本文とは特には関係ありません。
脱線ついでに、自死を考えてみる。
三木卓の作品に母を看とる私小説があった。
ボケて問題のあった母親が、ある日全く正気になって周りに今までのことを感謝し、一切の食事を絶ってしまい、ほどなくして亡くなったという最期が描かれていた。
認知症が痴呆症と言われていた時代に典型的なその症状を呈した母を亡くし、その後多くのそれ関連の本を私は読んだ。
後の祭りだったけれど。
最後まで理性を保っていられるから、癌になって死にたいという医師の述懐を読んだこともある。
『病院で死ぬということ』を書いた山崎章郎のホスピスについて書かれた本では、末期癌の痛みは麻薬を上手に使えば完全に制御できるとあった。
昨秋、旧い友人をホスピスに訪ねた折、彼は腹水が溜まって異様な体型になっていたが、治療を一切しないことや、痛み止めがうまくいっていて好き勝手に過ごしていることなどを語ってくれた。
年内の余命だから、来春まで続く連続テレビドラマは観ないとも言っていて、その通りになった。
ホスピス内の俳句クラブに入っていて、『それでは披露します』と背筋を伸ばし、私一人を前に吟じてくれた姿を時々思い出す。
私の母方は認知症の血筋で、父方は前立腺と心臓に欠陥を持つ血筋。
治療をしないという選択なら、まともな意識のまま死を迎えることができそうだ。
痛みには強い方だけれど、痛さを徹底的に避けて、最期は麻薬の世話になって理性的恍惚のままに世を去るのも悪くない。
つづく