曽野綾子・クライン孝子対談の
「いまを生きる覚悟」(致知出版社)にあった
曽野さんの言葉に
「雑誌『諸君!』に連載した・・
あの時、編集長と担当編集者に・・言いましたら、
どんな反対の世論があっても影響させません、
と言ってくれた。戦後、
私が本物のジャーナリストだと思ったのは、
あの二人くらいです。・・」(p42)
この対談に語られている「あの二人」とは
どなたと、どなたなのか?
はい。わかりました(笑)。
「諸君!」2009年6月最終号に掲載されていた
曽野綾子さんの2ページほどの文にありました。
その最後の箇所を引用します。
「・・調査の結果を、私は『ある神話の背景』という題で、
『諸君』の1971年10月号から一年間連載させてもらった。
『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
田中健五編集長と、
私の担当だった村田耕二氏だった。
或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『多分ご迷惑をおかけしているんですね』と
言ったことがある。すると村田氏は
『社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ』
と言う意味のことを言った。
反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。
田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。・・・」(p166)
う~ん。これだけでは、
はじめて読まれる方には失礼かもしれない。
曽野綾子さんの文のはじまりも引用しておきます。
「『諸君』と私の関係はほとんど一つの思い出に集約される。
終戦からちょうど四分の一世紀経った1970年春、
私は一つの記事に釘付けになった。
沖縄渡嘉敷島ではまだ本島の攻撃開始前の1945年3月、
米軍の激しい艦砲射撃を受けた。逃げ場を失った島民の
一部は、手近になった手榴弾や斧などで集団自決をした。
『敵の手にかかって辱めを受けるより、潔く自決する』
という考え方は、日本軍部の圧制によって発生した
悪事のように言われるが、世界的には
そういう考え方の方が少数派である。
イスラエルのマサダ要塞では、紀元一世紀に
ローマ軍に囲まれた千人近くのユダヤ人が、
二年間の籠城の後、まず選ばれた十人が全員を殺し、
この十人のうちの一人が残りの九人を殺して
自分は自決するという最期を選んだ。
この事件は決して強制された死ではなく、
そこで死んだすべてのユダヤ人たちは
愛国者としての名誉ある自決を選んだのだ、
と今なお民族の誇りとして讃えられている。
しかし日本ではそうでなかった。
沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて強制的に
自決させられたもので、自決した人々は被害者だと
言う言い方をした。私からみると、
それは死者に対してこの上ない非礼であった。
・・・」
はい。私の引用はここまで。
「いまを生きる覚悟」(致知出版社)にあった
曽野さんの言葉に
「雑誌『諸君!』に連載した・・
あの時、編集長と担当編集者に・・言いましたら、
どんな反対の世論があっても影響させません、
と言ってくれた。戦後、
私が本物のジャーナリストだと思ったのは、
あの二人くらいです。・・」(p42)
この対談に語られている「あの二人」とは
どなたと、どなたなのか?
はい。わかりました(笑)。
「諸君!」2009年6月最終号に掲載されていた
曽野綾子さんの2ページほどの文にありました。
その最後の箇所を引用します。
「・・調査の結果を、私は『ある神話の背景』という題で、
『諸君』の1971年10月号から一年間連載させてもらった。
『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
田中健五編集長と、
私の担当だった村田耕二氏だった。
或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『多分ご迷惑をおかけしているんですね』と
言ったことがある。すると村田氏は
『社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ』
と言う意味のことを言った。
反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。
田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。・・・」(p166)
う~ん。これだけでは、
はじめて読まれる方には失礼かもしれない。
曽野綾子さんの文のはじまりも引用しておきます。
「『諸君』と私の関係はほとんど一つの思い出に集約される。
終戦からちょうど四分の一世紀経った1970年春、
私は一つの記事に釘付けになった。
沖縄渡嘉敷島ではまだ本島の攻撃開始前の1945年3月、
米軍の激しい艦砲射撃を受けた。逃げ場を失った島民の
一部は、手近になった手榴弾や斧などで集団自決をした。
『敵の手にかかって辱めを受けるより、潔く自決する』
という考え方は、日本軍部の圧制によって発生した
悪事のように言われるが、世界的には
そういう考え方の方が少数派である。
イスラエルのマサダ要塞では、紀元一世紀に
ローマ軍に囲まれた千人近くのユダヤ人が、
二年間の籠城の後、まず選ばれた十人が全員を殺し、
この十人のうちの一人が残りの九人を殺して
自分は自決するという最期を選んだ。
この事件は決して強制された死ではなく、
そこで死んだすべてのユダヤ人たちは
愛国者としての名誉ある自決を選んだのだ、
と今なお民族の誇りとして讃えられている。
しかし日本ではそうでなかった。
沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて強制的に
自決させられたもので、自決した人々は被害者だと
言う言い方をした。私からみると、
それは死者に対してこの上ない非礼であった。
・・・」
はい。私の引用はここまで。