百醜千拙草

何とかやっています

Commencement

2019-05-14 | Weblog
近年、ど忘れ、もの忘れが激しくなり、年々、頭が悪くなっていっているのを実感するようになりました。体力も落ち、週に二回、数キロを走ってはいますが、大して足しになっているような気がしません。頭も悪くなっていって体力も落ちていって、若い世代の人々に勝る点があるとすれば経験だけですが、それもいつまで通用するか。昔ながらの分子生物や遺伝学的研究なら、まだ数年は、若い人に負けないぐらいのスキルは保てると思うのですけど、例えば近年流行のビッグデータのマイニングというような研究となるとちょっとムリだろうと思います。

私、どうもデジタルものと相性が悪いようです。去年、一通りコースをやってみた初心者のRでしたが、学んでなんとかできるようないなった事は仕事上ではほとんど役に立たないレベルです。他のもっと簡単なソフトで代用したほうがキレイに解析、 視覚化できます。そして、苦労して覚えたことでさえどんどん忘れていくような状態ですから、仕事上で役立たせようと思ったら、毎日、Rを使って何かをするということを続けていかないとムリだろうし、あいにく今のところその手のプロジェクトに割いている時間もちょっとありません。当時は、マシンラーニングのコースもちょっとだけ始めてはみたのですけど、こちらはパイソンで、やはりできたことはアナコンダのインストールぐらいで、コーディングに入ったらすっかりボケ老人状態で全く進まず、結局、三日坊主で、投げ出してしまいました。

人間は徐々に衰えて死んでいくさだめなわけですけど、それを実感するというのはちょっと辛いものがあります。どんな一流の人間でも、いずれ、イチローやカズやマッケンローみたいに、若い世代に歯が立たなくなり、一線ではつかいものにならなくなって引退せざるを得ない日が必ずやってくるわけす。まして一流でもない私はそういう日は明日かもしれません。
もちろん若い世代が古い世代を踏み台にしてより優れたものを生み出していかないと、人類としては困るし、若い世代が優秀なのは喜ばしいことですけど、私としてはまだまだ現場でやりたいと思っているのです。しかし、使い物にならないのにダラダラいるのは迷惑だし、かといってすぐ引退して盆栽いじりするような余裕も興味もなく、その時に、どのようにしてこの世界の片隅で邪魔にならぬように生きていけばいいのか、ということを折々に考える日々です。

先日は、上の子供が半年早く大学を卒業することにしたので、繰上げ卒業式でした。実際にはまだ数ヶ月分残っているので、実際の卒業は半年ほど先ですが。多分、これ以上、大学にいても成績が上がりそうにないと思ったのでしょう。卒業式にはカノジョ連れでやってきました。カノジョも別の大学をあと半年で卒業して地元に帰って仲間と一緒にビジネスを始めるという予定のようで、どうもそのこともあって繰り上げて卒業することにしたようです。一応、教員の免許をとるために数年後に大学院にいくという計画なのだそうで、口うるさく将来の計画を真面目に考えるように言ってきた親としてはちょっと安心しています。

アメリカなどでの大学の卒業式はCommencement ceremonyが主で、有名人などを招き、訓話などをし、例の四角い帽子のタッセルを回すセレモニーをして学位の授与を象徴します。2005年のSteve JobsのStanford大でのCommencement Speechは話題になりました。テニスの松岡修造は引退発表の時に、引退ではなく「Commencement」だ、と言いました。私も使い物にならなくなったら、引退ではなく、新しい世界への始まりと捉えて、前向きに生きたいと思っています。

先のJobsのスピーチのタイトルは「How to live before you die」でした。すでにすい臓がんと診断された後です。一生、死ぬまで現役で若い世代と戦い続けるという生き方もカッコいいと思いますけど、引くべき時には引くべきであろうとも思います。そのために、これまで好き勝手させてもらって生きてきた私が、この世界で使い物にならなくなった時に、社会や人々に対してできることは何だろう、と自問自答しています。
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