昨日は、はじめての歯医者へ。
通い慣れた歯医者さんが、やめてしまい。
結局近場の別の歯医者さんへ行くことに。
それから、週4回ほど開く画廊へ、
こちらは、都会の画廊を畳んで、移り住んだ方です。
明治時代にアメリカに渡った女性に関する企画展ということで、
資料を購入して帰る。
さてっと、関係ない人が結びつくというのは、面白いですね。
たとえば、内村鑑三を通じて山本七平と小林秀雄が結びつく。
そういう共通項を通じて、パラパラとひらいて読める楽しみ。
正宗白鳥著「内村鑑三・わが生涯と文学」(講談社文芸文庫・1994年)
小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」(文藝春秋・昭和58年)
山本七平著「小林秀雄の流儀」(新潮社・昭和61年)
まあ、結びつきは、おいといて、ここには
小林秀雄の「正宗白鳥の作について」から
当時のジャーナリズム問題をとりあげている箇所を引用しておきます。
「 ところで、内村に『基督教徒の慰』を書かせた切つ掛けになったものは、
何であつたか。周知の如く、当時『内村不敬事件』として大騒ぎになつ
た事件である。正宗氏の観察によれば、この際、暴威を揮つたのは
ジャーナリズムの動きであつた。第一高等中学校での教育勅語拝読の
式場に於ける教員内村鑑三の不遜と見られた態度が、
本願寺系統の雑誌に、針小棒大に書き立てられ、これが
諸新聞雑誌に転載されて、騒ぎは大きくなつた。
事の真相を顧みぬ軽薄な言論の勢ひが、
内村の一生の運命を決めて了つたのである。
内村は職を失ひ、国賊の家は、学生達の投石を受け、
近親の人達も世間を憚つて、彼を離れた。
周囲の迫害に悩まされて発病した内村を看護する者は、
母親と事件の数ケ月前に結婚した夫人だけといふ有様となつたが、
夫人も心労に堪へず逝去した。
世論は、内村の私一個の事件を、
基督教対国家皇族といふ一般的事件に造り上げ、
内村の生活を急襲したが、身方の筈の基督教徒も、
内村は政府当局と妥協した恥知らずといふ
主張を造り上げて敵に廻つた。 」
( p47 小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」 )