先々週のNature (1/23)のCorrespondence(483, Vol 505, 2014)に興味深い話がありました。このUniversity of Houstonの人は、アカデミックエディターとしての経験から、「研究者の出版数と論文審査員を引き受ける割合は逆相関にある」ことに気がついたのだそうです。システマティックな調査の結果ではなく、あくまでanecdotalな例ですけど、私はちょっとショックを受けました。近年の投稿論文数の急増(とくに中国から)と出版ビジネスの増加に伴いピア レビューのシステムの負荷が大き過ぎるという話は前から聞いています。レビューア(審査員)不足は論文出版において深刻な問題です。論文のレビューは科学研究活動に必要不可欠な(基本的に無報酬の)活動で、それなしにはアカデミアの科学研究は成り立ちません。私もよほどのことが無い限り断りません。(私の場合はせいぜい月に数本ぐらいなので大した負担ではないからとも言えますが)それでも、忙しい時にはレビュー依頼のメールを見るとちょっとブルーになります。
この「出版数とレビュー受諾率の逆相関」現象が本当だとして、考えられるメカニズムは何通りかあると思います。一つは、ピアレビューなどという評価の対象にならない活動に時間をかけているヒマがあれば実験したり論文を書いたりする方が生産的だ、という利己的な考えの研究者がいて、そういう研究者ほどたくさん出版する可能性。コメントの人はどうもこういう研究者の利己的行動がこの逆相関を引き起こしていると考えているような感じです。二つ目の可能性は、生産性のよい研究者はより多くのレビューの依頼を受けやすく、したがって断る率も高くなる、という理由。いくら論文レビューなどのコミュニティーサービスに積極的に参加しようと思っていても、それなりに有名になって、毎日のように依頼がくれば、大多数を断らなければならないのは自明です。私は、そういう事情だと思いたいです。
普通、一本の論文に2-3人のレビューアがつくワケですから、このコメントでは、論文1本の出版に対して、最低2-3本の論文審査はするべきだ、というようなことを書いてあります。実際にはリジェクトされる論文がそこそこの雑誌では6-8割あるでしょうから、出版論文一本に対してレビューアはおそらく最低、5-10人ぐらい必要なのではないかと思います。ならば、論文一本出すごとに5-10本の他人の論文のレビューをして、収支はトントンというところではないでしょうか。このあたり実情はどうなのか数字を知りたいです。研究者一人当たりの、レビュー数/出版論文数の平均値はどれぐらいなのでしょうか。ピアレビューが危機的状況にあるのだから、この際、レビュー数でクレジットをつけて、投稿にクレジットが必要なシステムにする、もしくは小額でもレビューアに何らかのcompensationを出し(ごく一部の雑誌では出しています)投稿者には投稿料をかけるというのは悪くないかも知れません。投稿料が必要であれば、投稿者も投稿する論文のクオリティーに余分に注意を払うでしょうから、「ダメもと」でとりあえず投稿する出来の悪い論文のレビューでレビューアの時間をムダにする率が減るかも知れません。投稿料を取る代わりに門前払いをやめて、必ずレビューに回すようにすれば、仮にリジェクトされたとしても、投稿者にすれば何らかのフィードバックが得られるので全くのムダではありません。
しかし、問題は二流雑誌です。投稿料をとるようなことをしたら誰も投稿しなくなって、雑誌がなりたたなくなるでしょうから、彼らはレビューアの負担を思いやるような余裕はないでしょう。現実的な解決としては、雑誌群を二部にわけて、ピアレビューをする従来の雑誌と、ピアレビューなしでとりあえず出版する雑誌に分ければどうか、と私は思うのですが。(現実的にはPLoS Oneをモデルとする雑誌群が、とりあえず出版する場をつくる役割を果たしてはいると思います)
レビューアの立場からすると、出来の悪い論文をレビューするほど、腹立たしいものはありません。出来の悪い論文を読まされると、その著者の論文が再び回ってきた場合には、マトモに読む気が失せますし、その研究者に対してネガティブな先入観を持ってしまいます。同様の理由でクオリティーの低い学会発表も逆効果だと思います(しない方がマシ)。
話がずれました。人の論文のレビューの他にも、研究者のコミュニティーサービス活動は多々あります。グラントのレビュー、学会や研究会の運営、教育活動など、それから教育的著作、総説や教科書、を書くのも重要なコミュニティーサービスだと思います。私の興味を持っている分野で、ある大物の研究者の人がいますが、その人は総説論文を一切、書かないのです。依頼が無いワケがないと思うので、きっと全部、断っているのでしょう。総説や教科書を書くことも、研究者としては余り評価されない活動ではありますが、総説とか教科書は、研究と教育に必要不可欠なものです。そもそもCellのimpact factorがあれほど高いのも総説でcitationを稼いでいるからでしょう。ならば、Cellクラスに論文を出版するような人々は、総説もちゃんと書くべきだと私は思います。総説や教科書を書いたり論文のレフリーをしたりするのはお世話になっている科学コミュミティーへの「恩返し」みたいなものではないでしょうか。原著論文の出版にしか興味がなく、こういったコミュニティー サービスをおろそかにするのは、人としていかがなものか、と私は思うのですが。
この「出版数とレビュー受諾率の逆相関」現象が本当だとして、考えられるメカニズムは何通りかあると思います。一つは、ピアレビューなどという評価の対象にならない活動に時間をかけているヒマがあれば実験したり論文を書いたりする方が生産的だ、という利己的な考えの研究者がいて、そういう研究者ほどたくさん出版する可能性。コメントの人はどうもこういう研究者の利己的行動がこの逆相関を引き起こしていると考えているような感じです。二つ目の可能性は、生産性のよい研究者はより多くのレビューの依頼を受けやすく、したがって断る率も高くなる、という理由。いくら論文レビューなどのコミュニティーサービスに積極的に参加しようと思っていても、それなりに有名になって、毎日のように依頼がくれば、大多数を断らなければならないのは自明です。私は、そういう事情だと思いたいです。
普通、一本の論文に2-3人のレビューアがつくワケですから、このコメントでは、論文1本の出版に対して、最低2-3本の論文審査はするべきだ、というようなことを書いてあります。実際にはリジェクトされる論文がそこそこの雑誌では6-8割あるでしょうから、出版論文一本に対してレビューアはおそらく最低、5-10人ぐらい必要なのではないかと思います。ならば、論文一本出すごとに5-10本の他人の論文のレビューをして、収支はトントンというところではないでしょうか。このあたり実情はどうなのか数字を知りたいです。研究者一人当たりの、レビュー数/出版論文数の平均値はどれぐらいなのでしょうか。ピアレビューが危機的状況にあるのだから、この際、レビュー数でクレジットをつけて、投稿にクレジットが必要なシステムにする、もしくは小額でもレビューアに何らかのcompensationを出し(ごく一部の雑誌では出しています)投稿者には投稿料をかけるというのは悪くないかも知れません。投稿料が必要であれば、投稿者も投稿する論文のクオリティーに余分に注意を払うでしょうから、「ダメもと」でとりあえず投稿する出来の悪い論文のレビューでレビューアの時間をムダにする率が減るかも知れません。投稿料を取る代わりに門前払いをやめて、必ずレビューに回すようにすれば、仮にリジェクトされたとしても、投稿者にすれば何らかのフィードバックが得られるので全くのムダではありません。
しかし、問題は二流雑誌です。投稿料をとるようなことをしたら誰も投稿しなくなって、雑誌がなりたたなくなるでしょうから、彼らはレビューアの負担を思いやるような余裕はないでしょう。現実的な解決としては、雑誌群を二部にわけて、ピアレビューをする従来の雑誌と、ピアレビューなしでとりあえず出版する雑誌に分ければどうか、と私は思うのですが。(現実的にはPLoS Oneをモデルとする雑誌群が、とりあえず出版する場をつくる役割を果たしてはいると思います)
レビューアの立場からすると、出来の悪い論文をレビューするほど、腹立たしいものはありません。出来の悪い論文を読まされると、その著者の論文が再び回ってきた場合には、マトモに読む気が失せますし、その研究者に対してネガティブな先入観を持ってしまいます。同様の理由でクオリティーの低い学会発表も逆効果だと思います(しない方がマシ)。
話がずれました。人の論文のレビューの他にも、研究者のコミュニティーサービス活動は多々あります。グラントのレビュー、学会や研究会の運営、教育活動など、それから教育的著作、総説や教科書、を書くのも重要なコミュニティーサービスだと思います。私の興味を持っている分野で、ある大物の研究者の人がいますが、その人は総説論文を一切、書かないのです。依頼が無いワケがないと思うので、きっと全部、断っているのでしょう。総説や教科書を書くことも、研究者としては余り評価されない活動ではありますが、総説とか教科書は、研究と教育に必要不可欠なものです。そもそもCellのimpact factorがあれほど高いのも総説でcitationを稼いでいるからでしょう。ならば、Cellクラスに論文を出版するような人々は、総説もちゃんと書くべきだと私は思います。総説や教科書を書いたり論文のレフリーをしたりするのはお世話になっている科学コミュミティーへの「恩返し」みたいなものではないでしょうか。原著論文の出版にしか興味がなく、こういったコミュニティー サービスをおろそかにするのは、人としていかがなものか、と私は思うのですが。