百醜千拙草

何とかやっています

研究者主権の科学政策を

2010-06-13 | Weblog
思いがけず柳田先生に紹介いただいたおかげで、先生のブログの読者の方々の研究費配分日本の研究制度の問題についての興味深いコメントを読ませていただく機会に恵まれました。
 今回、私は柳田先生の研究申請審査の顛末に、日本の官僚主義的、非民主主義的「暴力」の匂いを嗅いだ気がしたので、この話を取り上げさせていただきました。これは研究界だけの話ではなく、日本という国がまだまだ民主主義から遠く、国民には主権がない、という私にとっては憂うべき現状の一部分の表れではないのかと感ぜられました。それで、日本よりは少なくとも民主主義という点で国のシステムとして進んでいるアメリカと対比して、私見を述べさせていただいた次第です。

論文にせよ、研究費申請にせよ、やはり、ピアレビューで仲間うちでの評価をし合うわけですから、人間のやる事で嫉妬や妬み、好き嫌いもあります。厳密な公正さが審査に保たれるかといわれると、それは難しいだろうと思います。ですけど、私は、審査員はその良心とピアレビューの原則に忠実に職務を遂行する義務があると思います。つまり、審査は申請者の個人の信条や感情や好みを抜きに、厳密にメリットベースで議論されるべきだという建前に忠実でなければならないと考えます。この原則には反対される人は少ないだろうと想像します。

この件の場合、申請書もろくろく読んでいないと思われる審査員が審査の前から「犯罪的だ」と申請者本人に対して非難したということですから、この審査員は研究申請の内容と無関係に柳田先生が研究費を申請すること自体が良くないと考えているらしいわけです。とすると、その審査員はその申請を認める事は、(誰か知りませんけど、審査員本人も含めた誰かの)不利益になると思っていたと考えてよいのではないでしょうか。ならば、ここには直接的か間接的か分かりませんけど、利益相反があると見なしてよいと私は思います。利益相反のある場合に審査員を引き受けるのはやってはならぬことであると私は思います。もし、この方に別段、利益相反がなくとも、例えば、「定年を過ぎた研究者や複数の研究室を持つ研究者には研究資金を配分すべきでない」という個人的あるいは組織的な考えがあって、それに基づいて申請書を審査したとなれば、やはり、それはピアレビューの原則に反するもので、越権行為であると思います。

事情や証拠がはっきりしないので意見表明は保留すべきではないか、という意見もありました。一理ありますけど、この件に関しては、私は、むしろ、意見はどんどん言うべきだと思います。第一の理由は、審査員と申請者の力関係の不均衡があるからです。力の弱い(いわば審査員に裁かれる立場の)被審査側が不公平な審査を受けたと感じられたならば、そういう声を上げるのは被審査側の当然の権利であり義務でさえあろうと思います。審査過程に問題があると被審査側が思うのであれば、その問題はきっちり調査されるべきで、そして事実、問題があるとなれば、審査過程の方が改善されるべきであると思います。人が人を裁くのですから、裁く方ではなく、裁かれる方の権利が十分保たれることがまず優先されなければならない、と私は思います。
 第二に、私自身の考えでは(これは刑事事件ではありませんから推定無罪は当てはまらず)疑われるような行動をとって疑われた場合、悪いのは疑われる方だと思っております。これは、捏造論文の場合を考えてみていただけたらお分かりいただけると思います。論文が疑われた場合に疑いを晴らすのは論文著者の責任です。この件における審査員の人は、少なくとも、柳田先生の話からすると、(悪意を持って恣意的な審査を行った)という疑いが濃いわけで、その審査員の人には、疑いを晴らし説明を行う責任があると、私は思います。この話から、その審査員の行動が示唆する研究資金配分におけるcorruptionとでもいうようなものを感じて、私は強く警戒心をかき立てられました。疑わしい場合に「疑わしい」と声を上げていくことは大切だと思います。それが閉鎖的でいわゆるwatch dogのいない研究界の自浄作用に必要なのだと思います。ついでに、これも私の意見ですが、疑わしいと思いつつも放置して害を被った場合に、悪いのは何も言わなかった方だといます。

当たり前の話ですけど、日本は建前上、法治国家で民主主義国家ですから(本当は違うようですけど)、研究者(国民)自らが、適正な研究費配分のシステムを作っていくべきだと思います。アメリカの話で悪いですが、NIHのStudy sectionでは、通常三人の審査員が一つのグラント申請を吟味し、その研究の長所と短所をまとめて独立して点数をつけます。さらにその吟味の妥当性はStudy section全員の前で議論されます。審査のプロセスを多くのStudy sectionのメンバーの研究者にオープンにしていくことで公平なシステムを保とうとしています。日本ではどうなのでしょうか。
 事情がはっきりしていない段階でアレコレ言うことは審査システムを脅かすという意見もありましたが、私はこれは逆であるべきだと思います。審査のプロセスに問題があると疑われるのであれば、その疑いを晴らし、審査が公平なものであることを示すのは、審査システムの方の責任だと思います。そうすることによって、現在の審査システムをもっとより良いものに変えていくのが筋であって、システムを守るために個々の研究者に犠牲がでるようでは本末転倒であると思います。(エルサレム賞受賞の時の村上春樹さんのスピーチでの「卵と壁」の喩えを思い出しますね。研究者である以上、たとえ卵(研究者)の方が間違っていたとしても私は卵の側に立ちます)

それで研究費配分のシステムがどうあるべきかという話ですけど、民主主義的に議論がなされて、研究費はメリットベースで配分する、と確認されるなら(私は基本的にそうあるべきだと思います。結局は、実力の世界ですから)その原則にそって審査はされるべきだと思います。あるいは、もしも、もっと社会主義的に一定額お金を実力に関係なくばらまきましょう、と決めるなら、その原則にそって研究費の配分がなされればよいし、 研究費申請の年齢や数の制限導入すべきだと決めるのなら、それはそれでもよいと思います。みんなで決めたルールですから。しかし、今回の話では、柳田先生側の申請には瑕疵はなかったと考えられるのにもかかわらず、不公平で原則を無視した審査がなされたと(少なくとも申請者が感じた)という点が問題であると私は思うのです。これは、法治に基づく民主主義国家の精神の根幹おびやかす問題に他ならないと思います。
どうでしょうか?
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする