ガザでの停戦合意ということですけど、イスラエルとパレスティナやイランとの間の緊張は続いています。聖書を予言の書として研究している人によれば、次に大きな戦争がおきるのはイスラエル周辺、中東なのだそうです。現在、アメリカはイスラエルから距離を置こうとしているように見えますから、イラン侵攻はオバマ政権中には起こらないのではないかと私は希望的に考えていますが、イスラエルはかなり攻撃的になっていますし、アメリカには多分まだ戦争をしたくてしようのない人々もいるでしょうからから、わかりません。イラン侵攻が起きた場合、ロシアが参戦してくる可能性が高く、米ロの戦争となりお互いを潰し合い、中東は草狩り場となると思われます。ヒトラーの予言では、2014年にアメリカとヨーロッパの1/3が荒廃してしまうという事ですから、ひょっとしたらイラン侵攻はこの二年以内に起こるのかもしれません。聖書を予言書として読めば、このイラン侵攻をきっかけとする米ロ戦争が核戦争となる第三次世界大戦であり、結果、米ロの力は双方とも激減することになるそうです。イラン侵攻は、当面起こることはないだろうと私は希望的に考えているのですけど、どうでしょうか。
さて、聖書と言えば、キリスト教の多くの宗派では、三位一体説をとりますね。父なる神と神の子キリストと聖霊は一体で、そのキリストはロゴスであり、ロゴスとは言葉です。聖書には、「初めに言葉があった、言葉とは神であった」とあります。宇宙の始まりは言葉だったということです。このことは、私も若いときに考えたことがあります。言葉がなければ、仮に人間という物理的存在は可能であっても、おそらく、われわれには世界を理解する能力を持たないでしょう。世界が理解できないのであれば、われわれにとって世界は存在するといえるのでしょうか。私は否定的に思います。言葉を広く拡大解釈すれば、例えば遺伝子配列も言葉でしょう。そのシニフィエを理解する装置が細胞の中に存在しています。そう考えれば、言葉がなければ、生命そのものもないのかも知れません。
人間が使う言葉に戻ると、日本でも言霊という言葉があって、言葉に霊が宿るといいます。仏教でもダラニとか真言とか魔法の言葉みたいなものがありますね。多分、そういう言葉を唱えることによって、潜在意識なり何なりに入力を行うのでしょう。だから言葉には気をつけよ、という言うことです。私も最近は、なるべく、汚い言葉、ネガティブな言葉、悪い感情を引き起こすような言葉は避けるようにと心がけてはおりますが、なかなか難しいです。たとえ口にしなくても、心の中で悪い言葉をつぶやけば、同じ事でしょうし。
確かにネガティブな人にはネガティブな人や事象が集まり、明るくポジティブな人には明るくポジティブな人が集まり良いことが起こりますね。私は最近は多少、楽観的になりましたけど、若いときは相当悲観的な人間でした。そのネガティブで批判的な態度を透徹することで、私は楽観性を手に入れることができたと思うので、ネガティブであることは必ずしもマイナスばかりではないと思います。(ネガティブとマイナスは算数的には多分同じ意味ですから、これは矛盾語法ですね)私の場合、いわば、「Rock bottom」を想像してみることで楽観性の根拠を得たように思います。跳ぶ前には屈めとも言いますし。
そんなことで、私は、穏やかさ、美しいさ、といった心を幸せにするものを尊び、邪悪さ、醜悪さという醜いものを避けるようにしてはいます。ただ、日本の社会や世界で起こっている醜悪で邪悪なものが、平和や美などの人間の喜びを蹂躙しようとしている現実にどう対処すべきか悩んでいます。臭い、汚いものに蓋をして見ないふりをするのが最も簡単なのはもちろんです。しかし、正しくは、それらを直視して対処しつつも心の平和を保てるようでなければならないのでしょう。ケネディに「汝の敵を赦しなさい、しかしその名を忘れてはならない」という言葉がありますが、なるほどと思いますね。愛しても赦しても、すぐに敵が友になることは稀ですし、敵があなたにした仕打ちは消えることはありません。敵はやはり敵であり、あなたや社会に害を与えようとしていることに変わりはありません。しかし、相手の人間そのものを憎む気持ちはわれわれにとって有害です。罪を憎んで人を憎まず、ですか。こういう気持ちでやるのが良いのでしょうね。
さて、聖書と言えば、キリスト教の多くの宗派では、三位一体説をとりますね。父なる神と神の子キリストと聖霊は一体で、そのキリストはロゴスであり、ロゴスとは言葉です。聖書には、「初めに言葉があった、言葉とは神であった」とあります。宇宙の始まりは言葉だったということです。このことは、私も若いときに考えたことがあります。言葉がなければ、仮に人間という物理的存在は可能であっても、おそらく、われわれには世界を理解する能力を持たないでしょう。世界が理解できないのであれば、われわれにとって世界は存在するといえるのでしょうか。私は否定的に思います。言葉を広く拡大解釈すれば、例えば遺伝子配列も言葉でしょう。そのシニフィエを理解する装置が細胞の中に存在しています。そう考えれば、言葉がなければ、生命そのものもないのかも知れません。
人間が使う言葉に戻ると、日本でも言霊という言葉があって、言葉に霊が宿るといいます。仏教でもダラニとか真言とか魔法の言葉みたいなものがありますね。多分、そういう言葉を唱えることによって、潜在意識なり何なりに入力を行うのでしょう。だから言葉には気をつけよ、という言うことです。私も最近は、なるべく、汚い言葉、ネガティブな言葉、悪い感情を引き起こすような言葉は避けるようにと心がけてはおりますが、なかなか難しいです。たとえ口にしなくても、心の中で悪い言葉をつぶやけば、同じ事でしょうし。
確かにネガティブな人にはネガティブな人や事象が集まり、明るくポジティブな人には明るくポジティブな人が集まり良いことが起こりますね。私は最近は多少、楽観的になりましたけど、若いときは相当悲観的な人間でした。そのネガティブで批判的な態度を透徹することで、私は楽観性を手に入れることができたと思うので、ネガティブであることは必ずしもマイナスばかりではないと思います。(ネガティブとマイナスは算数的には多分同じ意味ですから、これは矛盾語法ですね)私の場合、いわば、「Rock bottom」を想像してみることで楽観性の根拠を得たように思います。跳ぶ前には屈めとも言いますし。
そんなことで、私は、穏やかさ、美しいさ、といった心を幸せにするものを尊び、邪悪さ、醜悪さという醜いものを避けるようにしてはいます。ただ、日本の社会や世界で起こっている醜悪で邪悪なものが、平和や美などの人間の喜びを蹂躙しようとしている現実にどう対処すべきか悩んでいます。臭い、汚いものに蓋をして見ないふりをするのが最も簡単なのはもちろんです。しかし、正しくは、それらを直視して対処しつつも心の平和を保てるようでなければならないのでしょう。ケネディに「汝の敵を赦しなさい、しかしその名を忘れてはならない」という言葉がありますが、なるほどと思いますね。愛しても赦しても、すぐに敵が友になることは稀ですし、敵があなたにした仕打ちは消えることはありません。敵はやはり敵であり、あなたや社会に害を与えようとしていることに変わりはありません。しかし、相手の人間そのものを憎む気持ちはわれわれにとって有害です。罪を憎んで人を憎まず、ですか。こういう気持ちでやるのが良いのでしょうね。