変わりない日々が続いているようでも、着実に季節は移りつつあるのを朝晩の気温と朝の光に感じるようになりました。
研究の方も、やるべきことがわかっているものは着実に、何をやっていいのかわからないものは闇雲に、とにかく日々、手足と頭を動かすようにしています。そうやって、毎日、小さなことに一喜一憂しながら、やがて迎える最後の日まで歩き続けてこの世とサヨナラしたいと思っております (が、どうでしょう)。世の中には、病気やハンデで、頑張りたくても頑張ることが物理的にできない人や、諸般の事情で自分の意思に沿って生きることのできない人など、気の毒な人々が大勢おります。そういう人々のことを思うと、飢えるでも寒さに震えることもなく、小さなことを喜んだり悲しんだりできる生活を送れることは大変ありがたいことだと思います。
すぎりおのがんばったるねんで、著者のボス、George DaleyがHarvard Medical SchoolのDeanになるという話が取り上げられていました。この方はステムセル業界、がん研究業界では有名人で、私も触っている遺伝子の一つの働きを最初に明らかにした人です。ちょっと特徴のある話し方をする人で、誰かに似ているな、とずっと思っていたのですが、先日の訃報を聞いて、ああ、永六輔さんが英語を喋ったらこうなるのだ、と思いあたりました。実はとんでもない秀才で、Harvard、 MIT、Harvard Medicalと絵に描いたようなエリートコースを歩んできた人です。
それで、エリートコースとは全く無縁な私がいつも興味をもつことは、この方のようにエリートコースの真ん中をまっすぐに歩いてきたように見える人は、何を最終目標に生きているのたのだろうか、ということです。がん医学研究に情熱があったのは間違いないと思います。そしてハイインパクトの仕事を連発し、サイエンティストとしてステムセル、がん業界でのトップリーダーとしての地位を確立しました。その地位を得るための道筋はおそらくHarvard collegeの学生だった頃から描いてあったのであろうと思います。つまり、思うに、何十年をかけて、医学研究者としての地位を確立するというプロジェクトに取り組んできた人なのだろうと思うのです。これは、現在、ボストン界隈でのトップ サイエンティストの多くの人に当てはまるパターンだと思います。
対して、この業界にいる残り9割以上のの人間は、多分、若い時に明確な目標を持たずに、成り行きで生きてきた私のようなタイプであろうと思います。どちらが幸せかという議論をするつもりはないのですが、優秀な頭脳を持ち、何十年もその目標に向けてコツコツと努力を積み重ねてきた人と、標準の頭で、普通に成り行き任せで生きてきて、時には自分探しの旅に出てしまったりするような人間とは、目標達成という点で大きな差がつくのは当然です。
秀才や天才の頭の中身を覗いてみたいと時折思います。こうして長年の努力の結果として得ようとしているものは、結局は何なのでしょうか。研究によって分からないことを理解するという喜びでしょうか。あるいは、地位とか名誉なのでしょうか、それともそれについてくる多少の金でしょうか。Harvardに行ってMIT経由でHarvard Medicalに帰ってくるような人ですから、地位とか名誉とか金とかが嫌いではないはずですが、こういったエリート一直線の人にとって、研究というのはそうしたものを手に入れるための手段なのでしょうか?
ふと、そう思ったのは、その医学研究者としての大成功者が、今度はDeanという役職について、研究グループを縮小して研究へのエフォートを下げるという話だったからです。研究界での成功は達成したから、次の新たな目標に向けて方針を変えたということでしょうか。そうして次のまた次の目標に向けて努力を積み重ねていくのでしょうか。
私といえば、頭の出来や学歴から見ても、George Daleyをお手本にするのはムリです。しかし、自分でコントロールできるサイズのプロジェクトに直接関わって、データを見ては一喜一憂するという「ささやか」な日々に十分、幸福を感じております。成功したとはとっても言えませんが、私なりにはOKです。資金が切れて続けられなくなったら、それもまたOKというゆる〜いスタンスでやってます。
研究の方も、やるべきことがわかっているものは着実に、何をやっていいのかわからないものは闇雲に、とにかく日々、手足と頭を動かすようにしています。そうやって、毎日、小さなことに一喜一憂しながら、やがて迎える最後の日まで歩き続けてこの世とサヨナラしたいと思っております (が、どうでしょう)。世の中には、病気やハンデで、頑張りたくても頑張ることが物理的にできない人や、諸般の事情で自分の意思に沿って生きることのできない人など、気の毒な人々が大勢おります。そういう人々のことを思うと、飢えるでも寒さに震えることもなく、小さなことを喜んだり悲しんだりできる生活を送れることは大変ありがたいことだと思います。
すぎりおのがんばったるねんで、著者のボス、George DaleyがHarvard Medical SchoolのDeanになるという話が取り上げられていました。この方はステムセル業界、がん研究業界では有名人で、私も触っている遺伝子の一つの働きを最初に明らかにした人です。ちょっと特徴のある話し方をする人で、誰かに似ているな、とずっと思っていたのですが、先日の訃報を聞いて、ああ、永六輔さんが英語を喋ったらこうなるのだ、と思いあたりました。実はとんでもない秀才で、Harvard、 MIT、Harvard Medicalと絵に描いたようなエリートコースを歩んできた人です。
それで、エリートコースとは全く無縁な私がいつも興味をもつことは、この方のようにエリートコースの真ん中をまっすぐに歩いてきたように見える人は、何を最終目標に生きているのたのだろうか、ということです。がん医学研究に情熱があったのは間違いないと思います。そしてハイインパクトの仕事を連発し、サイエンティストとしてステムセル、がん業界でのトップリーダーとしての地位を確立しました。その地位を得るための道筋はおそらくHarvard collegeの学生だった頃から描いてあったのであろうと思います。つまり、思うに、何十年をかけて、医学研究者としての地位を確立するというプロジェクトに取り組んできた人なのだろうと思うのです。これは、現在、ボストン界隈でのトップ サイエンティストの多くの人に当てはまるパターンだと思います。
対して、この業界にいる残り9割以上のの人間は、多分、若い時に明確な目標を持たずに、成り行きで生きてきた私のようなタイプであろうと思います。どちらが幸せかという議論をするつもりはないのですが、優秀な頭脳を持ち、何十年もその目標に向けてコツコツと努力を積み重ねてきた人と、標準の頭で、普通に成り行き任せで生きてきて、時には自分探しの旅に出てしまったりするような人間とは、目標達成という点で大きな差がつくのは当然です。
秀才や天才の頭の中身を覗いてみたいと時折思います。こうして長年の努力の結果として得ようとしているものは、結局は何なのでしょうか。研究によって分からないことを理解するという喜びでしょうか。あるいは、地位とか名誉なのでしょうか、それともそれについてくる多少の金でしょうか。Harvardに行ってMIT経由でHarvard Medicalに帰ってくるような人ですから、地位とか名誉とか金とかが嫌いではないはずですが、こういったエリート一直線の人にとって、研究というのはそうしたものを手に入れるための手段なのでしょうか?
ふと、そう思ったのは、その医学研究者としての大成功者が、今度はDeanという役職について、研究グループを縮小して研究へのエフォートを下げるという話だったからです。研究界での成功は達成したから、次の新たな目標に向けて方針を変えたということでしょうか。そうして次のまた次の目標に向けて努力を積み重ねていくのでしょうか。
私といえば、頭の出来や学歴から見ても、George Daleyをお手本にするのはムリです。しかし、自分でコントロールできるサイズのプロジェクトに直接関わって、データを見ては一喜一憂するという「ささやか」な日々に十分、幸福を感じております。成功したとはとっても言えませんが、私なりにはOKです。資金が切れて続けられなくなったら、それもまたOKというゆる〜いスタンスでやってます。