透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

青春の想い出 山行記

2022-09-09 | A あれこれ

 大学3年の時、北アルプス最奥地・雲ノ平登山をしたこと、伊藤新道を下って湯俣川に架かっていた簡易な吊り橋を渡り、ずいぶん怖い思いをしたことを書いた。この機会に1、2年の夏合宿の山行のことも書いておきたい。



1年の時は知床半島を羅臼から知床岬まで縦走した。地図で測る羅臼から知床岬までの直線距離はおよそ40km。実際の歩行距離はこの1.5倍くらいか。クマに遭遇しないようにトランジスタラジオをかけっぱなしにしながら藪漕ぎした。


国後島の爺爺(ちゃちゃ)岳の噴煙が見えたことを覚えている。上の写真では分かりにくいが、後方中央に噴煙が雲のように写っている。改めてウイキペディアでこの火山のことを調べると、この年の大噴火のことが載っていた。オジロワシを見たことや知床灯台の白と黒の縞模様も記憶にある。



2年の夏合宿では屋久島の宮之浦岳(九州最高峰 標高1936m)から永田岳の縦走登山をした。当時の屋久島は今のように観光地化しておらず、島には登山目的で入る人ばかりだったのでは。ウィルソン株の大きな空洞内で撮った写真がアルバムにある。途中、避難小屋に泊まったことも記憶にある。シュラフに入ると長三角になるので頭、脚、頭、脚というように交互にぎっしり並んで寝た。


この時は東京から西鹿児島まで1日以上かかる急行列車で行った。帰りもこの列車を利用した。東京駅の改札口で急行券を渡し忘れた(?)ようで、アルバムに写真と一緒に残っていた。この当時、急行料金は200kmまで200円、201km以上はこの券の通り300円。安かった。

この列車について検索して、東京駅午前10発、西鹿児島翌日午後2時20分着、所要時間28時間20分!の急行「高千穂」だと分かった。日本最長距離を最長時間をかけて走っていた列車だ。

同好会顧問の教授が九州で行われた学会の折にわざわざ屋久島まで来てくださったことに感激した。屋久島から鹿児島まで帰るフェリーで撮った集合写真をずいぶん久しぶりに見た。鹿児島屋久島間、フェリーの所要時間は4時間くらいだったかと思う。

林芙美子は屋久島は月に35日雨が降ると書いている。どこに書いているのか調べた。「浮雲」だった。**「屋久島は月のうち、三十五日は雨というぐらいでございますからね・・・・・」**

だが、この合宿では雨に遭わなかった。知床でも遭わなかったと思う。僕は今でも晴れ男。  


 


「総角」

2022-09-08 | G 源氏物語

「総角(あげまき) それぞれの思惑」

 全54帖から成る長編『源氏物語』。作者別人説もあるという匂宮三帖(第42帖~第44帖)は出来栄えが良くないと評されてもいる。このことに関して、作者・紫式部が主人公・光源氏を失って物語をどう展開していこうか、試行錯誤したことに因るのではないかという見解も示されている。その迷いが吹っ切れて物語の方向を定めて書かれたであろう最後の宇治十帖(第45帖~第54帖)は登場人物の内面もきっちり描かれている。また、登場人物が少ないことから、読みやすい。現代語訳した角田光代さんの文章にもなんとなく勢いを感じる。

さて、宇治十帖の第47帖「総角」。

八の宮の一周忌。**あげまきに長き契りをむすびこめおなじ所によりもあはなむ**(148頁)薫(中納言)は八の宮の長女(大君)に思いをこの歌に託す。私たちもいつまでも寄り添っていたいものです、と。しかし姉は父親が遺した安易に世間並みの結婚などしないようにという言葉を守って生涯独身貫く覚悟。だが、妹(中の君)の面倒はみてやらなければ・・・、妹を薫に縁づかせようと考えている。

一周忌が明けて、薫は老女房の弁の案内でこっそり姉妹の部屋に入り込む。その時、眠っていなかった姉は起き出してすばやく身を隠す。妹は無心に眠ったままでいる。ひとりで寝ているのが思いを寄せる姉ではなく妹だと気が付いた薫はやはり軽い気持ちだったのかと姉に思われたくないと考えて、気持ちを静めて妹と話をして夜を明かす。むなしい夜明け・・・。若かりし頃の光君だったらこのようにはしなかっただろう。

**おなじ枝(え)をわきて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや(同じ枝を、それぞれ分けて染めた山の女神に、どちらが深い色かと尋ねたいものです ― 私はお二人のうちどちらに心を寄せたらいいのでしょう)**(169頁)と薫。

**山姫の染むる心はわかねどもうつろふかたや深きならむ**(170頁) 大君の返歌。

なるほど、上手いなあ。源氏物語には約800首(795首だが、このような数字をざっくりと押さえる「くせ」が僕にはある)の和歌が収められている。もちろん紫式部の作、平安の才女は和歌にも長けていた。

匂宮が妹(中の君)と結婚すれば自分は姉(大君)と結婚できるかも、と考えた薫は匂宮を宇治に誘う。妹と結ばれた匂宮だが、なかなか宇治に通うことができないでいる。匂宮の薄情な態度に失望した姉は妹を不幸にしてしまったと思い悩み、病床についてしまう。

その後、妹から父宮が夢に出たけれど、とてもふさぎこんだ様子だったと聞かされた姉はさらに病状が悪化、薫に看取られて亡くなってしまう。宇治で喪に服す薫。

大君は死んでしまうのか・・・、この展開には驚いた。匂宮は中の君を二条院に引き取る決心をする。


1桐壺 2帚木 3空蝉 4夕顔 5若紫 6末摘花 7紅葉賀 8花宴 9葵 10賢木 
11花散里 12須磨 13明石 14澪標 15蓬生 16関屋 17絵合 18松風 19薄雲 20朝顔 
21少女 22玉鬘 23初音 24胡蝶 25蛍 26常夏 27篝火 28野分 29行幸 30藤袴
31真木柱 32梅枝 33藤裏葉 34若菜上 35若菜下 36柏木 37横笛 38鈴虫 39夕霧 40御法
41幻 42匂宮 43紅梅 44竹河 45橋姫 46椎本 47総角 48早蕨 49宿木 50東屋
51浮舟 52蜻蛉 53手習 54夢浮橋


青春に悔いはないか?

2022-09-08 | A あれこれ


広島大学にて 1977.10.12 

 大学時代は真面目に研究に取り組んでいたということも示しておきたい。で、この写真。昭和52年度 日本建築学会 秋季大会学術講演会で研究発表する僕。当時は今のようにパソコンがあるわけでもなく、プレゼンツールはOHP(オーバーヘッドプロジェクター)だった。


「日本建築学会論文報告集」にも論文を掲載している。

充実の青春時代を過ごしたと括ってよいと思う。だが、青春に悔いはないか?と問われれば、「ない」と即答はできない・・・。だが、今更悔いても仕方ない。


 


青春ボックス

2022-09-08 | A あれこれ


 青春の想い出シリーズを突然始めたのは実家の片付けをしていてこの箱が見つかったから。

この箱のことはすっかり忘れていた。何だろう・・・。開けてみたら手紙が何通も入っていた。アルバムもあるかもしれない・・・。やはりあった。で、青春の想い出シリーズを始めてしまったというわけ。

スクラップブックも見つかった。スクラップブックのことも忘れてしまっていた。ページをめくっていて、「あ!」っと声を出してしまった。

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『出家とその弟子』倉田百三(新潮文庫1976年49刷)

この本にまつわる想い出については既に書いた(過去ログ)。研究室の夏合宿に参加できなくなってしまったHさんとの想い出。


1976年9月

見つかったスクラップブックに二科展の入場券が貼ってあった。台紙にHさんの名前が書いてある。初めて会ってから1カ月半後、上野まで出かけていた。一度、新宿の紀伊國屋書店で待ち合わせしたことを覚えている。あの時に上野まで出かけたのかもしれない。

この年大学4年生だったHさんは卒業すると、入学時の予定通り、関西の出身地に帰っていった・・・。

はるか遠い日の記憶は忘却という名の海へ・・・。そしてこの本は今も書棚に。チケットは栞がわりに本に挟んでおこうかな。


 


過ぎ去った昔がよみがえる

2022-09-07 | A あれこれ


「惑星ソラリス」
 1977年(昭和52年)5月、日本公開直後にFさんと観た。台紙に書かれたメモで分かった。チケットにスタンプが押してある。岩波ホールは今年(2022年)7月29日に閉館してしまった。
知性とは何か、記憶とは何か・・・。スタニスワフ・レムの哲学的思索の映画化。


「2001年宇宙の旅」
 19781125(土)新宿武蔵野館 同行者の名前なし。ひとりで行ったのだろう。

人類の夜明け。類人猿(だと思う)が骨を使って動物を倒すシーンが冒頭に出てくる。骨が空中に放り投げられると次のショットではそれが白い宇宙船に変わっている。人類の進化を一瞬で表現した、実に印象的なシーンだ。これまでにこの映画を何回観たことだろう・・・。


このころ始まったチケット保存を今も続けている。


179、180枚目

2022-09-07 | C 名刺 今日の1枚

179
先月(8月)25日、上田市真田町長の戸沢地区にある電飾火の見を見に行ったとき、自治会長の宮島さんからこの企画について話を伺った。その際お渡した名刺が179枚目。


180

今月4日、既に撤去された松本市寿の火の見櫓に吊り下げてあった半鐘を保管しておられるSさんの自宅を訪ね、半鐘を見せていただいた。その際お渡した名刺が180枚目。


火の見櫓について事情を知る地元の方にヒアリングする。そのために名刺を渡す機会が増えるようにしたい。

 


あの時 僕は怖かった

2022-09-06 | A あれこれ



 大学でワンゲルのサークルに所属していた僕は、3年の夏に北アルプスの最奥地・雲ノ平登山をした。

この頃は、サッカーで両脚同時ケイレンなどというアクシデントに見舞われるような軟(やわ)な体でもなく、後輩女子をおんぶして喜ぶような心の持ち主でもなかった(と言い切れるかどうか・・・)。

残念ながらこの登山の記録は無く、曖昧な記憶だけが残るのみ。

雲ノ平登山。行きは新穂高温泉から入り、わさび平、鏡平を通るルート取りをした(たぶん)。急斜面で人頭大の落石があったことくらいしか覚えていない。

帰りは三俣蓮華岳から伊藤新道を湯俣温泉を目指して下った。高瀬川上流の湯俣川沿いの伊藤新道にはつり橋がいくつかあり(調べると5つ、すべて落ちてしまったようだ)、それを渡る時はとても怖かったことを覚えている(写真)。

当時、登山者は大きな横長のリュックサックを背負っていたので、列車などの狭い通路はカニのように横向きで歩いた。それでカニ族と呼ばれていた。そのリュックサックが細い手すりに引っかかることもあった。

先日この時の写真が見つかった。写真があることは全く覚えていなかったので、これを目にしたときは驚いた。こんな写真があったのか・・・。この写真を撮ったのは同期生のMかW。3人で下ったのだからこのふたりのどちらかだ。ふたりとも今元気かなぁ。

湯俣温泉まで無事下りて来て、温泉に浸かってから飲んだ缶ビールの美味かったこと。この日、予定通り湯俣温泉まで下りてきたのは一番早く出発した僕たち3人だけで、後発の仲間は下りてこなかった。遭難したのではないか・・・。

途中でビバークして翌朝下りてきた仲間が見えた時、涙が出たことは忘れられない。

伊藤新道下りを最後に僕は登山をやめた。


 


火の見と消防庫 どっちが先?

2022-09-05 | A 火の見櫓っておもしろい

420
取材日 2022.08.25

 上田市真田町長の戸沢地区に立っているこの火の見櫓は今月(9月)12日から解体が予定されている。雨天でイルミネーションの取り外し作業が予定通り行われなければ、解体作業は後ろにずれ込む、と自治会長の宮島さんから連絡していただいた。

この火の見櫓の労をねぎらい、感謝の気持ちを表そうと計画されたイルミネーションの点灯が先月(8月)下旬に行われたことは拙ブログでも紹介した。この好企画をNHKでも民放のSBCでも更に地元のケーブルテレビでも取り上げていた。







さて、本稿で紹介したいのは消防庫の奥に展示されていた火の見櫓建設の様子を撮影した写真。写真③には「昭和36年4月 建設中の火の見と消防庫」というキャプションが付けられている。昭和36年(1961年)に建設された火の見櫓が還暦を過ぎて引退・・・。

③に消防庫に寄りかかるような状態の火の見櫓が写っている。④で櫓の接合部をで示したが、③を見ると、接合部から下側、垂直の柱が既に建てられている。梁も架けられ、最下段(消防庫のブロック積みの壁のところ)の交叉ブレースも取り付けられている(工事用の梯子のところにリングが写っている)。



③に写っている建設地の後方の山が④にも写っていることから、③は④と同じ方向から撮影されたことが分かる。

柱の垂直部分が屋根の軒を貫通していて軒下では露出している「プチ貫通櫓」の場合、問題「火の見と倉庫、どっちが先?」の答えは「同時」が正解のようだ。これまで「火の見が先」、と考えていた。火の見が先で倉庫が後が正解で、この火の見は例外。用心深く考えればあり得なくもない。だが、これが正解としておきたい。③では屋根のボールトスラブのコンクリート打設がこの段階で既に終っているのか判然としないが、打設前でも後でも答えは変わらない。

③の状態からどのように火の見櫓を建てたのだろう・・・。クレーンで吊り上げて、上下の柱の接合部を一致させて第三の山形鋼部材をあててボルト止めすればそれ程困難ではないだろうが、高さ16mの火の見櫓の建て方となると大型クレーンが必要だが、当時既にクレーンはあったが小型で大型クレーンはまだなかったのでは。小型クレーンも全国にどのくらい普及していたのか、私は知らない。人力で建てたとなると、その方法が全く分からない。この時の様子を覚えている人が見つからないかなぁ。


柱脚の固定状況 コンクリート基礎から立ち上げた山形鋼の短材(呼び名は分からない)の外側にやはり山形鋼の柱脚を重ねて計8本のボルトで接合している。このような固定を時々見かける。


 


撤去された火の見櫓の半鐘が保管されていた

2022-09-04 | A 火の見櫓っておもしろい

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松本市寿小赤 撮影日2012.07.27 控え柱付き火の見梯子


 しばらく前に濱 猪久馬という鋳物師の名前を知り、改めてこの半鐘の写真を見て、縦帯に濱 猪久馬と刻字されていることに気が付いた。だが、上の写真では名前以外の文字が判然としなかった。

画像データを拡大してみた。名前の上に二列ある小さい文字の右は大正四年と読めたが、左は判読できなかった。名前の右横の文字は上から松本市まで読めたがその下の三文字は読めなかった。ならば、現地で確認しようと7月26日に出かけたが、既に火の見櫓は撤去されてしまっていた(*1)。

このことについて**残念としか言いようがない。火の見櫓はともかく、「半鐘は文化財」という認識があれば、どこかに保管されているかもしれないが、どうだろう・・・。**と書いていた(過去ログ)。

*****

最近になってこの半鐘が松本市寿の地元町会のある方のご自宅に保管されていることが分かり、今日(4日)お邪魔させていただいた。判然としなかった文字を確認することができた。


半鐘の寸法:高さ約57cm(竜頭まで) 直径約30cm




全ての文字が読める。大正四年の左は「卯仲秋」。名前の右横、松本市の下は飯田町。

これで鋳物師・濱猪久馬が鋳造した半鐘が3個見つかったことになる。


竜頭の詳細 この部分をフックに掛けて吊り下げている。


乳と呼ばれる突起の詳細 半鐘の表面は4本の縦帯によって4つに分割された乳の間にそれぞれ乳が8個ある。鋳物師によって乳の配列も形も違う。

感心を持って物を見れば、深い世界があることが分かってくる。機会があれば、鐘を鋳造するところを見てみたい。


*1 半鐘を保管されている方に伺った。2017年(平成29年)の秋、とのことだった。


「椎本」

2022-09-04 | G 源氏物語

「椎本 八の宮の死、薫中将の思い」

 いよいよ薫と匂宮の恋物語が動き出す・・・。

八の宮の姫君たちに興味を抱く匂宮(兵部卿宮 ひょうぶきょうのみや)は二月、初瀬の長谷寺参詣の帰りに夕霧が光君から受け継いだ宇治の別荘に宿泊する。同行のお供たちはそれぞれ好きなように遊んで一日過ごす。夕方になって奏していた琴や笛などの音色が風にのって八の宮の邸にも届く。昔の栄華を思い出す八の宮は娘たちの行く末を案じている・・・。**「宰相中将(薫)は、どうせなら姫君たちの婿にしたいようなお人柄だが、ご本人はそんなことは考えていらっしゃらないようだ。まして最近の軽薄な男たちとの結婚など話にもならないし・・・」**(112,3頁)と八の宮。

翌朝、八の宮から薫宛ての手紙が届いた。返事を書いたのは薫ではなく、匂宮。この辺り、この先の恋愛のこじれの暗示か。返事を届けるのは薫。薫に同行した人たちは八の宮邸の趣のある設えに惹かれ、古風で上品なもてなしに感動していた。そこへ一向に同行していなかった匂宮から姫君に宛てた手紙が届いた。

手紙に困惑していた姫君たち、年老いた女房たちに返事をお待たせするのは感じがわるいものですよと言われて、八の宮は中の君に返事を書かせた。**かざし折る花のたよりに山がつの垣根を過ぎぬ春の旅人(挿頭の花を手折るついでに、山賤(やまがつ)の垣根をただ通り過ぎただけでしょう、春の旅人であるあなたは)**(115頁)長女ではなく、次女に返事を書かせたこともこの先の展開に関係してくるのだろうか・・・。

その後も匂宮は姫君たちに手紙を送っている。八の宮が返事を書くように勧められて、中の君が書く。大君(お姉さん)は書かないのかなと思っていると、**大君は、こうしたやりとりには冗談でもかかわろうとしない慎重な人である。**(116頁)と、あった。

秋、久しぶりに宇治を訪ねた薫に八の宮は**「私が亡きあとは、何かのついでにこの姫君たちをお訪ねくださって、どうか見捨てられない者とお考えください」などと胸の内を話す。**(117頁)

深まる秋。死期を感じた八の宮は**「(前略)よくよく頼りになる人が現れない限り、うまい言葉に誘われてこの山里を離れてはいけませんよ。(後略)」と姫君たちに言い聞かせる。八の宮が二人の娘に長々と話すことばには説得力があって、確かにと思うが、その話全ての掲載は控える。その後、八の宮は念仏三昧にこもっていた山寺で亡くなってしまう。

看取れなかった二人は悲しみに暮れ、八の宮の死を耳にした薫もひどく気落ちし、残念にも思って泣いた。登場人物たちは本当によく泣く。匂宮からもたびたびの弔問がある。

八の宮の喪が明けた。**「(前略)父宮おひとりのご庇護に守られていたからこそ何事も安心して過ごしてきたけれど、心ならずもこうして生き長らえて、思いも寄らない間違いが少しでもあれば、そればかり心配なさっていた亡き父宮の御霊にまで瑕をつけてしまうことになるのでは」**(128頁)と大君はあいかわらず匂宮の手紙に返事を書かない。注など不要だが、思いも寄らない間違いとは男女の間違いのこと。ただ、薫とは手紙のやりとりをしている。男二人の印象が違うのだ。

年末に宇治を訪れた薫は匂宮の思いを大君に取り次ぎ、自分の思いもほのめかす。だが、大君は取り合わなかった。夕霧は匂宮に娘(六の君)を添わせたいと願っているが、匂宮にはその気がない。宇治の姫君にぞっこんなので。

この帖にラスト、夏。**風が簾を高く吹き上げたらしく、「丸見えになってしまう。その御几帳をこちらに押し出して」という人がいるらしい。馬鹿なことを、と思いつつもうれしくて、中納言はのぞいてみる。**(142頁) そう、八の宮を偲び、宇治を訪れた薫は美しい姉妹をのぞきみてしまった・・・。

この帖は現代の恋愛ドラマに仕立ててもおもしろいかもしれない・・・。


1桐壺 2帚木 3空蝉 4夕顔 5若紫 6末摘花 7紅葉賀 8花宴 9葵 10賢木 
11花散里 12須磨 13明石 14澪標 15蓬生 16関屋 17絵合 18松風 19薄雲 20朝顔 
21少女 22玉鬘 23初音 24胡蝶 25蛍 26常夏 27篝火 28野分 29行幸 30藤袴
31真木柱 32梅枝 33藤裏葉 34若菜上 35若菜下 36柏木 37横笛 38鈴虫 39夕霧 40御法
41幻 42匂宮 43紅梅 44竹河 45橋姫 46椎本 47総角 48早蕨 49宿木 50東屋
51浮舟 52蜻蛉 53手習 54夢浮橋

 


♪ おせどに 木の実の 落ちる夜は

2022-09-03 | A あれこれ

 えんぱーく(塩尻市市民交流センター)で行われた民俗学者・学習院大学教授の赤坂憲雄さんの講演「民俗知を掘り起こすために」を聴いた(*1)。

*****

♪ しずかな しずかな 里の秋 おせどに 木の実の 落ちる夜は
     ああ かあさんと ただ二人 栗の実煮てます いろりばた

「せど」という言葉が童謡「里の秋」の1番の歌詞(作詞:斎藤信夫)に出てくる。「せど、背戸」は家の裏口、裏門。または家の後ろの方、裏手などという意味だと説明されている。

講演で赤坂さんはこの「せど」という言葉を取り上げて、民俗学的に意味を説明された。まず紹介されたのが寺山修司が作詞した「浜昼顔」という歌。講演会場に五木ひろしの歌声が流れた。

♪  家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ
   ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径(みち) 日ぐれ径

ネット検索で見つかる「浜昼顔」の歌詞には瀬戸という漢字があてられている。赤坂さんはこの歌の「瀬戸の赤とんぼ」は野口雨情が作詞した「信田の藪(しのだのやぶ)」の歌詞、お背戸のお背戸の赤蜻蛉 狐のお話聞かせましょう を明らかに意識しているという見解を示された。

五木ひろしは「せとの赤とんぼ」と歌っているけれど、美空ひばりは、せとではおかしいと、「せどの赤とんぼ」と歌っているとのことだった。ネットで美空ひばりの歌を探して聴くと、確かに「せどの赤とんぼ」と歌っている。

寺山修司が書いた 家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ とはどういう意味なのか・・・。

背戸(せど)には人に知られたくない秘密、というような意味があるとのこと。ネットで調べると**会津地方では家の中のプライベートな空間、お客様に見せない部分といった意味合いで使われることが多いですが**という記述があった。赤坂さんは「せどのぞき」という言葉があることを紹介して、裏側から訪ねられることをいやがるという意味だと説明をされた。訪問したことを他人に見られたくないので背戸に廻るということもある、とも。

「浜昼顔」の2番の歌詞には人妻と恋に落ちた男の寂しさが綴られている。この歌の作曲は古賀政男。哀愁を帯びたメロディーがいい。ぼくはこの歌を知らなかったが、一人旅の鄙びた宿で酒でも飲みながら聴いたらきっと涙するだろう。そうか、この歌は秘密にしておかなければならない、人妻との恋の歌なんだ、だから瀬戸(背戸)の赤とんぼなんだ・・・。

カルメン・マキが歌ってヒットした「時には母のない子のように」の歌詞も寺山修司が手掛けた。ふたつの歌詞に共通するのは「根なし草の寂しさ」だろうか。

話が横道に逸れるが、♪  水にただよう浮草に 同じさだめと指をさす と始まる牧村三枝子の「みちづれ」も根なし草の寂しさを感じている男女を歌っている。

取材時に発せられる常民の言葉を手掛かりに民俗的世界にアプローチし、深く思索する。民俗学については何の知識もないが、どうやらそのようなことから入り込む世界らしい。

講演後の質疑応答も含めて2時間。有意義な時間だった。

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読書の秋、講演会場で赤坂さんの著書『武蔵野をよむ』を買い求めた。


講演会の定員は60人、その中に高校の同期生が女性ばかり3人いた。予期せぬ事だった。講演会終了後、会場外で彼女たちと30分程雑談した。日常の中の非日常とも言えるようなひと時だった。

「本の寺子屋  講演会」、次回は9月18日(日)に東京新聞編集員・加古陽治さんの講演「文学取材の流儀」。


*1 8月28日(日)午後2時から4時まで


 


上田市芳田の火の見櫓

2022-09-02 | A 火の見櫓っておもしろい


1389 上田市芳田 中吉田公民館 4柱4〇型たばね脚 撮影日2022.08.31

 上田市には吉田地区と芳田地区がある。紛らわしい。櫓に取り付けてある「中吉田分団」という切文字を見て、ここは吉田なのかと思った。




櫓全形写真、上のアングルでは踊り場が分からない。下のアングルだと、櫓の一面に張り出した見張り台が分かる。全形写真でも何を写したいのか考えて相応しいアングルを探したい。常に反省。


見張り台のすぐ下の踊り場(カンガルーポケット)にも半鐘を吊り下げてある。カンガルーポケットの形が好い。方杖もデザイン的に効いている。


交叉ブレース交点の輪っか(リング式ターンハックル)に中吉田分団の切文字が取り付けられている。上田市内では他にも分団名が取り付けられた火の見櫓がある。


オーソドックスなたばね脚。たばね脚は概して形が整っている。2本の柱の内側に内接させるために半円形のアーチ補強材を用いるという条件があるからか。



(再)上田市芳田 町吉田分団の文字が取り付けられた火の見櫓 

たばね脚の直線部分が長い。


2022年8月31日に観た火の見櫓の掲載終了。再見のものは掲載を省略した。



上田市上野の火の見櫓

2022-09-02 | A 火の見櫓っておもしろい


1388 上田市上野 3柱3〇型L3(ロング三角)脚 撮影日2022.08.31

 群馬県利根郡みなかみ町、須川川上流域の入須川の奥平地区で火の見柱(魚骨タイプ)を観てから、往路とほぼ同じルートを辿って吾妻郡嬬恋村から長野県の上田市真田町に入った。奥平から群馬長野県境の鳥居峠(国道144号)まで約88kmだった。この辺りが自宅と現地との中間点になる。群馬県内の方がだいぶ距離があるような印象だが、不慣れな道路を走行したからだろう。

*****

まだまだ初めて見る火の見櫓があちこちに立っている。上田市上野でこの火の見櫓が目に入ったので立ち寄った。東信地域では4柱型は全体の8割強を占めている。この3柱型は少ない。櫓のブレースは等辺山形鋼片掛。


外付け梯子から見張り台に入る所の様子。手すりに開口を設けている。手すりを左右に分断するタイプが大半だと思われるが、手すりが繋がっているのでこの方が安全だろう。柱にも手すりを付けているが、このような事例は多い。


脚はロング三角型。