裸になっていた樹々も新葉を吹きださせて緑の並木道が整い始めた。
常緑の宿り木は冬枯れの中では目立っていたけれど、もうすぐ新緑に紛れてそれと判らなくなる。
山科川土手の遊歩道にはいろんな木が植わっているのだが、サルスベリも何本かある。
猿も滑るだろうという木肌からサルスベリなのだろうけれど、宿り木も苔も黴も寄せ付けないだろうと思われる。
共生とか寄生を良しとしない孤高の木なのかなどと情緒的に感心したりする。
宿り木に想いを馳せつつ来し方を想えば、自分はどのようなパラサイトとなって生きてきたのか。
宿主となって、多くを養ったり共生しているとは思えない。
癌は二種類切除したけれど、共生する道もあったのだろう。
いずれの癌も寿命の短かった昔なら原因が確定されないまま全身に転移して、老衰の果て自然衰弱死となるはずだった。
科学の子は、悪いなら切除したら良いと考えて、後先あまり考えずに、スリムになろうと決断した。
罰とも考えて受け入れつつ死に挑戦をして生をもぎ取ろうとしている。
というようなことを久々に山科川土手を散歩しつつ想ったり立ち止まったり。
今回のワクチン接種。空っぽの60年を
考えさせられます。絆創膏のように張るだけのワクチンを東大?が作っているとか?結局、免疫力・細胞力です。自分自身のです。
もっと、自分を愛していきましょう。
ひところ赤瀬川原平の「老人力」がもてはやされました。
読んでいませんが、ある種の居直りと言いますか、ポジティブ・シンキング表現なのだろうと思いました。
大事なのは言語力かもね。