齋藤孝に「実語教(じつごきょう)」(致知出版社)がありました。
はじめにを読むと、
「この『実語教』という本は、平安時代のおわりにできたと
いわれています。・・・子どもたちの教育に使われ・・・・
江戸時代になると寺子屋の教科書となりました。
明治時代になっても、しばらく使われていたようです。」(p4)
パラパラとひらいていると、そのなかにこんな箇所。
『師に会うといえども学ばざれば、
徒(いたずら)に市人(いちびと)に向うが如(ごと)し』
うん。『師に会う』といっても『学ぶ』ことがなければね。
そう戒めておられるのですが、江戸時代の寺子屋では
こんな言葉を、子どもたちが、繰り返していたのですね。
さて、杉本秀太郎です。桑原武夫の七回忌の集まりでの語りに、
大学の卒論試問の場面で、杉本氏は『桑原先生という方に
私が初めてほんとうに触れた、最初の出来事でした。』
という場面を語っておられました。
ここでは、集会での語りなのですが、
卒論試問での桑原先生の話したことを
きちんと書いてある文も杉本氏は残しておりました。
うん。先生に『ほんとうに触れた』という箇所なので、
以前のと重複しますが、あらためて引用しておきます。
「試問の日も、とうとうきた。
文学部図書室の真下にあたる演習室には、
ダルマストーブをかこんで、3人の審査教授が待ちうけていた。
・・・・・・
『では桑原君、何か』
と伊吹教授が催促した。おだやかに、ゆっくり桑原さんは言った。
『あなたの、読みました。
読みましたけど、おもしろなかった。
鉛筆で書いたということ、まあそれは、よろし。
おもしろかったらそんなこと忘れて読んだでしょう。
それと、もう一つ、君はこれのさいごに
《 説明することは簡単である 》と書いてますね。
狩野直喜先生は、これくらいある
( と指で一寸くらいの厚さを示して )
本を書いてね、説明だけなら簡単なことだと
おしまいに書いてられる。
けど、君のん、たった三十枚や。
こんなこと、いうたらあきまへん。』
・・・・・・・
大学を卒業した。・・・・
大学を出た昭和28年の7月、創元選書版の
『伊東静雄詩集』が出た。・・伊東静雄をまったく知らなかった。
彼が本屋でこの詩集を手にとったのは、その卒業論文の試問のときに、
彼がむさぼるように飲んだ慈愛の言をかけてくれた(と彼の信じた)
桑原武夫の名が、編者にあったからである。立ち読みした
『わがひとに與ふる哀歌』の数篇に、彼はたちまち感染した。
・・・・聖母女学院の高校生にフランス語の初等文法を教えながら、
彼自身の初等文法の知識を、やっと身につけつつあった。
家庭教師だけでは納得してくれない家人を安心させるために、
彼は日仏会館にもかよいはじめた。・・・」
大学を卒業して二年ほどたってから
二人して桑原武夫氏の家にでかける機会があります。
「桑原さんには、あの試問のとき以来、
いちども会ったことがなかった。・・・・」
「口下手である。けれども、かしこまっていても仕方がないので
・・・『先生、伊東静雄と柳田国男について、何かお話しください』
といった。桑原さんは快よく応じた。・・・
桑原さんのたのしそうなおしゃべりに時を忘れた。・・・
十時半になっていた。・・・・・
玄関に素足でつっ立った桑原さんは、お辞儀するふたりに、
『またいらっしゃい、えっ、えっ』
といってあっちに向き、屏風のかげに入ってしまった。」
(p214~225。杉本秀太郎著「文学の紋帖」)