百醜千拙草

何とかやっています

Giveth, and thou shalt receive

2019-05-24 | Weblog
とくに変わりのない毎日です。
最近、所属している学会や施設などからの寄付のお願いのメールが増えてきました。これまでお世話になってきているので、本当に些少ですが、できる範囲でやっています。ま、自己満足ですけど、何かを与えるということは単純に気分のよいものです。喜捨ともいいます。与えることは喜びであり、与えることができるという状況は幸せです。ときおり、数億の単位で寄付してくれる人があらわれます。そういうことができる状況にあるというのは極めて恵まれているということでもあります。もちろん、寄付をもらう立場の人間としては大変ありがたいわけで、この与えるという行動は、与える人、受け取る人の双方を幸せにします。

好きでやっている研究ではありますが、私も、自分の満足のためだけでなく、研究を通じて、分野や大げさに言えば世間に、多少なりとも貢献したいという気持ちはあります。なので頼まれた仕事は基本的に断らないようにしています。誰でもそうでしょうけど、誰かの役に立つことが人間の生きがいであろうと思います。ま、露骨に利用してやろうという態度の相手に対しては、ちょっと違う対応をしますけど。

一方、奪うという行為は逆です。欲があるということは満ち足りていない不満な状況を現し、奪うことによって、奪った方はごく一時的な欲望の満足を得るだけで、結果、全ての人を不幸にします。仏教的には「夢がある」という状態も、現状に満足していないと解釈するのだそうです。夢も欲も一続きのもののようです。人間なら、夢や欲があるのは普通ですけど、それを満たしたいがために人から奪って我が物にする、他人を不幸にするというのではよくない結果がついてまわるでしょう。

国家レベルでもそうだと言えます。領土を手に入れるのに力ずくで戦争で奪うのはどうか、という発想は貧しすぎです。世界を見回してみればいいです。イスラエルとパレスティナから学ぶことは多いでしょう。
奪うのではなく寄付してもらうのがベストですね。人間が本当に成長していけばそうなるはずです。近代の帝国主義以降の歴史を見ても、人類は成長しています。領土や国というものがない世界になれば領土問題は完全解決です。ジョンレノンも歌っていましたね、そんな未来を想像してみましょうと。

ソースは明らかではありませんが、複数のところから同じようなことを聞きました。
人生が終わった時、人は二つのことを聞かれるのだそうです。人生を楽しんだかどうか、人に優しくしたり、役に立ったりしたかどうか、です。
一方、その人生で、どのようなことを達成したかとか、出世したかとか、成功したか、というようなことは聞かれないのだそうです。この話をときどき思い出して、死んだ時に、この二つの問いに「はい」と答えられるようにしたいと思っています。

死んだ時のことを考えて、人生を設計するというのはいいアイデアです。死ぬ間際に人は走馬灯をみるように人生を振り返ると言います。人間だれでも、思い出すと布団を頭から被って叫びたくなるような恥ずかしい経験をもっているもので、そうでない人とは語るに足らぬ、とかつて狐狸庵先生も言っていました。死んだ時に振り返って、羞恥のあまり叫びたくなるようなことが少しでも少なくなるようにしたいなあ、と思っています。

そんな満足のために一番よいのは、やはり与えることだと思います。人に喜んでもらうこと、感謝されることほど人間に満足感を与えるものはありません。与えることはそうした満足感を一瞬にして受け取ることにつながります。ゆえに、与える人は豊かです。よく言われることですが、私も確信していることがあります。豊かだから与えるのではなく、与えるから豊かになる。

「魅は、与によって生じ、求によって滅する」(無能唱元) という言葉もありました。

最近、歳のせいか、懐メロシリーズが多いですが、バカラック/ワーウィックの50年前のヒット曲、Alfieを:

What's it all about Alfie Is it just for the moment we live
What's it all about When you sort it out, Alfie,
Are we meant to take more than we give, or are we meant to be kind?

希望に満ちた若いころを思い出します。もう遠い昔です。



バカラック本人の弾き語りで


コメント
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