『カーサ ブルータス 丹下健三を知っていますか』に丹下建築100選が載っている。先日書いた丹下健三の作品は初期のものが美しいという感想は以前からもっていが、このリストの写真を見てそのことを確認した。
2枚の写真、左は静岡新聞・静岡放送東京支社、右は山梨文化会館。撮影年は不明だが、ともに学生時代のもの。
静岡新聞・静岡放送東京支社は1本の円筒コアに空間が取り付いている。木の幹に葉がついている様子に見立てることが出来る構造だ。これを構成単位として横にいくつもつないでいって空中都市つくるというシステムの構想。それを具現化したのが右の山梨文化会館、だとずっと理解していたが・・・。ちなみにこの山梨文化会館を取材した記事のタイトルは「これは都市か?建築か?」となっている。
ところがリストに載っている設計・竣工年によると、山梨文化会館は1961年からの設計で竣工が66年。静岡新聞・静岡放送東京支社は設計が66年に始まっている(竣工は70年)。
逆だった。「山梨」が出来た後に「静岡」が出来ていた。論理的な流れとしては私の誤解の方が素直だと思うが、違っていた。
この二つの建築や代々木競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂に代表されるように、初期の丹下建築の美しさは構造システムが意匠に活かされて表現されている「構造表現主義」によるものだと思う。
やはり必然性の見えないデザインには魅力を感じない。
■ 望月信成 佐和隆研 梅原猛共著の『仏像 心とかたち』NHKブックス
1965年に発行され、現在(2003年)、第113刷。長年よく読まれているということだろう。
日本美術史はなにも知らない、仏教に関する知識も皆無、という私にとって決して理解しやすい内容ではないが、なかなか興味深く面白い。
そもそも仏像にまで興味が及んだのは、「繰り返しの美学」と「繰り返さない美学」(この表現はあまり相応しくないが)を考えているから。繰り返さない美学の代表といえば日本庭園、そこから方丈庭園そして仏像という流れだった。
この本を読み進んで次のような一節に出合った。**大日如来が人気がないもう一つの理由は、大日如来が知の仏であるためであろう。(省略)知の仏様は日本では情の仏様よりはるかに人気がない。しばしばヨーロッパ文化の主知的性格に対して、極東の文化は主情的であるといわれるが、日本文化の主情性という特徴は、否定できないように思われる。** (138頁)
主知的なヨーロッパと主情的な日本の対比。これは知性に根差す数理的な秩序によるヨーロッパの繰り返しの美学と感性によって知覚する日本の繰り返さない美学との対比に一致する。
自分の考えに一致するような、考えを補強してくれるような、指摘に出合うこと、本を読む楽しみはまさにここにある。
ではなぜヨーロッパは主知的なのか、なぜ日本は主情的なのか・・・。和辻哲郎はその答えを風土に求めていた。
「繰り返しの美学」も随分遠いところまできたような気がする、と自己満足。
1965年に発行され、現在(2003年)、第113刷。長年よく読まれているということだろう。
日本美術史はなにも知らない、仏教に関する知識も皆無、という私にとって決して理解しやすい内容ではないが、なかなか興味深く面白い。
そもそも仏像にまで興味が及んだのは、「繰り返しの美学」と「繰り返さない美学」(この表現はあまり相応しくないが)を考えているから。繰り返さない美学の代表といえば日本庭園、そこから方丈庭園そして仏像という流れだった。
この本を読み進んで次のような一節に出合った。**大日如来が人気がないもう一つの理由は、大日如来が知の仏であるためであろう。(省略)知の仏様は日本では情の仏様よりはるかに人気がない。しばしばヨーロッパ文化の主知的性格に対して、極東の文化は主情的であるといわれるが、日本文化の主情性という特徴は、否定できないように思われる。** (138頁)
主知的なヨーロッパと主情的な日本の対比。これは知性に根差す数理的な秩序によるヨーロッパの繰り返しの美学と感性によって知覚する日本の繰り返さない美学との対比に一致する。
自分の考えに一致するような、考えを補強してくれるような、指摘に出合うこと、本を読む楽しみはまさにここにある。
ではなぜヨーロッパは主知的なのか、なぜ日本は主情的なのか・・・。和辻哲郎はその答えを風土に求めていた。
「繰り返しの美学」も随分遠いところまできたような気がする、と自己満足。