百醜千拙草

何とかやっています

遺伝子学の時代と個の医療

2010-06-25 | Weblog
先日は、シカゴ大学で糖尿病の遺伝学的研究をしている人の話を聞く機会がありました。糖尿病の遺伝学というと、最近はすぐ、Genome-wide association study (GWAS) で大規模の患者の遺伝子多型と疾病との関連を調べる「例のやつ」かと思われるかも知れませんけど、彼のアプローチはその逆です。特殊な例の糖尿病にフォーカスして、単一遺伝子の変異を検出するというやり方です。きっかけになった例は生後すぐに糖尿病を発症した女児でした。主治医は一型糖尿病の診断でインスリン治療を開始して血糖コントロールを始めました。患者が6歳の時に、このシカゴ大の研究者の人は症例を知り、自己免疫が主な役割を果たす一型糖尿病としては発症が早すぎるので、遺伝子異常が原因であろうと考えて、調べたところ、インスリンを産生するベータ細胞のカリウムチャンネルの活性型異常があることを発見しました。
 インスリンの細胞外分泌にこのカリウムチャンネルを通じた膜電位の維持が重要なことは前から分かっていたことで、二型糖尿病の治療に使われるSU剤は、このカリウムチャンネルの制御蛋白のSUR1に結合することによって、インスリン分泌を促進します。それで、その6年間インスリン治療されていた子供に試しにSU剤を与えたところ、インスリンの分泌が認められ、2週間後にはインスリンが必要なくなり、インスリンポンプから離脱したという劇的な話でした。こういう例は、遺伝子変異でおこった異常に対して、既に何らかの薬があり、治療可能だったという幸運があったからおこった奇跡ですけど、それでも、この発見はこの患者さんを含む複数の患者さんの病気を著しく改善したという点で、基礎遺伝学が臨床にドラマティックに貢献したinspiringな話だと思います。多分、こういうラッキーな発見はごく稀にしか起こらないのでしょうけど、基礎研究の積み重ねによって、ラッキーな発見は増えていくのではないかと予想されます。
 この例は、一型、二型、というような症候的分類をしていた糖尿病に、遺伝的分類(あるいは、病因に基づいた分類)を(将来的に)導入していく必要をあらためて強調しています。もちろん、ゲノムワイドの遺伝子診断が簡単にはできるものではないので、遺伝子または病因分類を導入せよと言われたところで、現在の技術ではちょっと難しいのですけど。

Geneticsの時代になって、臨床医学も随分変わって来たものだと感銘を受けます。Geneticsもメンデルのころの古典的遺伝学の概念から随分広がりました。かつては遺伝様式を調べて遺伝子疾患によるものかどうかを見極めるぐらいの所までが、遺伝学がせいぜい医学に寄与してきた部分でしょうけど、現在は、遺伝子をDNAのレベルで調べることが遺伝学の中心となっています。また、なにより、殆どの疾患の基礎には遺伝子または遺伝子発現の異常というものがある、という概念は大きなパラダイムの変換を来しました。現在、Geneticsという言葉は「遺伝学」ではなく「遺伝子学」と訳される時代だと思います。
 二十年前の臨床医学は、症候や画像その他の検査に基づいた診断学、とその診断に従っての治療や疾病管理というワクの中で行われていたように思います。これは、多分、現代でも実際診療においては、余り変わっていないと思います。しかし、分子生物学的研究法、特に遺伝子解析法の普及によって、臨床医でも多少のトレーニングがあれば、こうした基礎研究が明らかにして来た知見を解釈し、臨床応用できるようになってきて、少なくとも、臨床医の疾病へのアプローチの意識というか、精度が上がって来ただろうと想像されます。疾病を症候ではなく、病因から、それも分子、遺伝子のレベルの異常という観点から捉えようとするやり方は、おそらくこの二十年の間に主流になったもので、それだけでも、基礎医学研究の臨床への寄与の大きさに感じずにはいられません。

この人の話を聞いて、「長年、インスリン治療を受けて来た糖尿病の子供をSU剤で治療する」という話を十年前の一般病院の臨床医にしたら、どう思うだろうか、と想像せずにいられませんでした。きっと「バカなことを言うな」とでも言われたことでしょう。これは糖尿病という病態、病因のheterogeneityに余り意識的でない昔の臨床医であれば、当然の反応と思います。
 同じ糖尿病と言っても、「糖に対するインスリン作用の相対的不足」がおこるような病態であれば、様々な原因でおこり得ます。インスリン分泌の異常の場合もあれば、インスリン遺伝子そのものの異常でインスリンの合成障害を起したり、プロインスリンの高次構造異常による小胞体ストレスでインスリン産生細胞の機能不全を起こすような場合もあります。単一遺伝子の変異でおこる病態もあれば、複数遺伝子が関連する場合もあるでしょう。そう見ていけば、糖尿病は幅の広い病態であって、こういうcommon diseaseといわれる病気だからこそ、「個の医療」の対象にされるべきなのだなあ、と思わされます。

講演では、インスリンポンプから離脱して、副作用の低血糖発作に悩むこともなくなったこの子供の笑顔がスライドいっぱいに映し出されていて、こういうのが、医師の基礎研究者の喜びなのだなあ、思ったりもしたのでした。(もちろん、助けることができなかった患者さんの落胆した顔もその何十倍もの数を見たことでしょう)
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