タイトルは怖いらしい。
それで、新聞広告に掲載されなかったり。
それで、雑誌が休刊に追いこまれたりするらしい。
「新潮45」10月号の特集タイトルは「『野党』百害」。
その百害が押し寄せての「新潮45」休刊。
正論10月号に花田紀凱×西尾幹二の対談。
題して「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」。
うん。タイトルをつけるのも大変らしい。
その対談のはじまりを引用。
西尾】私の「文藝春秋」批判は、十年近く前からですよ。
花田さんが編集長だった時代の「WILL」2009年3月号に
「『文藝春秋』は腹がすわっていない」という文を載せて
もらったでしょう。あのとき、初めに我々二人の付けた
タイトルは、「文藝春秋は左翼雑誌か?」でしたね。
でも結局、ライターである私自身が迷い、また当時の
編集長も腹が据わってなくて(笑)、表紙に刷られたのは
「文藝春秋の迷走」という穏和しい題でした。
(p262)
こうはじまる、対談の中頃に、こんな箇所。
花田】・・もともと戦後、文藝春秋を再建した池島信平元社長が
いつも言っていたのは、「文藝春秋」の大きな役割の一つは、
朝日新聞とNHKと岩波書店をウォッチする、監視することだ、
ということでした。しかし、いつの間にか、今の文芸春秋社、
特に月刊「文藝春秋」は、先生がおっしゃるように
朝日新聞と同じようなことをやるようになってしまった。
・・・・それがどういうきっかけで、今のようになってきたか、
ひとつ言えることは、池島信平さんの下で育って、社長になった
田中健五さんが辞めたことですね。・・・
池島信平さんのそういう考え方をちゃんと受け継いだのは
田中健五さんだったんですね。池島さんは、田中さんに
「大世界史」を編集させたり、あるいは「現代日本文学館」
―――これは文藝春秋で初めて出した小林秀雄さん責任編集の
文学全集ですけれども―――を担当させたりして、
そういう文壇での人脈、学者の人脈を築かせたわけです。
たぶん意識的にやったんだと思いますけど、
それが「諸君!」につながっていくわけですね。
しかし、たまたま、田中さんは途中で社長を辞めざるを
得ないような事態になりましたよね。文藝春秋は
それ以来おかしくなったと思います。
ただ、これは私にも責任がある。
田中さんは、私が三代目の編集長をしていた
「マルコポーロ」の事件(注・ナチスのガス室をめぐる
記事でユダヤ人団体から抗議を受け、同誌が廃刊になった騒動)
で、辞めることになったわけですから・・・。
あの時、田中さんは辞める必要はなかったと思う。
今考えればね。
そこら辺から歯車が狂ってきたかなという感じがする、僕は。
(p268~269)
雑誌社の社長といえば、
産経新聞9月26日二面の見出し
「新潮社『新潮45』休刊」で、記事のなかに、
新潮社社長の佐藤隆信氏の謝罪談話が掲載されておりました。
さてっと、
2013年「新潮45」12月号に
田中健五氏が書いておりました。
題は「池島信平と『諸君!』の時代」。
そこでは田中さんが文藝春秋に入社したての頃
「ほかの三人の新人とともに、池島編集長の
すぐ傍らに座るよう机が配置された。・・・・
はたして、配属先も決まらぬ私たちの『教育期間』は、
何も教えない信平さんの傍らで徒に過ぎていった。
・・・教え諭すでも叱咤するでもない信平さんが
実は無類の『照れ屋』であり、先輩風を吹かせるのが
大の苦手であることを知るのは、もっと先の話である。
その先のことを書くのが、この小文の趣旨なのだが・・」
「諸君」創刊当時については、こう記されております。
「・・まったく予想もしなかった
大半の社員からの反対表明である。
『思想の如何を問わず、特定外部団体の機関誌をだすことは、
編集の自由と独立をみずから放棄することである』という
反対署名が提出されたことは、それまでの文芸春秋の
雰囲気を一変させた。
信平さんにとっては、一種のクーデターに思えたことだろう。
社長たる池島信平への不信任決議とも受け取られた様子だった。
このときの消沈した信平さんを見て、
『ああ、この人も、やはり人の子だった』の思いを深くした。」
社員側が組合運動に入っていく際には
「これには信平さんも本当に参ってしまった。
文藝春秋に組合ができるなどという事態は考えてみたこともなかったろう。
それが信平さんの宿命というか、運命なのである。
繊細でどこか気の弱さをもつ信平さん・・・
身を守るために大きな力で抗わねばならないとき、
なにか、この人はそれを甘受する姿勢をとった。
まるで傍観者のように運命に身をゆだねる。
見かけは明るい好男子だったが、
そのような本質を見抜いていた作家もいる。
丸谷才一さんは信平さんを評して
『明るいニヒリスト』と表現した。
歴史を深く研究した人間は、
ああいうニヒリストになるとおっしゃっていた。
そのころ、喫茶店で一緒にすごすことがあった。
信平さんは真っ白なワイシャツにコーヒーを
口からこぼされた。ああ、お疲れだな、そう思ったが、
すでに首から上に症状が現れていたのだろう。
脳梗塞を起すのは、その直後である。
それでも、新たな論壇誌の創刊によせる
信平さんの情熱はやむことがなく、
結局、『諸君!』として結実する。・・・
そして、創刊編集長に信平さんは私を指名した。
・・・・
この雑誌が今はもう存在しないことを、
私は悔しく寂しく思う。
『人馬一体』という言葉がある。
編集者と雑誌も同様である。・・
人を得なければ優駿も只の奔馬にすぎない。
社長になってからも信平さんはよく現場に
やってきては、雑談に花を咲かせた。だが、
部下を褒めることは少なかった。
シャイな性格で、アメとムチで人を使いこなす
『猛獣使い型』の指導者ではおよそなかった。」
小文の最後も、紹介しなくちゃ。
「私が、本誌の編集長になって間もなく、
昭和48年3月号の『日本共産党は何を考えているか』は、
信平さんに気に入ってもらえたプランである。
・・・・
あの日、編集部に降りてきた信平さんは、
めずらしく私の傍らに立ち、そして去り際に
小声で呟いたのだ。
『「日本共産党」、あれ、良かったよ』
あの信平さんの声はけっして忘れられない。
翌日、三回目の脳梗塞をおこした
信平さんは、帰らぬ人になってしまった。」
(p84~91)
それで、新聞広告に掲載されなかったり。
それで、雑誌が休刊に追いこまれたりするらしい。
「新潮45」10月号の特集タイトルは「『野党』百害」。
その百害が押し寄せての「新潮45」休刊。
正論10月号に花田紀凱×西尾幹二の対談。
題して「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」。
うん。タイトルをつけるのも大変らしい。
その対談のはじまりを引用。
西尾】私の「文藝春秋」批判は、十年近く前からですよ。
花田さんが編集長だった時代の「WILL」2009年3月号に
「『文藝春秋』は腹がすわっていない」という文を載せて
もらったでしょう。あのとき、初めに我々二人の付けた
タイトルは、「文藝春秋は左翼雑誌か?」でしたね。
でも結局、ライターである私自身が迷い、また当時の
編集長も腹が据わってなくて(笑)、表紙に刷られたのは
「文藝春秋の迷走」という穏和しい題でした。
(p262)
こうはじまる、対談の中頃に、こんな箇所。
花田】・・もともと戦後、文藝春秋を再建した池島信平元社長が
いつも言っていたのは、「文藝春秋」の大きな役割の一つは、
朝日新聞とNHKと岩波書店をウォッチする、監視することだ、
ということでした。しかし、いつの間にか、今の文芸春秋社、
特に月刊「文藝春秋」は、先生がおっしゃるように
朝日新聞と同じようなことをやるようになってしまった。
・・・・それがどういうきっかけで、今のようになってきたか、
ひとつ言えることは、池島信平さんの下で育って、社長になった
田中健五さんが辞めたことですね。・・・
池島信平さんのそういう考え方をちゃんと受け継いだのは
田中健五さんだったんですね。池島さんは、田中さんに
「大世界史」を編集させたり、あるいは「現代日本文学館」
―――これは文藝春秋で初めて出した小林秀雄さん責任編集の
文学全集ですけれども―――を担当させたりして、
そういう文壇での人脈、学者の人脈を築かせたわけです。
たぶん意識的にやったんだと思いますけど、
それが「諸君!」につながっていくわけですね。
しかし、たまたま、田中さんは途中で社長を辞めざるを
得ないような事態になりましたよね。文藝春秋は
それ以来おかしくなったと思います。
ただ、これは私にも責任がある。
田中さんは、私が三代目の編集長をしていた
「マルコポーロ」の事件(注・ナチスのガス室をめぐる
記事でユダヤ人団体から抗議を受け、同誌が廃刊になった騒動)
で、辞めることになったわけですから・・・。
あの時、田中さんは辞める必要はなかったと思う。
今考えればね。
そこら辺から歯車が狂ってきたかなという感じがする、僕は。
(p268~269)
雑誌社の社長といえば、
産経新聞9月26日二面の見出し
「新潮社『新潮45』休刊」で、記事のなかに、
新潮社社長の佐藤隆信氏の謝罪談話が掲載されておりました。
さてっと、
2013年「新潮45」12月号に
田中健五氏が書いておりました。
題は「池島信平と『諸君!』の時代」。
そこでは田中さんが文藝春秋に入社したての頃
「ほかの三人の新人とともに、池島編集長の
すぐ傍らに座るよう机が配置された。・・・・
はたして、配属先も決まらぬ私たちの『教育期間』は、
何も教えない信平さんの傍らで徒に過ぎていった。
・・・教え諭すでも叱咤するでもない信平さんが
実は無類の『照れ屋』であり、先輩風を吹かせるのが
大の苦手であることを知るのは、もっと先の話である。
その先のことを書くのが、この小文の趣旨なのだが・・」
「諸君」創刊当時については、こう記されております。
「・・まったく予想もしなかった
大半の社員からの反対表明である。
『思想の如何を問わず、特定外部団体の機関誌をだすことは、
編集の自由と独立をみずから放棄することである』という
反対署名が提出されたことは、それまでの文芸春秋の
雰囲気を一変させた。
信平さんにとっては、一種のクーデターに思えたことだろう。
社長たる池島信平への不信任決議とも受け取られた様子だった。
このときの消沈した信平さんを見て、
『ああ、この人も、やはり人の子だった』の思いを深くした。」
社員側が組合運動に入っていく際には
「これには信平さんも本当に参ってしまった。
文藝春秋に組合ができるなどという事態は考えてみたこともなかったろう。
それが信平さんの宿命というか、運命なのである。
繊細でどこか気の弱さをもつ信平さん・・・
身を守るために大きな力で抗わねばならないとき、
なにか、この人はそれを甘受する姿勢をとった。
まるで傍観者のように運命に身をゆだねる。
見かけは明るい好男子だったが、
そのような本質を見抜いていた作家もいる。
丸谷才一さんは信平さんを評して
『明るいニヒリスト』と表現した。
歴史を深く研究した人間は、
ああいうニヒリストになるとおっしゃっていた。
そのころ、喫茶店で一緒にすごすことがあった。
信平さんは真っ白なワイシャツにコーヒーを
口からこぼされた。ああ、お疲れだな、そう思ったが、
すでに首から上に症状が現れていたのだろう。
脳梗塞を起すのは、その直後である。
それでも、新たな論壇誌の創刊によせる
信平さんの情熱はやむことがなく、
結局、『諸君!』として結実する。・・・
そして、創刊編集長に信平さんは私を指名した。
・・・・
この雑誌が今はもう存在しないことを、
私は悔しく寂しく思う。
『人馬一体』という言葉がある。
編集者と雑誌も同様である。・・
人を得なければ優駿も只の奔馬にすぎない。
社長になってからも信平さんはよく現場に
やってきては、雑談に花を咲かせた。だが、
部下を褒めることは少なかった。
シャイな性格で、アメとムチで人を使いこなす
『猛獣使い型』の指導者ではおよそなかった。」
小文の最後も、紹介しなくちゃ。
「私が、本誌の編集長になって間もなく、
昭和48年3月号の『日本共産党は何を考えているか』は、
信平さんに気に入ってもらえたプランである。
・・・・
あの日、編集部に降りてきた信平さんは、
めずらしく私の傍らに立ち、そして去り際に
小声で呟いたのだ。
『「日本共産党」、あれ、良かったよ』
あの信平さんの声はけっして忘れられない。
翌日、三回目の脳梗塞をおこした
信平さんは、帰らぬ人になってしまった。」
(p84~91)