和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あなたの、読みました。

2021-05-04 | 枝葉末節
齋藤孝に「実語教(じつごきょう)」(致知出版社)がありました。
はじめにを読むと、
「この『実語教』という本は、平安時代のおわりにできたと
いわれています。・・・子どもたちの教育に使われ・・・・
江戸時代になると寺子屋の教科書となりました。
明治時代になっても、しばらく使われていたようです。」(p4)

パラパラとひらいていると、そのなかにこんな箇所。

『師に会うといえども学ばざれば、
徒(いたずら)に市人(いちびと)に向うが如(ごと)し』

うん。『師に会う』といっても『学ぶ』ことがなければね。
そう戒めておられるのですが、江戸時代の寺子屋では
こんな言葉を、子どもたちが、繰り返していたのですね。

さて、杉本秀太郎です。桑原武夫の七回忌の集まりでの語りに、
大学の卒論試問の場面で、杉本氏は『桑原先生という方に
私が初めてほんとうに触れた、最初の出来事でした。』
という場面を語っておられました。
ここでは、集会での語りなのですが、
卒論試問での桑原先生の話したことを
きちんと書いてある文も杉本氏は残しておりました。

うん。先生に『ほんとうに触れた』という箇所なので、
以前のと重複しますが、あらためて引用しておきます。

「試問の日も、とうとうきた。
文学部図書室の真下にあたる演習室には、
ダルマストーブをかこんで、3人の審査教授が待ちうけていた。
  ・・・・・・
『では桑原君、何か』
と伊吹教授が催促した。おだやかに、ゆっくり桑原さんは言った。

『あなたの、読みました。
読みましたけど、おもしろなかった。
鉛筆で書いたということ、まあそれは、よろし。

おもしろかったらそんなこと忘れて読んだでしょう。
それと、もう一つ、君はこれのさいごに
《 説明することは簡単である 》と書いてますね。

狩野直喜先生は、これくらいある
( と指で一寸くらいの厚さを示して )
本を書いてね、説明だけなら簡単なことだと
おしまいに書いてられる。

けど、君のん、たった三十枚や。
こんなこと、いうたらあきまへん。』

 ・・・・・・・
大学を卒業した。・・・・
大学を出た昭和28年の7月、創元選書版の
『伊東静雄詩集』が出た。・・伊東静雄をまったく知らなかった。
彼が本屋でこの詩集を手にとったのは、その卒業論文の試問のときに、
彼がむさぼるように飲んだ慈愛の言をかけてくれた(と彼の信じた)
桑原武夫の名が、編者にあったからである。立ち読みした
『わがひとに與ふる哀歌』の数篇に、彼はたちまち感染した。
・・・・聖母女学院の高校生にフランス語の初等文法を教えながら、
彼自身の初等文法の知識を、やっと身につけつつあった。
家庭教師だけでは納得してくれない家人を安心させるために、
彼は日仏会館にもかよいはじめた。・・・」

大学を卒業して二年ほどたってから
二人して桑原武夫氏の家にでかける機会があります。

「桑原さんには、あの試問のとき以来、
いちども会ったことがなかった。・・・・」

「口下手である。けれども、かしこまっていても仕方がないので
・・・『先生、伊東静雄と柳田国男について、何かお話しください』
といった。桑原さんは快よく応じた。・・・
桑原さんのたのしそうなおしゃべりに時を忘れた。・・・
十時半になっていた。・・・・・
玄関に素足でつっ立った桑原さんは、お辞儀するふたりに、

『またいらっしゃい、えっ、えっ』
といってあっちに向き、屏風のかげに入ってしまった。」

    (p214~225。杉本秀太郎著「文学の紋帖」)




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