和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

二が書け、三が書けて。

2024-12-24 | 重ね読み
庄野潤三全集の各巻の最後に阪田寛夫氏が
『 庄野潤三ノート 』を書いております。

庄野潤三の『静物』は、読んだことがないのですが、
私は読まい前に、『 静物 』を語りたくなりました。

庄野潤三著『 文学交友録 』(新潮文庫)の
佐藤春夫の章に、それはありました。
それは昭和34年。雑誌に一挙掲載の長い小説を書く約束をして、
『 なかなか書くことが決まらなくて難渋した 』(p186)状態が
半年以上続いたことに関しての記述に、佐藤春夫氏が出て来るのでした。
ある出版を祝う会に出席した庄野潤三は、佐藤春夫から声をかけられます。

「 この会で佐藤先生は私を見つけると、
  『 どうしているのか? 』と訊かれた。・・・・

  私が自分の現在の状態を報告すると、
  『 なぜ書けないのか 』と問いつめられた。
  私はどう答えたのだろう。
  書きたいことはあるんです。
  ただ、それがみな断片で、どういうふうに
  つなげてゆけばいいか分からなくて、書けないんです
  というふうにいったような気がする。
  佐藤先生は聞き終わると、

 『 そうか。それなら、
  書きたいことを先ず一、と書いてみるんだね。
  次に二、としてもう一つ書く。とにかく、書いてみるんだね。

  それからあとは、三、として次のを書く。
  四、として次のを書く。そこまで書いて、
  もし三と四を入れ替えた方がよくなると気が附けば、
  順序を入れ替えてもよし。そうやって、
  胸のなかに溜まっているものを断片のままでいいから、
  全部書いてしまうんだね 』

  そういうふうに話された。佐藤先生は、
  考え込んでいては駄目だ、ともかく書き出せ、
  といっておられるのである。それが私に分った。  
  私は『 有難うございます 』といって、
  お辞儀をして引き下った。・・・・・

  私は、実際、佐藤先生にいわれた通りに、
  先ず一、として、子供にせがまれて一緒に
  近くの釣堀へ出かける話から書いたのであった。
  そうしたら、道がひらけて、二が書け、三が書けて、
  話が( 不思議なことに )つながって行った。・・」(p187~p188)


え~と。庄野潤三全集には各巻の最後には、
阪田寛夫の『 庄野潤三ノート 』が掲載されておりました。
そこにこうあります。

「 このノートを書き始める前、ある日
  庄野さんの著書を本棚の右端から出版順に並べ直してみた。
  その時『 静物 』がずいぶん右の方に来たのに驚いた。
  私はもう少し真中寄りだと思っていたからだ。
  私の中には『 静物 』で漸く何かが定まったという気持があって、
  すべてがここに流れこみ、ここから発するように考えていたためだろう。
  知らない間に、私は庄野さんの全作品を『 静物 』の位置から眺め、
  『 静物 』の眼鏡で味わうようになっていたのかも知れない。 」
         ( p475 庄野潤三全集第3巻 )

そうして、どこから引用されてきたのか。
ここにも佐藤先生の助言が載せてあります。
ニュアンスが微妙にことなるので、こちらも引用しておきます。

「 ・・『 書きたいと思うことは幾つもありますが、
  みな断片になって続いて行きません。それで書き出せないのです 』

  『 それなら先ず書きたいことを1と番号をつけて書く。
    次に書きたいことを2・3・4・・・と書いて行く。
    途中で4が3より前に来る方がいいと思えば入れ替えればいい 』

  更に、書かないで書けないと考えるのは
  溝の所まで来て立止るようなものだ、
  『 先ずとんでみよ 』と言われた。
  ( 註「静物」1章を見よ )その後・・・『静物』を書き出すに当って、

 『 1・2・3・4・・・と書いて行くその置き方、
   一つから一つに移るアレが生命となった。・・・  』
 と庄野さんは言った。・・・・・             」
            ( p478 庄野潤三全集第3巻 )


はい。万事横着な私は、それじゃ『 静物 』から読もうと
読まない前から思うのでした。
さてっと、佐藤春夫先生は、どういうことを伝えようとしたのか?
そう思ったら、私は鶴見俊輔著『 文章心得帖 』(潮出版社)の
この箇所が思い浮かぶのでした。最後にそこからも引用して終ります。

「 これは文間文法の問題です。
  一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか、
  その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。
  その人のもっている特色です。
  この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい。・・・・

  一つの文と文との間は、
  気にすればいくらでも文章を押し込めるものなのです。
  だからAという文章とBという文章の間に、
  いくつも文章を押し込めていくと、書けなくなってしまう。
  とまってしまって、完結できなくなる。
  そこで一挙に飛ばなければならない。 ・・・・ 」( p46 単行本)


まだ、私は『 静物 』を読んでいないのでした。
ただ『 明夫と良二 』をさきに読んでいるので、
そこから錘りを下げてみるような気分でおります。

  
          


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うたって聞かせて頂いた。

2024-12-24 | 詩歌
本棚を作り、その空白の棚に、本を並べてゆく。
とりあえず、本棚が埋まった時点で、もういいや。

空白の棚に、本を詰めてゆく作業はワクワクしたのに。
いざ、本が並ぶと、あの本の上の棚には、何を置こう、
右隣・左隣の棚には何をとあれこれ思い描くのが終了。
まるで、空白の棚に、言葉を詰め込みすぎたような気分になる。


それはそうと、庄野潤三の語る佐藤春夫です。

庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をあらためてとりだす。
そこに、読まずにあった、第6章『 佐藤春夫 』をひらく。

『 詩をうたって聞かせて頂いた 』という箇所がある。
九州での学生時代に伊東静雄氏を訪ねる場面なのでした。

「・・・秋の試験休みに帰省して、堺の伊東静雄先生を訪ねた折、
 雑誌で読んだ佐藤春夫の『 写生旅行 』がよかったという話をしたら、
 伊東先生も読んでいて、二人で『 写生旅行 』をたたえたことがあった。
 もともと佐藤春夫は現代の文学者のなかで
 伊東先生が最も尊敬する人であった。先生の二畳の書斎で、
 春夫の詩集『 東天紅 』のなかから『 りんごのお化(ばけ) 』
 という詩をうたって聞かせて頂いた・・・・       」(p162)

この章のなかに、三島由紀夫も登場しておりました。
庄野潤三がはじめて雑誌に掲載された『 雪・ほたる 』の箇所でした。

「 三島由紀夫は『 雪・ほたる 』を読んでいて、
  人なつこく私に話しかけた。
  ご自分で気に入っているところを朗読して下さいという。
  自作を朗読するというようなことは気恥しいので、
  三島由紀夫が何度もねだったけれども、朗読はしなかった。 」(p175)

ここでは、『 気恥ずかしいので・・朗読はしなかった 』とあります。
庄野潤三の家族が、大阪から東京へ引越してきた際に歌がありました。

「・・越して来て一年半くらいたったころに、
 この子(長男)が佐藤先生夫婦の前で『 お富さん 』を歌った。

 そのころ流行(はや)っていた歌謡曲で、
 『 死んだ筈だよお富さん 』という歌であった。

 長男はこのとき三歳で、最後の『 ゲンヤーダナ 』というところが、
 『 ゲンヤーナヤ 』というふうになって、
 佐藤先生も奥さんもふき出された。

 ・・・先生は甚(はなは)だ興趣を覚えるというふうに
 この子を見守っておられたばかりか、歌に終ると、
 『 よく出来たね 』といって、賞めてくれた。・・・・
 
 ・・・・子供が『 お富さん 』を歌ったのは、
 このとき一回だけであったが、先生も奥さんも
 いつまでも覚えていて、その後、私たちの顔を
 見る度にその子のことを尋ねて下さった。

 『  小生、自然と赤ん坊とが一番好きです。
   人間の最も自然なものが赤ん坊なのですから
   当然の事かと思ひますが、人生いかに生く可(べ)き?は
   小生によれば赤ん坊の如(ごと)く生きよだと思ひます 』

  これは、戦後、先生御夫婦がまだ信州佐久に居られ頃に、
  先生から頂いた手紙の一節である。・・・・・
  草木や川や雲をめでるように、先生は子供をめでて居られた・・」

                         (p183~p184)
はい。『 明夫と良二 』などの作品で、
男の子が、唄いだす場面があることを、
その雰囲気が、印象深く残ったことを、
あらためて思い浮かべ反芻してみます。

この章ではさらに、
『 静物 』を書きあぐねている庄野氏に
佐藤春夫が語りかける場面があるのですが、
それは、次回のブログで取り上げてみます。


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