和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

西條八十の夏休み。

2023-07-31 | 思いつき
藤田圭雄著「日本童謡史1」(あかね書房・昭和60年)に
西條八十が「学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ」
という箇所があります。

「八十の死の直前、昭和45年7月10日付の手紙に、
 『・・私の父は富豪でしたが非常な倹約者で、
  少年時代海も山も知りませんでした。

  14歳で父に死なれその翌年か翌々年あたり私は旅行というものを
  初めてし、保田へ行ったのです。

  そこに渋谷未亡人が大きな邸宅を構えてゐました。
  軍医の奥さんといふ話でした、最初の年は、私と妹とを
  食客に置いてくれ、なんの宿泊料も請求しませんでした

  ・・・・それから夏になるときまって保田へ行きました。
  ・・その間に弟も行って厄介になったらしいのです。・・・

  24歳で結婚してからは近くの漁師の家に泊りました。
  だから・・私の海の作品は房州海岸が基調になってゐます。

 もっともその間に一家で片瀬へ避暑したことがあり・・・
 そのころを想ふとなつかしさが一杯です。・・・・     」
                      ( p151~152 )


この文の少し前には、正木直彦の『十三松堂日記』の、
明治44年8月11日の箇所からの引用もしてありました。

「『 8月11日、金曜日好晴 我等下女まで一行九人
   大行寺新発意小久江勇策 渋谷未亡人、渋谷の客人・・・
   西条十一、隆治、フキ子の兄弟三人・・・・
   都合同行20人にて羅漢寺鋸山に登山 』

  という記録がある。明治44年といえば、
  八十は20歳で、早大へ再入学した年だ。

  文中の『大行寺』というのは、現在、
  房総西線保田駅のすぐ前にある日蓮宗の寺だ。・・  」(p151)


最近の当ブログの題名は、なんだかんだ、
暑気払いの思いがムクムクとでるせいか、
『 夏休みシリーズ 』めいてきました。



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漱石の夏やすみ。

2023-07-23 | 思いつき
夏休みといえば、思い浮かぶのが
高島俊男著「漱石の夏やすみ」(朔北社・2000年。ちくま文庫・2007年)
単行本のカバーの折り返しには、こうあります。

「『木屑録』は、漱石が23歳のときに書いた房総旅行記である。
 これまでも存在は知られていたが、『漢文』で書かれているために、
 読まれることは少なく、まして味わわれ評価されることは稀な作品であった。

 本書は自在な訳文によって、『木屑録』本来のすがた、味わいを
 初めて明らかにしただけでなく、執筆の契機となっている
 漱石と子規の、文章を通しての友情に説き及ぶ。・・・   」

はじまりは、こうでした。

「『 木屑録(ぼくせつろく) 』は、
  夏目漱石が、明治22年、23歳のときにつくった漢文紀行である。
  漱石は、第一高等中学校の生徒であった。
  このとしの夏やすみを、漱石は旅行ですごした。 」

漱石の海水浴も記されております。

「 房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。
  日にすくなくも二三べん、多くは五たびも六たびも、

  海のなかにてピョンピョンと、子どもみたいにとびはねる。

  これは食欲増進のためなり、あきれば熱砂に腹ばひになる。
  温気腹にしみて気持よし。

  かかること数日、毛髪だんだん茶色になり、
  顔はおひおひ黄色くなつた。

  さらに十日をすぎて、茶色は赤に、黄色は黒にと変化せり。
  鏡をのぞきこれがおれかと、アツケにとられたり。     」
                   ( p22  単行本 )

もう一箇所だけ引用しておきます。

「 ともに旅せるはわれを入れて五人、
  風流を解するやつは一人もない。

  酒を飲んではわめくやつ、大飯食って下女をたまげさせるやつ。
  ふろよりあがれば碁か花札で、ヒマをつぶすがおきまりなり。

  しかるに、我輩一人のみ、仲間にはいらず沈思黙考、
  うめきを発して苦悶のありさま。連中みなこれを笑ひものになし、

  こやつ変人なりと言ふもわれ顧慮するところなし。
  知るや知らずやかの邵青門、脳中に文を練るときは
  無限の苦しみある者に似、その文成るや歓喜きはまり、
  ・・・・                     」(p25単行本)


ちなみに、昨日の
宮沢賢治の夏休みは、農学校教師のころ。
夏目漱石の夏休みは、生徒のころでした。
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事実は小説より『宮沢賢治』

2023-07-17 | 思いつき
日本図書センターの「近代作家研究叢書86」(1990年)が
森荘巳池著「野の教師 宮沢賢治」でした。復刻版で函入り。
目次のつぎをひらくと、
右ページに「花巻農学校精神歌」の歌詞。
左ページには、川村悟郎作曲のその楽譜。

本の最後の方には、「ある対話」というページがありました。
そこに、堀籠文之進氏と著者の森氏との対談がありました。

森】 賢治が、学校にあらわれたときの感じはどうでした。

堀籠】 洋服を着て丸坊主でした。・・・
    宮沢さんは、なかなか物固くて、
    いってみれば和尚さんのような感じでした。・・・

    宮沢さんが、岩崎・・さんのあとをついで、
    化学、数学、英語、農業実習、稲作。
    わたしは、農業、園芸、英語など・・・ ( p193~194 )



堀籠】 古い校舎では式があると、花巻女学校からオルガンを借りてきました。
    ・・そのオルガンを年を越しても返さないで、
    宮沢さんもひいていましたが、オラホ(自分の方)で使うから
    返してくれと催促されてたりしました。

    賢治さんから、かたい感じがなくなったのは、
    オルガンをひいたり、髪を伸ばしてポマードをつけたり、
    作曲をしはじめてからです。

森】  学校で歌ったり作曲したりしたのですか。

堀籠】 やっておりました。精神歌の作曲者川村悟郎さんは、
    高等農林の生徒で・・悟郎さんは、バイオリンをひきました。

    借りたオルガンは職員室においてひきました。
    春の休みで川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、
    ああでもない、こうでもないと作曲をしておりました。

    ですから私たちは、できあがらないうちから、
    精神歌をきいていたわけです。題は、はじめはありませんでした。
    
    曲ができ上りますと、放課後、音楽の好きな生徒をのこして
    歌わせました。畠山校長もいい歌だと感心していました。

    はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
    3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
    卒業式には、りっぱに歌いました。・・・・

    題はあとで『精神歌』とつけました。
    油がのったとでも言うのでしょうか。
    宮沢さんは応援歌、行進歌、農民歌、剣舞の歌など、
    どんどん作曲して生徒に歌わせましたので、

    学校は、すっかり変わってしまって、
    おどろくほど生き生きとなってきました。
    生徒はよろこんで精神歌や応援歌を歌いました。 ( ~p193 )



この堀籠氏の精神歌の箇所は、
堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)や
境忠一著 「評伝 宮澤賢治」(桜楓社)に
部分引用されていたので、気になっておりました。
今回、対話全体が読めて私はよかった。
たとえば、そのあとに、森氏が語っているのでした。



森】 県下の中等学校の陸上競技大会が花巻で開催されたことがありましたが、
   わたしたちも森岡中学校の応援団になって、その大会に出かけました。
   会場には、どこの学校の応援団もきていてさかんに
   校歌や応援歌を歌っているのをきくわけですが、

   ひときわ目だって、変った歌を歌う応援団がありました。
   生徒が少ないくせに意気天をつく一団でした。
   これが花巻農学校だったのです。
   あまり変った歌なので今でも記憶にあります。

   ・・・精神歌も、いまにして思えばたしかに
  『精神歌』と題をつけるほかにない感じの歌でした・・・ ( p198  )


はい。こう語っている森氏が
ご自身の本、森荘巳池著『野の教師 宮沢賢治』の
はじまりに、『精神歌』の歌詞と楽譜とを置いていたのでした。
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賢治の『マコトノ草ノタネマケリ』

2023-07-12 | 思いつき
紀野一義が、詩集『春と修羅』の『序』を
引用して、指摘されている箇所があります。

「 『 これらは二十二箇月の
    過去とかんずる方角から
    紙と鉱質インクをつらね
     ・・・・
    ここまでたもちつづけられ・・  』

  てきたという。この『序』の書かれた
  大正13年1月20日から通算して二十二箇月といえば、
  大正11年3月20日ということになるが、
  このあたりは年譜を見ても特に注目すべきことはない。

  ただ、この大正11年の1月に、『屈折率』『くらかけ山』
  など、『春と修羅』第一集の詩作が始まっており、
  童話では『水仙月の八月』が書かれ、
  11月には妹とし子が死んでいる。・・・  」
       ( p18 「賢治の神秘」佼成出版社・1985年 )


はい。堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)の
大正11年2月に
「 農学校のために精神歌を作詞、川村悟郎が作曲をした。
   ・・・・・・

  はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
  3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、卒業式には、
  りっぱに歌いました。校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように
  言いましたが、宮澤さんは・・遠慮して校歌にはしませんでした。
    ―――堀籠文之進談 ・・・         」( p162~163 )


 はい。みんなで卒様式に歌ったとあります。
 はじめて、みんなで歌った時が、校歌の歌い初めだとすると、
 なんだか、私の思いつきは、『春と修羅』の『序』は、
 賢治の頭のなかに、校歌のことがあったのじゃないのか?
 ということでした。

 ちなみに、精神歌は、4番まであり、
 その4番の最後の2行は

 『 ケハシキ旅ノナカニシテ
   ワレラヒカリノミチヲフム 』 とあります。

 うん。これじゃ、校歌にしてくれという校長先生の頼みを
 すんなり了承するわけにはいかない言葉の気がしてきます。

もうひとつ、新潮文庫の『注文の多い料理店』には、
天沢退二郎の文のなかに、大正13年12月1日発行の
『イーハトヴ童話注文の多い料理店』の広告ちらしが引用されています。
「売れ行きは芳しからず、この1冊で終りとなった。その広告ちらしに
 掲載された次の文章は、まちがいなく賢治自身の執筆とみられ、
 重要な文献なので全文を引いておく。  」( p335 新潮文庫 )

 この広告ちらしのなかに、こんな箇所がありました。

「 この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。・・・
  この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。 」

はい、このあとに4か条書かれているのですが、ここでは最初の箇所を引用。

 「 🈩 これは正しいものの種子を有し、
     その美しい発芽を待つものである。・・・・  」


うん。ここで宮澤賢治が作詞した『精神歌』の1番が思い浮かびます。

「 日ハ君臨シカガヤキハ
  白金ノ雨ソソギタリ  」

1番は4行ありました。このあとの最後の2行はというと、
 
「 ワレラハ黒キ土ニ俯シ
  マコトノ草ノタネマケリ  」


はい。どなたかが言っておられるかもしれませんが、
それはそれで、かまわないわけですが、
ここで、私が指摘してみたいのは、
『精神歌』と『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』とは、
心象スケッチのかかせないつながりがあるのだろうなあ。

そんなことを思いながら、ひとりユーチューブで精神歌を聴きます。




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ああでもない、こうでもない。

2023-07-11 | 思いつき
宮澤賢治の年譜をみると、

1921(大正10)年25歳
   12月3日稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。
1922(大正11)年26歳
   2月 農学校のために精神歌を作詞
     川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲した。

これは、中公文庫「年譜宮澤賢治伝」堀尾青史著・1991年から引用。
その次のページには、堀籠文之進談として、こうあります。

「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
 こうでもないと作曲しておりました。ですから私たちは、
 できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。

 題ははじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
 音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。

 畠山校長もいい歌だと感心していました。
 はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで
 練習していましたが、3月の式に間に合うように、
 全部の生徒に歌わせ、卒業式には、りっぱに歌いました。

 校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
 宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、遠慮して校歌にはしませんでした。
 ・・・・           」( p163 文庫 )


ちなみに、ちくま文庫「宮沢賢治全集4」には
「農学校歌」と題して掲載されております(p318~319)
これは、文庫の間違いなのでしょう。
ユーチューブで「精神歌」と検索すると、その歌が聞けます。
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挨拶はたいへんだ。

2023-07-05 | 思いつき
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬舎新書・2023年6月)。
この新書を引用したときに、気になっていた箇所がありました。
まずは、そこを引用。

「・・さらに、重要な役割を持った語を後ろに配するという
 一貫性のある文の構造をしていましたね。
 そして、常に相手の遇し方に気を配り、敬語という特別な
 言語形式を持っていました。・・・          」(p170~171)

はい。『重要な役割を持った語を後ろに配する』というのは、
現在の日本語が、いちばんに変化している箇所ではないかと、
そんなことが思い浮かんだのでした。

うん。現在というと、いろいろとありそうなので、
ちょっと、ここは変化球で、思い浮かんだ本をとり出してくる。

丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社・2001年。後に文庫)。
この最後に、井上やすし氏と丸谷さんの対談「スピーチでできること」
が載っていて、印象深い箇所があったのでした。

文壇の授賞式のことを語って、一読笑って印象に残ります。

井上】 あれは語り草です。

丸谷】 「私は文学者とはどういうものかということを考えるんです。
     一昨日、ある作家の追悼会があって、私は出たんでありますが」
   ではじまって。

    「いや、待ってください。一昨日じゃなかったかもしれない。
     一昨々日だったかもしれません。いや、待ってください。
     昨夜だったかもしれません」(笑)。

   聞いてるほうとしては、どっちだっていいわけよね。
   それなのに、ものすごく厳密を期すんですね。

井上】 そんなことを期してどうするんでしょう。

丸谷】 あれはおかしかったなあ。

井上】 あまりの長いスピーチのために、受賞者の一人が、
   『 いいかげんにしないか 』と怒鳴った。

丸谷】 そうそう。あの一言で、彼はあの晩、隋一の人気だったでしょう。

井上】 スピーチを聴いている人たちではなくて、
    受賞者の一人が言うんですから、すごい。

丸谷】 日本の昔の文学者みたいですね。

井上】 そうですね。

丸谷】 直情径行だから。でもあれは出席者全員の声を代表してたな(笑)。
    詩人たちの会というのは長いのよね。

井上】 普段、短く書いているからでしょう(笑)。

丸谷】 高見順賞のパーティなんて長い。
    それから、受賞者の挨拶というので、
    だれそれに感謝します。だれそれに感謝しますっていうのを、
    はじめから終りまでしゃべる人がいるでしょう。
    20人も30人もに対して感謝する。
    それで終りなのね。

井上】 ハハハハハ。

丸谷】 感謝される対象と感謝する人との共同体だけの問題ですよね。

井上】 そうですね。

丸谷】 さっき井上さんがおっしゃった、
    その場にいる人間の共同体は、
    どっかに置き去りにされてるわけです。

井上】 そうです。
   
     ・・・・・           ( p222~223 単行本 )


日本語の歴史からみて、
『 さらに、重要な役割を持った語を後ろに配する
  という一貫性のある文の構造をしていましたね 』

はい。現在のTPOに即した、日本語をつかうには、
うん。現在の人がその都度、挨拶の場で考える?


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百年前の賢治

2023-06-26 | 思いつき
大正12年(1923年)の関東大震災から、今年が百年目の2023年。
そういえば、大正10年12月に宮沢賢治は岩手の稗貫農学校教諭になっています。
関東大震災の前には、賢治はどうしていたのだろうか?

大正11年3月頃、『精神歌』『黎明行進歌』『応援歌』など作り生徒と歌う。
大正11年11月、トシ没(24歳)『永訣の朝』『無声慟哭』群の詩を書く。
大正12年7月~8月、生徒の就職依頼のため青森、北海道経由樺太旅行。
詩『青森挽歌』『オホーツク挽歌』を書く。

年譜によると、当時の気象状況も載せておりました。
大正10年。大暴風雨で県下被害甚大
大正11年。この年も二度にわたり大暴風雨の被害甚大。
大正12年。この年、60年来の大風雪。
大正13年。この年、旱害のため県下五割減収。

    ( 宮澤賢治年譜 原子朗 )


大正12年5月には、稗貫郡立稗貫農学校が、花巻農学校となり開校式。

山折哲雄氏の文によれば、

「大正10年から15年までの期間、賢治は花巻農学校の教師をしていた。
 『春と修羅』をはじめ、つぎつぎと詩の大作を書いていたときである・・」

「 賢治は昭和元年に花巻農学校を退職して、花巻町の下根子で自炊生活を
  はじめた。そして『農民芸術概論』を書き、『羅須地人協会』を設立 」

   ( p14~16 「賢治の風光」佼成出版社・1985年 )

山折哲雄著「わが人生の三原則」(中央公論新社・2013年)の
本の最後に、賢治と中也とを並べている箇所がありました。
そのはじまりは、「風土と詩人」

「私(山折哲雄)の故郷は岩手県の花巻市です。
 宮澤賢治の生家から二、三百メートル離れたところに実家があります。
 両親などから生前の賢治について、よく話を聞かされて育ちました。
 ・・賢治の作品には子どものころから親しみ、自分なりに読んできました。」

「・・・賢治もまた何度か上京しました。
 しかし身体が強健でなく、生計を立てる手段もなかった賢治は、

 その都度、故郷に引き戻されてしまう。故郷脱出を諦めざるを得なかった。
 つまり異文化の世界へ水平移動をすることができなかったのです。

 その結果、水平方向を塞き止められた賢治のイマジネーションの奔流は、
 垂直方向の宇宙の高みへと翔け昇っていった。
 賢治の想像力の本質を、私はそう解釈しています。  」(p164)




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カードシステムの入り口。

2023-06-18 | 思いつき
梅棹忠夫著「知的生産の技術」では、
はじめて読んだ際に、カードシステムが印象に残りました。

清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書・1959年)をひらくと、
そのカードシステムへと、たどり着くまでの準備段階が、
分かりやすく語られているような、そんな気がしました。

そう思える箇所を引用しておくことに。

「・・この最初のイメージや方向は大切にしなければいけない。
 是非、これは紙にハッキリ書きとめておくことにしよう。
 
 書きとめること自身、そう楽な仕事ではない。
 しかし、書きとめるという小さな作業によって、
 曖昧なものが明確になることが多いのだ。   」(p19)

「・・ここで肝要なことは、
 こういう観念や思いつきを大切にするということである。

 真面目に文章の修業をしようというのなら、
 観念や思いつきをトコトンまで大切にしなければいけない。

 直ぐ紙に書きとめておかねばいけない。
 書きとめるとなると、これもなかなか容易ではないが、
 何としても、ハッキリと文字にしなければいけない。

 これを大切にしないで・・・・・嘆くのは無意味である。 」(p20)


うん。その次も、この機会に引用しちゃいます。

「観念や思いつきを大切にするというのは、
 それを深く考えること、書物などでよく調べることである。

 ・・・短文として最後的な仕上げをする必要はない。
 
 ・・・独立の短文として完成してしまわぬ方がよいであろう。

 ・・・それが進行する過程で、二つの新しい事実が生まれてくる・・
 
 一つは、今まで考えもしなかった観念や思いつきが心に浮かんで来る。
 これも大切にしなければいけない。考えて、調べて、部分品に作り
 上げねばいけない。

 もう一つは、このような部分品が出揃って来ると、
 最初のイメージ自体が変化して来る。
 曖昧だったイメージが明確になって来るし、
 貧しかったイメージが豊かなものになって来る。

 ところが、イメージが明確な豊かなものになって来ると、
 それにつれて、新しい部分品が必要になって来る。 
 また新しい思いつきが何処からともなく現われて来る。

 逆に、今まで大いに役に立つだろうと思って、一生懸命に
 仕上げて来た部分品が不要になって来ることもある。・・・  」(p21)


ふう。私はここまでで満腹。ここまでにします。
これは第一章「短文から始めよう」からの引用です。
本文はここから、つながってすすんでゆくのでした。

何かを書かなくちゃいけなくなった時、あらためて、
またの機会に、つづきを読みすすめられますように。


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宮沢賢治と時代。

2023-06-17 | 思いつき
山折哲雄氏の文(「賢治の風光」佼成出版・1985年 p14)に、
「 大正10年から15年までの期間、賢治は花巻農学校の教師をしていた。」
とありました。

するってえと、関東大震災の大正12年は、賢治は花巻農学校の教師だった、
ということになります。はい。今年は関東大震災から100年目でした。

また、山折哲雄著「絆 いま、生きるあなたへ」(ぽぷら社・2011年6月)
には、こんな箇所があったのでした。

「 賢治が生まれたのが明治29年8月、
  そのわずか二か月前にマグニチュード8.2とされる
  『 明治三陸地震 』が発生しました。その直後の
  大津波で22000人が犠牲になったことを思いださずにはいられません。

  また誕生から4日後には、岩手秋田県境を震源とする
  内陸直下型の『 陸羽地震 』(M7.2)がおき・・・

  ・・賢治がわずか37歳で短い人生を閉じた半年ほど前の
  昭和8年3月3日には、約3000人の死者、行方不明者をだした
  『 昭和三陸地震 』(M8.1)がおきていたのです。

  加えて昭和5年から9年にかけて、『 東北 』の地は
  たびたび大凶作と大飢饉に見舞われていました。・・   」(p52~53)

関東大震災から100年目に、思い浮かべるのは、
宮沢賢治と、地震・津波・凶作・飢饉との関連。
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