百醜千拙草

何とかやっています

平和のための戦争

2012-07-17 | Weblog
世の中に余裕がなくなると、人間というものはその醜さや汚さを露骨に現してくるもので、最近、ちょっとその毒気に当てられて、気分がすぐれない日々です。これは努力して避けなければいけません。
週末、ふと本棚の隅にあった聖書物語という本をちょっと読みました。体調の悪い時にこんな本を読むべきではありません。聖書にでてくる人々の醜さ、おぞましさで、またまた体調が悪くなってしまいました。親子、兄弟での殺し合い、近親強姦、裏切り、暗殺、なんでもありです。いま、永田町や霞ヶ関界隈で起こっていることも本質的には同じようなものですから、人間というものは太古の昔から成長しないものだとつくづく思います。

聖書物語を読んでいて、シャローム(平和)と彼の地で呼ばれるものが指す平和は、仏教的な全体的調和のとれた静的な状態とは随分違うのだということを知りました。シャロームは戦争や殺し合いの中にさえある力のこもった「動的」な概念なのだということで、東洋的な平和はむしろ堕落とさえ考えられているということです。東洋が争いや対立の起こる前に目をつけて、「無分別」の世界をめざすのと逆に、かれらはもっと動物的で、平和は敵を倒し己を守ることによって得られ、戦い続ける中に求めるものだと言っているようです。あくまで終わりのない二項対立、弁証法の世界です。平和は不安定な一過性の状態にすぎず、戦い続けることによってしか得られないものだ、最近はこういう平和の概念、多少は理解できるようになりました。それでも多分、西洋人の動物本能的なものへの比較的無批判な親和性を東洋人が理解するのは多少難しいだろうと思います。知り合いのギリシャ人は、「殺し合うのは人間の本質」だ、と言います。聖書からもわかるようにヨーロッパでは「互いに殺し合う動物が人間である」という考え方が常識なのでしょう。だから、マルクスは「社会主義、共産主義は、人間の動物的なものを何とかしようとする試み」と言ったのでしょう。人間の動物的なるもの、即ち、己の命と利益を守るために殺し合うという行いを抑制し、より「人間的なもの」を発展させるために、社会主義や民主主義が考え出されました。民主主義は人々に人間としてのアプリオリの権利を認めることによって殺し合いの少ない社会をつくるという試みでした。結局は、民主主義というエントロピーが低い状態を維持するには、持続的なエネルギーの流入が必要なことがわかりました。やはり、動物的なものに対して、まずは、戦ってそれを抑えなければならなかったということだと思います。仏教の理想を実践するのはこの動物的な社会では難しい。実際は、人間としての権利を持つというアイデアを守るために、人々は立ち上がり、戦う必要がありました。

権力者がその動物的本能をむき出しにして人々の権利を蹂躙しているとしか思えない現代日本で、自分たちの命や権利を守るために日本人も戦うことの必要性を体を張って示し出しました。日本各地で起こっているデモの盛り上がりがそれを示しています。先週末の官邸前や代々木公園での10 -20万人という規模のデモが、住民意思を無視する独裁官僚政治に反対し、日本の民主主義を守ろうとしています。これは、官僚独裁という弾圧をはね除け、主権者国民の平和を実現するための戦争であると言えるのではないでしょうか。戦いは勝たねばなりません。そのための長期的戦術も必要とされるだろうと思います。

先週末での政党支持率調査で、「国民の生活が第一」がトップであった(支持政党無しが8割ではありましたが)ということがわかりました。自民、公明、民主に裏切られた日本国民が政治に幻滅する気持ちはよくわかります。しかし、一方で、盛り上がってきた反原発デモをただのガス抜きにして終わらせてしまってはいけません。そのためには政治の参加が必要でしょう。これまでも反原発議員がデモに参加してきました。この市民運動が小沢新党やその他の反原発政党ととうまくタイアップしていければ、デモはより効果的になるのではないでしょうか。
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