和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

益川敏英。

2008-10-26 | Weblog
ノーベル賞の記事を読んでいると、つい益川氏の言動に惹かれます(笑)。
欠点を語るところなどは、とくにね。
「苦手だったのは国語と外国語。大学院入試のドイツ語の答案は白紙だった。
それでも数学と物理のセンスが認められて見事合格した。院生時代は『勉強が一番楽しかった』といい、机に向かう際、癖でかんでいた左手の人さし指は、今も硬くなったままだ。」
(産経10月8日・社会面)
次の日の産経新聞には、講演で質問に答えた言葉が載っておりました。
「物理を好きになった理由を質問されると、『英語が嫌いだったから』とひと言。『テストの前日、物理や数学の教科書を読んでいる間だけは不安を忘れられた』と明かし、笑いを誘った。」
朝日の9日のインタビューでは
受賞スピーチは英語でしますか?という問に
「どうして英語でやらんといかんの?
 僕は英語はしゃべりません。英語でしゃべるなら遠慮します(笑)。」

東京新聞の8日の記事では、
小学校から高校までの同級生杉山茂雄さんの言葉が載っておりました。

「高校一年で大学入試用の問題を解くなど中高時代から『物理と数学は抜群の成績だった』。英語は得意でなく、『おれは日本語で論文を書いて、日本語で読んでもらう』と話していたことが強く印象に残っているという。」

向陽高で一緒だった田中正興さんの言葉
「『ガリ勉ではなく温厚な大器晩成タイプ』。腕力が強く、体育の授業では教諭が『やめろ』と言うまで何十回も懸垂を続けたことも。『うちは砂糖屋で、重い砂糖袋運びを手伝ったからね』と話していたという。」

東京新聞の社会面では、小林誠氏との研究の様子が書かれておりました。

「『新しいアイデアを思いついて小林君に持っていくと、
彼は実験例を挙げて『これは矛盾する』『これはあかん』と
全部つぶしちゃう」と益川さん。小林さんも
「考え方が違うと両方とも譲りませんから」と当時の激しい議論を振り返る。
・・・最終的に英語の論文を書いたのは小林さん。益川さんが『英語は極端に苦手』だったからだ。1973年に出たわずか6㌻の共同論文は、素粒子論の基本概念となった。」
コメント (1)
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余程偉い。

2008-10-26 | Weblog
出久根達郎著「百貌百話」(文春新書)。
その寺田寅彦の箇所に
「『天災は忘れたころにやって来る』は寺田寅彦の名言、と著名だが、寺田の著作にこの言葉はない。似たような言い回しがあり、弟子の中谷宇吉郎が要訳して広めたのである。」(p26)
これ、以前読んだのに、どこで読んだのか忘れてしまった言葉でした。
じつは、読売新聞の編集手帳(10月24日)のはじめに、この本の紹介文があったのであらためて開いてみて、ああ、ここにあったと気づいたのでした。
さて、コラム編集手帳は、こうはじまっておりました。
「何かしら問題が生じたとき、いろいろな人が解決法を考える。「『ドーデモイイ』という解決法のある事に気の付かぬ人がある」とは寺田寅彦の言葉という。作家、出久根達郎さんの著書「百貌百言」に教えられた。麻生首相が毎晩のようにホテルの高級バーなどに通っていることが庶民感覚にそぐわないと、このところ一部で問題になっている。これも解決法『ドーデモイイ』の例かも知れない。要は国民本位の政策が立案、実行できるかどうかが評価の分かれ目で、家で味噌をなめつつ酒を飲めば妙案が浮かぶものでもなかろう。首相は手銭での飲食と説明している。バー通いをやめ、その分のお金が麻生家の通帳に積み上がったからといって喜ぶ庶民もいまい。・・・・」

ところで、出久根氏のこの新書に引用されている寺田寅彦の言葉はというと

「ある問題に対して『ドーデモイイ』という解決法のある事に気の付かぬ人がある。何事でもただ一つしか正しい道がないと思っているからである」(p27)

ここから、『ドーデモイイ』連想。
内藤湖南著「先哲の学問」(筑摩叢書)というのがあります(どこにあったかなあ、と捜していた本でした。ちょうど本棚の隅にあったのを見つけたところでした)。その中に「大阪の町人学者富永仲基」という文があります(この本は、講演をまとめたもので読みやすい)。
その中にこんな箇所があったのでした。
【 『異部名字難必和会』の原則 】
「これはどうかすると今日歴史などを研究する人でも、この原則の尊いことを知らない人があります。これはどういう事かと申しますと、要するに根本の事柄は一つであっても、いろいろな学問の派が出来ますると、その派その派の伝える所で、一つの話が皆んな違って伝えられて来ると、それを元の一つに還すということは余程困難である。・・・それで富永は異部名字必ずしも和会し難しと言うて居る。つまり学派により各部各部で別々で伝えが出来て居るので、それを元の一つに還すことは出来にくいということを言い出したのであります。これは余程偉いことだと思います。
どうも歴史家というものは・・・・どれか一つ本当で、あとの残りは嘘だと、こう極めたがるのである。どれもよい加減で、どれが本当か分からぬと諦めるということが、どうも歴史家というものは出来にくいやうであります。・・ところが記録のある時代は、どうかするとそれを一つに極めることが出来ます。しかし記録がない、話で伝わって居ります時代のことは、どうしても極めにくいのです。そういう事は、いっそのこと思い切って極めない方がよいんですが、それをどうも皆んな極めたがるのです。その極めにくいということを原則にしたということは、大変えらいと思います。」(p72~73)

ちなみに最近読んだ松井高志著「江戸に学ぶビジネスの極意」(アスペクト)を開いてみますと、「知らざるを知らずとせよ、これ知るなり」というのがありました。
解説の最初はといいますと
「知らないことは、知ったかぶりをせず、知らないとはっきりさせなさい。知っていることと知らないこととの区別をつけることが、『知る』ことの始まりなのです、という『論語』にある有名な教え。」(p66)

う~ん。「無知の知」という土俵からはずれて、場外乱闘というイメージが
何やら浮かんできます。
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