前回に続いてもう少し。コロナの活動抑制を機に、生化学を学び直していました。知れば知るほど前世紀の生化学の時代の研究の緻密さやその成果に感動しますね。
厳密科学を生物学に応用することで、生物学は博物学から科学に進化しました。それによって、生化学、それから分子生物学はおどろくべき発達を遂げました。その歴史を振り返ると教科書に書かれている一行の記載には、気の遠くなるような先人の努力が込められているのを実感します。そして、教科書に当たり前のように書かれていることがらが私にとっては目からウロコ的な気付きに溢れています。
私が学生のころは生化学的分析手法の流行が終わりつつあり、分子生物学、つまり生命を遺伝子のレベルで理解しようとするのが流行となっていました。そのレベルとなると分子はすでにかなり記号化されており、物理的化学的実体として扱われることは少なっていました。私が研究を始めた頃は遺伝子組み換え技術を学ぶところから始まりました。AdenosineとThymidine, GuanosineとCytosineが水素結合して二重鎖DNAを作るという言葉は知っていても、どの原子の電子がどこの水素とどれぐらいの距離でどのように反応しているのかということについては知りませんでした。ちょうど、コンパイラの原理を知らなくてもコンピュータ言語を知っていればプログラムは書けるようなもので、通常の分子生物の実験をするのに必ずしも生化学や物理の知識は必要ではなかったです。
それで今回、生化学をちょっと学びなおし、記号のレベルから物理的実体としてのエレメントのレベルへ降りていって眺めたら、驚くような世界が広がっていたという感じです。
月日が経って、分子生物の流行は過ぎ、その後の分子遺伝学の流行も過ぎ、現在の流行をどういえばいいのかわかりませんけど、ただ生命現象の記号化と抽象化はますます進行しているように感じます。ものごとを「理解する」ということはほぼイコール記号化し抽象化して一般化するということではあるのですけど、その過程で除かれる実体としての生命の手触りとでもいうものの欠如、それが、どうも私が現在の流行としっくりこない理由なのではないかと感じているのです。
というわけで、生命を記号化することで生命は科学となり生命科学は進歩したと私は思っているわけですけど、だからといってそれで「生命」そのものが理解できたわけではないです。結局は理解というものは論理を積み上げるだけではダメで、最後は直感的飛躍というものが必要なのだと思います。それを保証するのは実体の手触りではないかと思います。
実験にしても同じで、自分の目で細胞や動物を見て、触って確かめることが生物学であって、それが様々な解析のデータと結合した結果として科学があるという形でないと、私はしっくりこないのです。生命の記号化がどのように生の生物から行われるのか、そこの手触りなしに大量の記号データをいじって新たな記号や方程式を生み出すのは、私にとってはヴァーチャル リアリティーであって、どんなにリアルにすごい世界が示されても、「すごいね」とは思いますけど、やってみたいとは思いません。
かつて、サイバネティクスというのが60年台ぐらいに流行となりました。それから30年ほど経って、コンピュータ技術の進歩でリバイバルしたのが、Artificial Life(人工生命)でした。それは、現実には存在しないが論理的にありえる生命の形を考えることで、生命とは何かという疑問に答えようとした試みでした。その流行も去って、また30年ほど経とうとしていますから、そろそろまた復活するかも知れませんが、そもそもなぜこうした試みが一過性の流行で終わってしまうのか、私はそれが手触りの欠如ではないのかと思うわけです。
同様に、昔、Unpluggedというアコースティック音楽が一時、流行りましたが、それは合成音楽や電気音楽に対するアンチテーゼでありました。それ以前、シンセサイザーができて様々な音色を模倣したり新たに作り出したりすることができ、音を人工的に変えることが流行りました。みんな「すごいね」と言って、これからはオーケストラがなくても一人でストリングス セクションもホーン セクションもできるし、自然に存在しない音も合成できるし生身の人間が演奏できないような曲もできる、と言ってテクノ音楽なんかも流行りました。でも昔ながらのオーケストラも無くならなかったし、テクノ音楽も一時のブームで去っていきました。そして、アコースティックへの回帰が起こりました。つまり、これも「手触り」の問題であったのだと思います。一旦電気信号に変えられた音が、様々なプロセスを経て加工されるあいだに、「手触り」が失われることに音楽家や聞き手はしっくりしなかったのではないでしょうか。
また、変に長くなってしまいそうなので、続きは(あれば)また後日。