和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

高齢者特有発作的な読書パターン

2023-11-12 | 思いつき
文春ネスコ編「教科書でおぼえた名詩」(1997年)の
「序にかえて」は丸山薫の詩「学校遠望」でした。
 はじまりの3行は

   学校をおえて 歩いてきた十数年
   首(こうべ)をめぐらせば学校は思い出のはるかに
   小さくメダルの浮き彫りのようにかがやいている

詩「学校遠望」の最後の4行は

   ・・・・・
   とある窓べでだれかがよそ見して
   あのときのぼくのようにぼんやりこちらをながめている
   彼のひとみに ぼくのいるところは映らないのだろうか?
   ああ ぼくからはこんなにはっきり見えるのに


はい。どのように『 はっきり見える 』のだろう。
その筋道を、いったい何歳になったらたどれるのか。
ということが、津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)を
ひらいていたら、思い浮かんできまいた。そのあとがきには

「このタイトル(百歳までの読書術)をつけたのは私ではない。
 本書のもとになった連載を企画してくれた『本の雑誌』発行人の
 浜本茂氏である。・・・・

 『百歳までの読書術』は、私にとっては
 『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。・・・・

 このさき、じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
 そのおおよそがありありと見えてきた。・・       」

さてっと、本文に『老人にしかできない読書』という文があり、
はじめの方を引用しておくことに。

「・・まだ少年や青年だったじぶんが大切にしていた
 なんらかのイメージが、何十年かの時間が経過したのち、
 思いがけず発見された新資料や大胆な仮説によって
 ガラリと一変させられてしまう。

 そのおどろきから、とつぜん新旧を問わない
 本から本への集中的な『渡り歩き』がはじまる。・・・
『老人読書』とは、このような高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。

 なぜ高齢者特有というのか。
 少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、それから
『何十年かの時間が経過した』といえるだけの時間の蓄積がないからだ。
 だったら当然、かれらにその種の読書があるわけがない。 」                                           
                            (p172~173)


はい。ちょいっと、丸山薫の詩と、老人の読書とを
つなげるのは無理があるでしょうか(笑)。
でも、このように無理してもはじめてみたかった。

ということで、次につながっていきますように。
コメント (2)
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