「HOME」は季刊雑誌なんだろうか、その特別編集『ザ・藤森照信』を昨晩シンデレラタイム過ぎまで読んだ。
内容は安藤忠雄、石山修武、内藤廣、原広司ら15人が寄せた質問状に藤森さんが答えるという企画をはじめ、藤森さんの作品紹介と依頼者(クライアント)のコメント、磯崎新の藤森さん小論「乞食照信を論ず」、70人の藤森像紹介、藤森さんの奥さんへのインタビューなど盛り沢山。
興味深かったのは最初の企画、伊東豊雄さんの質問状とそれに対する藤森さんの回答。
伊東さんはこう問う。**藤森さん、教えて下さい。近代主義建築の矛盾を見てしまった建築家に、でも頼るべき田舎も自然もないことを知ってしまった建築家に、この先あるべき建築を・・・・・・。**
これは伊東さんの現時点での自己認識を示す大変興味深い質問、と指摘できる。藤森さんの答えが伊東豊雄を論じて実に明解で、すばらしい。ここに一部しか転載しないので是非書店で読んでみて欲しい。
**その伊東から「頼るべき田舎も自然もない」と言われると、つらい。伊東は私と同じ時期、同じ田舎で育ち、同じ自然で遊んだ。伊東は、中学時代の最後に田舎を出て、(中略)中野本町に住んだ。一方私はずっと田舎で育ち、(中略)「頼るべき田舎と自然」は保ち続ける。(後略)**
この質疑応答にふたりの建築、殊に藤森建築を読み解く鍵を見つけることが可能ではないか。以前私は、「建築家は原風景の再現を建築作品で試みるのだ」と書いた。 藤森さんの作品はそのことの証左になると言っていいだろう。伊東さんの「頼るべき田舎と自然」はデザインの拠り所と解釈できるが、それは明らかに藤森さんの作品を意識してのことだ。その伊東さんの近作「ぐりんぐりん」の藤森評も興味深かった。
藤森さんの回答にはこんな記述もある。**当時、私は、日本の建築界を、ル・コルビュジェを祖とし、物の実在性を求める赤派と、ミースを祖とし、抽象性を求める白派に分けており(後略)**
以前このブログに「建築とは設計者の知性と感性の統合の所産なのだ」と書いた。設計者によって知性優位な作品か、感性優位な作品かは異なるとし、その違いを「数学的」な建築と「材料的」な建築と捉えてみた。
藤森さんが「抽象性を求める白派」と「実在性を求める赤派」という分け方をしていたことは知らなかった。これは私の分け方と一致していると考えて差し支えないと思う。つまり、抽象性≒数学 実在性≒材料。
藤森さんの表現、その見事さに脱帽。
ところで鈴木博之氏(建築史家)は収録されているエッセイで、彼は暖かい性格ではあるが、大人になってまるくなったわけではないと指摘し、**記憶に残っているのは、最近有名な住宅建築家に対して、彼には見るべきところがないと言いきったことだ** と書いている。この建築家が誰であるのか、この雑誌を読めば指摘するのは(たぶん)容易だ。 そんなこと知らなかったな~。