和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

五行ほど読むと。

2023-04-21 | 古典
今年のはじめ、大村はまを読もうとしていたのに、
あれよあれよと、今は御伽草子。

大村はまの講演「教えるということ」で
私に忘れがたい箇所がありました。そこを反芻することに、

「・・子どものなかには、
 どうかすると五行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。

 五行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。

 こんな集中力のない子どもがだれとだれなのかおわかりですか。
 一字一字見ている子どもと、ひとまとまりのことばを
 ちゃんととらえるように成長してきた子ども、

 それはいつごろからかご存じですか。いつごろといえば、
 小学校にはいった始めごろ、すでにそうなってくる
 子どもが、今、たくさんいます。・・・        」
        ( p39 「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

はい。ここを読んだときに、この『こんな集中力のない子ども』。
これは、私だと思いました。ここに、私がいたと思いました。

マンガとテレビの中で育ってきたので、
まとまった小説なんて、ちっとも読めないできました。
そんなわけで、何ページ読むか? それは私の気になるテーマです。

さてっと、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」に
『源氏物語』をとりあげたこんな箇所がありました。

「日本人に向かって、『源氏物語』について説明する必要はないと思うが、
 びっくりするのは、日本人が意外なほどこれを読んでいないということである。

 ・・・それじゃひとつ読んでみましょうという人が、ときたま現れるが、
 次の機会に尋ねてみると、実は現代語訳で50ページほど読んだのですが、
 退屈で退屈で放り出してしまいました、とまた頭に手をやるジェスチャー
 を見せる人が多い。

 トルストイにせよプルーストにせよ、どんなにすばらしい小説でも
 最初の50ページほどは退屈なものである。・・・        」
                        ( p96~97 )

そしてバーバラさんは、こう書いておりました。
「 わたくしはいまでも、あのすばらしい『源氏物語』
  を読み終えたときの感動をよく憶えている。    」( p97 )

う~ん。そういわれても、私は読まないだろうなあ。けれども、
マンガやテレビや映画に近い御伽草子ならば親近感が沸きます。

バーバラさんの「奈良絵本」へ言及した箇所があります。

「いま奈良絵本という言葉を使ったが、不思議なのは、
 ほとんどの中世小説がこの奈良絵本の形で残っている事実である。

 奈良絵本とは、簡単に説明すると、15世紀から18世紀にかけて
 多く現れてきた、文章とさし絵の入った、版本でない手書きの
 書物のことを指すが、絵巻の形式も存在する。・・・・

 たとえば、さし絵を見ただけでも一流のプロが描いたものから
 まったくの素人の作品まで・・いろいろな人たちがこれらの
 製作にたずさわったことと思われ、また文章についても、
 多くの種類の人たちがこのような作品に関与したと考えられる。」(p 106 )

このあとに、ヨーロッパやアイルランド、チベットやインドにも
共通する結びつきを紹介したあとに、こうありました。
うん。最後にそこを引用。

「 その結果、中世のあらゆる階層の人たちは、
  無意識のうちに絵と文章が渾然一体となる世界を受け入れ、
  奈良絵本の世界を創り上げていったのではないかと思われる。

  ・・・奈良絵本の世界は生きた世界で、一つの有機物といえる。
  当時の日本人は、この世界のなかに、無意識のうちに自分たち
  の性格にぴったり一致した物語を入れたのである。

  この世界は、もはや平安文学の世界ではなく、新しい世界なのである。
  ・・・わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
  この奈良絵本のなかに、日本人の創造性の一つを見る。   」(p109)
コメント (2)
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