山本七平著「精神と世間と虚偽」(さくら舎)を本棚から取りだす。
本の帯に、『 山本七平の血肉となる本の読み方! 』とある。
以前パラパラこの本をひらき、読みたい本があり。
そこに紹介されてる、辻善之助を読もうと思った。
しかも、思うだけで、終っていたことを思いだす。
もう一度、スタートラインに立つような気分です。
まずは、その本を紹介している9頁ほどの文から引用。
『 ・・・・それは辻善之助博士の「 日本文化史 」(全七巻)と
「 日本文化史 別録 」(全四巻)である。
もう十数年前のことと思うが、仲のよい、しかし相当に
《 進歩的傾向 》があった友人に
「 あの本は、おもしろくて便利な本だ 」と言ったところ、
「 フン 」と少々軽蔑した面持ちで次のように言われた。
「 あの人は歴史学者じゃないよ、一昔前の、カビの生えた学者、
しかも史料学者にすぎない。史料学者なんで単なる
≪ 史料的もの知り ≫で、彼には学問としての歴史学がない 」
とのことであった。だが、私にとって興味深かったのはむしろその点で、
すなわち彼が「 フン 」と軽蔑したその点であった。 』(p144)
このあとの、山本七平の論の運び方は面白いのでした。
『 「一昔前」とか「カビが生えた」とかいえばまさにその通りである。 』
という地点から、辻善之助の著作の魅力を紐解いております。
『 ・・・大正10年から今日までの変転、それはまことに
誰も予測できないものであった。そして辻博士は、
予測できないことは予測できないとしている。
それが真に歴史を知る者の言葉であろう。
「 資本主義は必然的に・・・ 」とか、
「 西欧はすでに・・・ 」とか、
「 必ずや日本は・・・ 」といった言葉は一切ない。 』(p146)
先を急いで、気になった箇所を引用しておくことに。
『 結局、歴史上の何かを記すということは、
現代人に理解しうるような形で
『 史料選 』を提供することであり、
それ以上のことはできないし、また、
なすべきではないと思わざるを得なくなったという点で、
この本は私に最も大きな影響を与えたといえる。
その結果『 日本的革命の哲学 』であれ、
『 勤勉の哲学 』であれ、また・・・
『 現人神の創作者たち 』や『 洪中将の処刑 』であれ、
今の読者に理解しやすいような形で
『 史料 』を提供しただけなのである。
辻博士の『 日本文化史 』はそのように
人に考えさせる力を持つだけでなく、
すべての人に、何かを触発させるものを持っている。
これを通読して自分が興味を感じたところから史料に入っていき、
その史料を基にしてまた別の史料に入っていくという方法もとれるし、
またこれを通読して、大正時代には日本の歴史がこのように
講じられたという点で、その時代を探求することもできる。
また、漫然と通読しても、史料に裏づけられた
日本文化史を知ることもできるのである。・・・・ 』(p151)
はい。私といえば、この辻善之助博士の本を
腰を据えて読んでみたいと思ったことを思い出しました。
ただ、自分が腰を据えて読むことが出来ないタイプなのを忘れておりました。
すぐに興味はうすれ、腰も定まらず、ほかの本へと興味がうつっていました。
周回遅れでもいいから、もう一度このスタートラインへと立つように、
この9頁の文『 著者は語らず、史料をして語らしめよ 』をひらいています。
山本七平の本も読んでいない癖に、辻善之助の本を読めるのか心許ないけど、
まあいいや、周回遅れでもいいや、ここからはじめよう。そう思う一月です。