」
安全保障のみならず文化・教育・科学技術・経済・金融・外交等々、真の主権国家を確立する。
これらの考えは素晴らしいと思います。官僚や既得権に対する正面きっての挑戦です。なぜなら、現在、1、日本の主権は国民ではなく、官僚組織とその守護者である政治家や利権互助会の企業らが実質握っており、2、それは中央集権のピラミッド型権力構造をとっているために地方は中央に隷属してしまっていて、3、日本は安全保障は無論のこと、金融、外交、経済において、アメリカの意向に背くことができない植民地国家である、からです。特に3を明言したことは特筆に値すると思います。
ところで、内田樹の研究室の最近のエントリー、伊丹十三と「戦後精神」を読みました。私は、伊丹十三氏はマルサの女などの映画監督として主に知っているだけすが、マル暴関連の映画を作った時にヤクザに刺され、その後、最終的には510組関係の者にビルの屋上に押し上げられて自殺を強要されたという話を地上げ屋さんのブログで以前読んだ覚えがあります。
その内田樹のエントリー、半冊分ぐらいの長文ですが、なかなか素晴らしい洞察に満ちています。伊丹十三氏が孤立を恐れない高貴な人間であり、ヒューマニティーを守るために戦う人であったという評価に私も同意します。江藤淳と同世代の戦中派であるというのも知りませんでした。この二人が生きていたら、小沢新党の上の綱領を読んで、どう言っただろうと想像せずにおれません。
このエントリーで現代を含む戦後日本の深い病理について再び述べてあります。いわゆる先進国という名のついている国で、ここまで屈辱的な立場にある国はないと私は思います。その日本の立場に対する日本人自らの認識の欠如というか、見て見ないふり、というのが、私にはちょっとガマンできない部分があります。
エントリーでは「貧乏」と「貧乏臭い」の違いについて、述べてあって、私も、日頃から貧乏は仕方が無いが貧乏臭いのはダメだと思っているので、妙に共感してしまいました。貧乏はただの欠乏状態に過ぎないのに、貧乏臭いのは、それを「恥ずかしく思う」ことからにじみ出るイヤラしさです。貧乏という欠乏状態を直視し、改善のための最適の行動をとる、それが貧乏から抜け出す道でしょう。貧乏臭いのは貧乏を直視することを厭い、クサいものに蓋をするような態度ではないでしょうか。この態度、イヤなものを直視せず、蓋をしてしまうことが、戦後日本がいまだにかくまで屈辱的な立場に置かれ、いくら外国にカネを出しても尊敬されない国である原因ではないか、と私は感じるのです。一言でいえば、物的には「貧乏」とはいえないのに「貧乏臭い」国、そんな国に私は見えます。
昨日のニュースで、日本人がブロードウェイで主役をやった、例によって「世界のナントカ」だ、という記事を見ました。これが、私のいう典型的な貧乏くささです。つまり、イヤな現実、日本は戦後ずっとアメリカの植民地であり独立国家ではないという現実を直視するかわりに、その屈辱を日本人の世界の舞台での活躍というもので覆い隠して、日本は独立した一流国だと自らを偽る態度(私は負け犬根性と呼んできましたが)を記事から感じるのです。いくら日本人が活躍したところで、それはブロードウェイであったりベースボールであったりというアメリカの土俵の上での話に過ぎないワケです。いくら日本人が上手にセリフをしゃべって踊ったところで、それを見たアメリカ人は、まず第一にそれが、日本人であることを意識もしないでしょうし、かりに日本人だとわかったところで、(言葉は悪いですが)いわば犬とか猿が凝った芸を見せるのに感心するのと同様に、「へー、日本人も人並みに芸はできるんだね」ぐらいにしか思わないでしょう。つまり、いくら日本人が野球ができてもブロードウェイにでたところで、当のアメリカ人が「日本はすごい」という評価はまずしないと断言できます。それをわかっていながら、メディアは「世界のナントカ」だ、というような記事を書く。その辺が貧乏臭いのです。
国民の生活が第一党の綱領、それが心からのものであれば、素晴らしいです。日本の貧乏くささの根源である官僚組織、その官僚組織を貧乏くさくさせているアメリカ支配を正面から批判しているからです。