「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)。
この本の「芸事」とあるページに
「だいたい京都のひとは、芸事がすきである。
結婚前に、女ならお茶にお花に舞、男なら謡を
ひととおりはならっておくというのが、町屋(まちや)では
まずふつうのことである。・・・」(p71)
「梅棹忠夫の京都案内」の、この本には
ところどころ本の書評がはさまっております。
松田道雄著「京の町かどから」の書評もある。
はい。「京の町かどから」には「わらべうた」
と題する文があったのでした。そこから引用。
「高野辰之編『日本歌謡集成』の巻十二には俚謡があつめられ・・・
みていると京都の童謡は文学的にほかにくらべて洗練されている。
その京都に民謡というものがない。
これは京都が文化的に先進地帯であったということだろう。
京都のおとなは、15世紀にはもう猿楽能を知っていたのだ。
京都は、自己の民謡をもつ一地方ではなく、
全国の芸能がそこに集まって洗練される舞台であった。
各地の民謡にあたるものを京都でもとめるならば謡曲である。
農村の人たちが、自分の郷土の民謡をうたえるように、
中京の商人たちは、みんな謡曲がうたえた。」
( p94~95・「京の町かどから」筑摩叢書 )
このあとに、松田道雄氏は、中京の子どもたちへと
言及しておりました。
「東国人の子である私が、
清さんだの長やんだのとあそびはじめて気がついたのは、彼らが、
『一六(いちろく)』だとか『三八(さんぱち)』だとかいって、
そういう数字がつく日には、あそびにやってこないことであった。
彼らは、
その日は『うたい』のけいこにいかなければならなかったのである。
私の家の四、五軒しもに床屋さんがあって、
その奥の二階に『うたい』の先生がいて、
午後によく朗々とうたっているのがきこえた。
それからずっとあとになってからだけれども、
隣家の裃(かみしも)屋さんの若主人も、
よく謡曲のけいこをしていた。
小学校へあがって、学芸会があると、かならず謡曲と仕舞とがあった。
ボーイ・ソプラノでやる謡曲は、なかなかいいものであった。」
(p95~96)
もどって「梅棹忠夫の京都案内」には、
昭和29(1954)年に大学の国語研究グループからの講演依頼があり、
そこでの依頼が「はなしことばについて」であったこともあり、
「わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。そのつもりで草案を
つくった。その草案がのこっていたので、ここに収録した。」(p210)
その講演の一部を紹介
「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういうものの
いいかたをするのか、挨拶から応対までを、いちいちやかましく
いわれたもんどした。とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生(おうじょう)しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやとバレてしまうわけどっさかい。
そもそも、京ことばは発音がむつかしゅうて、
ちょっとぐらいまねしても、よっぽどしっかりした
訓練をうけへなんだら、でけしまへん。
完全な、京都の人間になろおもたら、三代かかるといわれております。
そのながい伝統に、つちかわれてきた京ことばが、
近年になってくずれてきました。・・・・」(p221~222)