司馬遼太郎の追悼文では、多田道太郎氏の
「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」が印象に残っていました。
そこに、わかったようなわからない箇所がありました。
「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させてもらったら、
こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で風景も覚えているんですが、
『 司馬さん、このたびはおめでとう 』と言ったら
『 いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・ 』。
その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、
『 この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。
これがなくなったときは・・・あるいは芸術家として、しまいや 』
と、その自覚のある人でした。 」
( p158~159 三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」講談社・1996年 )
この『塩みたいなもの』というのが印象的なのですが、
なんだか、モヤモヤしていてわからなかった。
今思うのですが、それって、豆腐を固めるニガリのことじゃないのか?
いまだに、言葉にならずに、モヤモヤして空気に漂っている、
それをどのようにして固めて言葉にして出せるのか?
それを凝固させるニガリのことを『 塩みたいなもの 』と
言ったんじゃないか?
たとえばです。今めくっているバーバラ・ルーシュさんの中世でいえば、
『わたくしの考えでは、日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
いちばんはっきりとした形で現れていると思われる。・・』(p105~106)
こう指摘する『国民性』について、バーバラさんは語ります。
「・・日本の中世小説をアメリカの大学院の学生に読ませたときの
反応を披露したいと思う。彼らは、物語が終わりに近づくまで、
ときには深く感動し、結構楽しみながら読む。
しかし、物語が終わりに近づくにつれて態度が急に変化し、
読み終わるや否や怒り出すのである。
なぜ、この主人公はああしなかったのか、
あんなに苦しんで努力したのに、なぜ最後に運命に身を委ねたのか、
なぜ最後まで自分に忠実であろうとしなかったのか、
というような質問を発し、物語の終わり方に納得しようとしない。
こうした反応を目の当りにするたびに、
わたしはいつも国民性の違い・・を痛感する。・・ 」(p105)
それでは、この場合のニガリは、どこにあるのか?
うん。よくわからないけれど、たとえば、こんな箇所が思い浮かぶ。
「 結局のところ、中世文学の中心的な原動力は
運命であり、野心ではなかった。
つまり、室町文学の神髄は
時代にふさわしい秩序の回復であり、
下剋上ではなかった。 」 (p148)
( 以上は、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」思文閣出版より )