百醜千拙草

何とかやっています

坂を登る

2021-08-20 | Weblog
先月にまだ若い息子さんを亡くされた知り合いの人とばったり会いました。ご本人も神経系の持病を患って長く、久しぶりにみた姿はすっかり老けて小さくなっていました。お悔やみを言って、雑談しようとしたのですけど、病気のせいでしゃべるのも難しくなっているようでした。つい、昔の元気で快活だった時のことを思い出して悲しくなりましたが、思えば、私も私の周りの人々も同じなのでした。毎日が連続しているので、だんだん悪くなっても慣れてしまっているだけのことで、十年前と比べれば随分変わっていることが実感されます。

二年ほど前の会で若手の人と雑談していたときに、ふと、自分は坂道を下りはじめた人間だから、という言葉が思わず口に出たことがあって、自分の言葉ながらそれに随分驚いたことがありました。自分の中では野心も多少あり、新しいこともやっていきたいという意欲もあったと思っていたからです。

今、振り返って思うと、この喩えはむしろ逆だったのではないかと思います。坂道を下って麓でのんびりしたいという無意識の願望が出たのでしょうが、現実は、歩く坂道の勾配は増す一方です。人は年齢とともに、ますます急になって空気も薄くなる山道を、伴する人もなく登っていくものではないのだろうか、と感じることが増えました。その登った先に何があるのかは知りません。体力と気力は落ち、進歩は遅く、苦しいことが増えていく中を、ただ登っていくという選択しかないがゆえに、トボトボと登っていくのが人間というものなのかなあ、などと思います。ふと「無縁坂」を思い出しました。

人生は劇場で、修行の場なのだ、とよく聞きます。方便なのでしょうけど、そう思わないとやってられないわな、と思います。凡夫たるわれわれにはこの喩えがいいのでしょうね。仏教では「後生の一大事」というのでしたか、苦しい坂道を登る間も、その一瞬一瞬にフォーカスすれば、上りも下りも楽も苦もない、と思えるのかも知れませんけど。
コメント
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