若手研究者の中で、若者にもっと独立した研究のチャンスを与えて欲しい、という声があります。日本の研究環境では、なかなか若手が独立して研究するための資金やポジションがない、という不満はわかります。若手を育てるための充実したプログラムがもっと整備されるべきだと私も思います。学振などのトレーニンググラントはもう少し規模を大きくすべきだと思います。しかし、若手の人がその不満を同業の先輩やestablishした教授たちに向けるのはどうかと思います。私の理由は二点です。一つは、極端に言えば、研究者というものはプロのスポーツ選手、あるいは実業家のようなものだと私は思うからです。即ち、実力と結果が全ての競争の世界です。年齢や経験ではなく、実力と結果が評価されるべきであると私は思います。一方、プロのスポーツ選手や実業家と対するのがサラリーマンであると思います。どちらがよい悪いではなく、研究者、プロスポーツ、実業家という職業に、サラリーマンのメンタリティで臨むべきではない、ということです。逆もまた真なりです。プロスポーツ選手、実業家は、結果が全てです。結果を出して始めてナンボ、そのために彼らは努力するのは当然ですが、どう努力すれば成功するのか、そのゴールの達成にどういうストラテジーをとるのか、を考え、実行し、そして、その努力にもかかわらず結果が出なかったら、結果が出ないことに対して100%の責任を負います。一方、サラリーマンも努力はするでしょう。しかし、その責任の範囲は通常限られており、基本的に、彼らの仕事は会社に自分のサービスを売るという取引であり、彼らの過失により会社に損害を与えた場合のliabilityはあるでしょうけども、仮にそれで会社が潰れたとしても、結局はその人を雇って仕事をまかせた会社側の責任となります。独立して資金を自分で工面しないといけない研究者は零細企業のオーナー経営者のようなものだと思います。仮に、取引先が潰れたとか、円が暴落したとか、地震で全壊したとか、そんな自分のコントロールできないような理由があっても、会社が潰れたら、いかなる理由であっても自分が責任を負います。研究者の場合も若手でもシニアでも同じ、結果が全ての世界と思います。「ポジションや資金が与えられないから結果が出ない、結果がでないからポジションも資金もない」というフラストレーションはわかります。しかし、そういう世界に自ら踏み込んでしまったのですから、やはりそれは自分の責任でしょう。「知らなかった」とか「だまされた」というのは言い訳になりません。知らない方やだまされた方が悪いのです。結局、自分に起こる全ての事に責任を負うという覚悟がないと、プロスポーツ選手や実業家同様、研究者でもなかなか成功できないと思います。
若い人で自分の不運に対して原因を外に求めようとするのは、私は日本の教育システムが戦後高度成長期の時に、「よいサラリーマンを作る」ための教育をおこなってきたためにサラリーマン的メンタリティーが広がったからであろうと思います。与えられた課題を正確に迅速にこなす能力はサラリーマンにとっては重要な能力でしょうけど、実業家の仕事は、むしろ、課題を自ら探しあるいは作り出し、それにどう答えるべきかという戦略を考えることだと思います。しかるに、日本の学校教育では、答えのある問題の正解にすばやく到達する人間が高く評価され、問題そのものを考えだすトレニーニングは殆ど行われてきませんでした。学校では先生(社長)の言うことを聞き、規則を守れと一方的に言われるだけで、自分たちで先生を選んだり、規則を改善したりしようとすると強い抵抗にあいます。しかし、もはや高度成長期ではなく、東大を出て優秀なサラリーマン教育を受けたら、自動的に一流企業で終身雇用が与えられるという時代は過ぎました。
研究者のキャリアでは、最初はボスのプロジェクトを手伝って修行をするというサラリーマン的時期を経て、実力をつけて独立をし、企業経営者になります。そこで、大きなマインドセットの変化が求められるのだと私は思います。そして、周囲を見回してみると、独立して一定期間研究者をやっている人の多くは、既に学生やポスドクの時代から企業経営者の発想を持っていたように思います。彼らはポジションや資金はつかみ取るもので、与えられるものではないということを早くから知っていました。
私自身も、この現実を受け入れるのに多少苦労しました。「小さいうちから受験勉強して大学に入って大学院まで出たのに満足できるようなポジションに就けない、何のためにあんなに頑張ったのか」と思う気持ちは私はよく分かります。しかし、それは実はその「何のために」の部分をおそらく十分に考えていなかったのではないのでしょうか。自分の進路を決めたのは自分であり、その時に十分、先のことを考えておくべきでした(とはいっても、私も大学院に行ったときは何も深く考えていませんでした、それで苦労しました)その辺の所に十分意識的である人はやはり早くに成功しています。
もう一つ、同じ事を繰り返すようですけど、若手研究者の人が持つそのフラストレーションは外に向けるのではなく、自分に向けなければ事態は改善しないと思います。「若手のためのポジションや資金が乏しい」という事実に直面して、ポジションや資金をいつまでも握っているシニアの人が悪いと文句を言ったところで、状況は改善しません。(文句を言い続けたら次の世代ぐらいには状況が改善する可能性はないとは言えませんけど)それよりも、その現実をまず受け入れて、そういう世界でどう生き残り、自分の夢を実現していくか、という問題に集中した方が生産的であろうと私は思います。
というわけで、私は、天は自ら助くるものを助く、叩かなければ扉は開かれない、という聖書の言葉に同意するものです。同様に、幸せを実現するのは自分自身しかいないという意味で、幸せは歩いてこない、という言葉にも深く同意するのです。ならば、自ら、幸せの実現のために歩きましょう。一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる、千里の道も一歩から、文句を言わずにまず歩きましょう。
若い人で自分の不運に対して原因を外に求めようとするのは、私は日本の教育システムが戦後高度成長期の時に、「よいサラリーマンを作る」ための教育をおこなってきたためにサラリーマン的メンタリティーが広がったからであろうと思います。与えられた課題を正確に迅速にこなす能力はサラリーマンにとっては重要な能力でしょうけど、実業家の仕事は、むしろ、課題を自ら探しあるいは作り出し、それにどう答えるべきかという戦略を考えることだと思います。しかるに、日本の学校教育では、答えのある問題の正解にすばやく到達する人間が高く評価され、問題そのものを考えだすトレニーニングは殆ど行われてきませんでした。学校では先生(社長)の言うことを聞き、規則を守れと一方的に言われるだけで、自分たちで先生を選んだり、規則を改善したりしようとすると強い抵抗にあいます。しかし、もはや高度成長期ではなく、東大を出て優秀なサラリーマン教育を受けたら、自動的に一流企業で終身雇用が与えられるという時代は過ぎました。
研究者のキャリアでは、最初はボスのプロジェクトを手伝って修行をするというサラリーマン的時期を経て、実力をつけて独立をし、企業経営者になります。そこで、大きなマインドセットの変化が求められるのだと私は思います。そして、周囲を見回してみると、独立して一定期間研究者をやっている人の多くは、既に学生やポスドクの時代から企業経営者の発想を持っていたように思います。彼らはポジションや資金はつかみ取るもので、与えられるものではないということを早くから知っていました。
私自身も、この現実を受け入れるのに多少苦労しました。「小さいうちから受験勉強して大学に入って大学院まで出たのに満足できるようなポジションに就けない、何のためにあんなに頑張ったのか」と思う気持ちは私はよく分かります。しかし、それは実はその「何のために」の部分をおそらく十分に考えていなかったのではないのでしょうか。自分の進路を決めたのは自分であり、その時に十分、先のことを考えておくべきでした(とはいっても、私も大学院に行ったときは何も深く考えていませんでした、それで苦労しました)その辺の所に十分意識的である人はやはり早くに成功しています。
もう一つ、同じ事を繰り返すようですけど、若手研究者の人が持つそのフラストレーションは外に向けるのではなく、自分に向けなければ事態は改善しないと思います。「若手のためのポジションや資金が乏しい」という事実に直面して、ポジションや資金をいつまでも握っているシニアの人が悪いと文句を言ったところで、状況は改善しません。(文句を言い続けたら次の世代ぐらいには状況が改善する可能性はないとは言えませんけど)それよりも、その現実をまず受け入れて、そういう世界でどう生き残り、自分の夢を実現していくか、という問題に集中した方が生産的であろうと私は思います。
というわけで、私は、天は自ら助くるものを助く、叩かなければ扉は開かれない、という聖書の言葉に同意するものです。同様に、幸せを実現するのは自分自身しかいないという意味で、幸せは歩いてこない、という言葉にも深く同意するのです。ならば、自ら、幸せの実現のために歩きましょう。一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる、千里の道も一歩から、文句を言わずにまず歩きましょう。