今年を最後にこうした活動から手を引くつもりなので、最後のご奉公のつもりで、論文のレビューや編集活動はできる範囲でやっていますけど、もう、このピアレビューのシステムは破綻していると感じざるを得ません。
軽い気持ちで数年前に引き受けたとある二流雑誌のエディターですけど、論文ハンドルの依頼は週に2本ぐらいやってきます。幸い多くが専門と離れているという理由で断ってはいますけど、月に二本というノルマやその他の事情でときどきは引き受けることになりますが、その都度、結構、時間と手間が必要になっていつも後悔することになります。
その雑誌の統計では、二人のレビューアを確保するのに、平均7人に声をかければよいということになっていますが、私の経験ではその二倍以上は必要な感じです。今回のは、ハンドリンングを引き受けてからすでに十日以上経ちました。これまで、17名に頼んで、なんとか一人確保しましたが、6人に断られ、10人はスルー、あと一週間たってももう一人が見つからなければ、自分でやるしかないかなあ、という状況です。これではエディターをやりたい人もレビューアをやりたい人もいなくなるでしょう。
かつて、研究者がこのような役割を引き受けるのは、自分の論文を出版するときには誰かにレビューをやってもらわないといけないので、研究活動をお互いに支えあう重要な活動だと認識されていたからだと思います。通常、論文レビューの活動は業績に加えられるようなものではないですが(最近はPublonなどでレビューも研究活動の実績として認めようとする動きがありますが)、一方で、出版前の研究にいち早く触れることができる「特権」だともと考えられていました。これらの手間はその「特権」に対する必要経費であり、誰かがやらざるをえない必要不可欠の奉仕行為と考えられてきました。そこには同じ研究分野に属する研究者としての「お互い様」意識があったのであろうと思います。
しかるに、競争が激しくなって奉仕活動は時間のムダだと考える人が増え、Pre-printがルーティンとなってきた現在では、レビューや編集活動は、特権ではなく誰か自分以外にやらせるべき雑用だとみなされるようになりました。研究資金やポジションへの競争が激化するこの業界では、コミュニティー意識はうすまり、同じ分野にいる人間は仲間ではなく敵であり、ボランティア行為は見返りのない時間と労力の無駄であると考えられるようになりました。つまり、研究者が自分自身の利益を確保するのに精一杯で、業界全体を考えるような余裕がなくなったということだと思います。
一事が万事で、このことをみても、すでに現在のアカデミアというシステムそのものが崩壊しつつあると感じざるを得ません。ま、カネや運営がすべてに優先する社会において、アカデミアの精神を維持していくのは容易ではないです。とりわけ、資金が絶対的に足りていない現在では。いまや、研究のために資金を集めるのではなく、金を集めるために研究をダシにつかっているという方が現実をよく示していると思います。
ピアレビューの話のマクラのつもりでしたけど、ちょっと長くなりそうなので、続きはまた次にします。