先月、Craig Venterが、化学的に合成したDNAだけを使って微生物のゲノムを構築し、DNAを取り除いた別種の微生物に移植することによって、(半)人工的な生物を作り上げることに成功した、というニュースが発表されました。SicenceもNatureもこのニュースをフロントベージでとりあげましたし、日本でもかなりの反響を呼びました。一般向けの宣伝文句は、人工的に生命を作った、というような感じです。5/27日号のNatureでは、多くの科学者が「これは人工生命とは言えない」という反応を示したこと、同時の生物兵器への応用、生命倫理における問題などを議論しています。それにしても同一の号のNatureのフロントページにこの研究に関する記事が、Editorials, News, Opinionという3つのセクションで取り上げられているという異常な関心の高さには驚かされます。その「識者」の意見に何ら目新しいものはありません。そのニュースに対する感想をトチナイ先生もブログに書かれています(http://shinka3.exblog.jp/14426778/)。多くの生物研究者は多分、同様の意見でしょう。
この研究そのものに、厳密な意味で、どんな生物学的価値があるかと問えば、私はその価値は今のところ不明だといわざるを得ません。ゲノムDNAは確かに合成したものですけど、その他の細胞のコンポーネントは生物のものをそのまま借りているわけですし、合成したDNAの切り貼りも細胞由来の酵素や酵母を使った操作が不可欠であったわけですから、人工の生命を作ったというよりは、これまでの遺伝子操作をより大規模なスケールでやった、と解釈する方が近いと思います。技術的な面でのインパクトはあるものの、この研究そのものに関してはそれほど騒ぐ程のことではないのではないか、というのが私の感想でもあります。生物に遺伝子を加えたり引いたりして、その形質を変化させるという実験はずっと前からされていますから、パラダイム変換を来すような研究であるとは私は思いません。ただOpinionのセクションで生命倫理のArthur Caplanという人は、「人工的に生命を合成した」この仕事は、生命は物質だけからなるものではないとする「生気論」を否定するものだ、と評価しています。この結論は、多分、この人がVenterの実験の中身を十分には理解していないことから生じる前提の誤りから導き出されたように思います。生命の定義でさえ、厳密なコンセンサスはないと私は思っておりますから、このVenterの実験はそのような哲学的主題に回答を与えるようなものとはとても思えません。
このニュースが騒がれる理由は、やはりCraig Venterだからだと思います。例えてみれば、彼はある意味、生物科学界の小沢一郎的存在ではないかと思います。大勢の人が彼のアクの強い性格を嫌っていますが、彼の天才性というものは歴然としており、認めざるを得ないと思っていると思うのです。(私は別に小沢氏のアクが強いとは思っておりませんが、大勢の人が彼を嫌っていることは知っております)Venterのことは、このブログでも数年前に一度、触れていますが(DNAゴシップ 2007-12-18)、彼ほど、Maverickという言葉が似合う科学者はいないだろうと思います。ヒトゲノムプロジェクトで熾烈な競争を繰り広げた、かつてのNIHの同僚でありライバルのFrancis Collins (現NIHディレクター)と比較して、前回のブログでは、私は彼らを空海と最澄に例えていました。彼のアイデアや戦略は極めてシンプルで力強いです。それが広くアピールするのだと思います。NIH時代、発現している遺伝子をとりあえずシークエンスしてみよう、というアイデアでESTのプロジェクトを始めました。今でこそ、ESTのデータベースは広く受け入れられその有用性も認められていますが、当時は、そんなデタラメに何でもかんでもシークエンスすることに何の意味があるのか、という強いskepticismに合い、結局、VenterはNIHを去ることになります。その後も彼のやって来た事は、ヒトゲノムプロジェクトを始め数々のゲノムプロジェクトに代表されるように「ひたすらシークエンスする」ことでした。それをいろいろな生物学的コンテクストに応用して、意義のある知見を導き出す、手法的には超ワンパターンです。しかし、シークエンスの規模は通常の研究者がやる規模の何百倍という規模でやる、単純だが、普通のヒトならやる気にもならないようなことを、やってしまう、そのために金が必要なら、自らパーティーを開いて出資者を募り、ゲノムシークエンスアッセンブリーに必要なら世界最速のスーパーコンピューター(ヒトゲノムプロジェクトの時、Venterのセレラが世界最速のコンピューターを持っていました)を作る、その野心的な目的の達成のための強い意志と実行力には、感嘆の声を上げずにはおれません。ひたすらシークエンスするという技一本で、自らの道を切り開き、世界を驚かせて来たVenterは、冒険小説の主人公となりえる希有な科学者と言えるでしょう。
ところで、「人工生命」というコンピューターを使って、生命のアルゴリズムを探ろうとする分野が20年程前に大ブームになったのを覚えている人はいるでしょうか。私も、当時、興味を持って、「生物物理夏の学校」とかで、「人工生命」研究者の話を聞きにいったことがあります。当時、筑波大でこの分野で脚光を浴びていたグループの若手演者は、「人工生命をやっています」と初対面の人に自己紹介すると、生命保険会社勤務と勘違いされる、というような冗談で、当時、新興のこの研究分野を紹介していました。また、(当時の)人工生命研究は、60年代に流行ったサイバネティクスの再燃であると述べていたのを覚えています。その人工生命研究がバーチャルな世界から、技術の発達によって、現実の正解で行われるようになってきたのが、近年の「Synthetic Biology」と考える事もできます。そういう観点から、今回のVenterの仕事をみると、私のようなWet biologyの人間としてはそう騒ぐ程の仕事のように思えませんけど、人工生命研究という点からは、バーチャルから現実への最初の大きな一歩であった、と評価することもできるのではないかとも思います。今後はどう展開するのでしょうか。相手はVenterですから、期待もふくらみます。
ついでに、Natureのこの号のBusinessの欄では、世界で始めて一分子シークエンシングを商業化したMassachusettsの会社、Helicosが業績不振のため従業員の半分を解雇し、シークエンシング技術開発から撤退するとのニュースを伝えています。二年前に「進化するシークエンサー 2008-10-28」で、Helicosの一分子シークエンシングは技術的に中途半端で、苦しいだろうと書いたのですけど、図らずもその予測の通りとなりました。現在、いくつかの会社でHelicos方式よりもより高パフォーマンスの一分子シークエンシングの商業化に近づいていますが、一分子シークエンシング法が現行の二世代平行シークエンシングに比べて生物学研究上のメリットがそう明らかでない現状では、いずれも苦しい戦いとなりそうな気がします。
この研究そのものに、厳密な意味で、どんな生物学的価値があるかと問えば、私はその価値は今のところ不明だといわざるを得ません。ゲノムDNAは確かに合成したものですけど、その他の細胞のコンポーネントは生物のものをそのまま借りているわけですし、合成したDNAの切り貼りも細胞由来の酵素や酵母を使った操作が不可欠であったわけですから、人工の生命を作ったというよりは、これまでの遺伝子操作をより大規模なスケールでやった、と解釈する方が近いと思います。技術的な面でのインパクトはあるものの、この研究そのものに関してはそれほど騒ぐ程のことではないのではないか、というのが私の感想でもあります。生物に遺伝子を加えたり引いたりして、その形質を変化させるという実験はずっと前からされていますから、パラダイム変換を来すような研究であるとは私は思いません。ただOpinionのセクションで生命倫理のArthur Caplanという人は、「人工的に生命を合成した」この仕事は、生命は物質だけからなるものではないとする「生気論」を否定するものだ、と評価しています。この結論は、多分、この人がVenterの実験の中身を十分には理解していないことから生じる前提の誤りから導き出されたように思います。生命の定義でさえ、厳密なコンセンサスはないと私は思っておりますから、このVenterの実験はそのような哲学的主題に回答を与えるようなものとはとても思えません。
このニュースが騒がれる理由は、やはりCraig Venterだからだと思います。例えてみれば、彼はある意味、生物科学界の小沢一郎的存在ではないかと思います。大勢の人が彼のアクの強い性格を嫌っていますが、彼の天才性というものは歴然としており、認めざるを得ないと思っていると思うのです。(私は別に小沢氏のアクが強いとは思っておりませんが、大勢の人が彼を嫌っていることは知っております)Venterのことは、このブログでも数年前に一度、触れていますが(DNAゴシップ 2007-12-18)、彼ほど、Maverickという言葉が似合う科学者はいないだろうと思います。ヒトゲノムプロジェクトで熾烈な競争を繰り広げた、かつてのNIHの同僚でありライバルのFrancis Collins (現NIHディレクター)と比較して、前回のブログでは、私は彼らを空海と最澄に例えていました。彼のアイデアや戦略は極めてシンプルで力強いです。それが広くアピールするのだと思います。NIH時代、発現している遺伝子をとりあえずシークエンスしてみよう、というアイデアでESTのプロジェクトを始めました。今でこそ、ESTのデータベースは広く受け入れられその有用性も認められていますが、当時は、そんなデタラメに何でもかんでもシークエンスすることに何の意味があるのか、という強いskepticismに合い、結局、VenterはNIHを去ることになります。その後も彼のやって来た事は、ヒトゲノムプロジェクトを始め数々のゲノムプロジェクトに代表されるように「ひたすらシークエンスする」ことでした。それをいろいろな生物学的コンテクストに応用して、意義のある知見を導き出す、手法的には超ワンパターンです。しかし、シークエンスの規模は通常の研究者がやる規模の何百倍という規模でやる、単純だが、普通のヒトならやる気にもならないようなことを、やってしまう、そのために金が必要なら、自らパーティーを開いて出資者を募り、ゲノムシークエンスアッセンブリーに必要なら世界最速のスーパーコンピューター(ヒトゲノムプロジェクトの時、Venterのセレラが世界最速のコンピューターを持っていました)を作る、その野心的な目的の達成のための強い意志と実行力には、感嘆の声を上げずにはおれません。ひたすらシークエンスするという技一本で、自らの道を切り開き、世界を驚かせて来たVenterは、冒険小説の主人公となりえる希有な科学者と言えるでしょう。
ところで、「人工生命」というコンピューターを使って、生命のアルゴリズムを探ろうとする分野が20年程前に大ブームになったのを覚えている人はいるでしょうか。私も、当時、興味を持って、「生物物理夏の学校」とかで、「人工生命」研究者の話を聞きにいったことがあります。当時、筑波大でこの分野で脚光を浴びていたグループの若手演者は、「人工生命をやっています」と初対面の人に自己紹介すると、生命保険会社勤務と勘違いされる、というような冗談で、当時、新興のこの研究分野を紹介していました。また、(当時の)人工生命研究は、60年代に流行ったサイバネティクスの再燃であると述べていたのを覚えています。その人工生命研究がバーチャルな世界から、技術の発達によって、現実の正解で行われるようになってきたのが、近年の「Synthetic Biology」と考える事もできます。そういう観点から、今回のVenterの仕事をみると、私のようなWet biologyの人間としてはそう騒ぐ程の仕事のように思えませんけど、人工生命研究という点からは、バーチャルから現実への最初の大きな一歩であった、と評価することもできるのではないかとも思います。今後はどう展開するのでしょうか。相手はVenterですから、期待もふくらみます。
ついでに、Natureのこの号のBusinessの欄では、世界で始めて一分子シークエンシングを商業化したMassachusettsの会社、Helicosが業績不振のため従業員の半分を解雇し、シークエンシング技術開発から撤退するとのニュースを伝えています。二年前に「進化するシークエンサー 2008-10-28」で、Helicosの一分子シークエンシングは技術的に中途半端で、苦しいだろうと書いたのですけど、図らずもその予測の通りとなりました。現在、いくつかの会社でHelicos方式よりもより高パフォーマンスの一分子シークエンシングの商業化に近づいていますが、一分子シークエンシング法が現行の二世代平行シークエンシングに比べて生物学研究上のメリットがそう明らかでない現状では、いずれも苦しい戦いとなりそうな気がします。