和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本への『ほめ言葉』

2023-11-30 | 書評欄拝見
落語関連の本を読みたくなる。
さっそく思い浮かんだ本が2冊。
まだ、読んでいないので誰かの『ほめ言葉』を
まず、聞いてみることに。

そういえば書評っていうのは、
本への『ほめ言葉』ですよね。
『けなし言葉』なら読まない。
本をほめるから読みたくなる。

ということで落語本で気持ちよくほめられている2冊。

① 安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(ちくま文庫・1993年)
② 桂米朝著「落語と私」(文春文庫・1986年)

①には、福原麟太郎氏の4ページの文が付いている。
そこから引用。

「・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、
 それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、
 実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、
 この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。
 それは家内も覚えているし、私も覚えている。・・・  」(p483)

うん。私の興味も、やっと落語関連本に及びました。
それならばと、読みたい本が安藤鶴夫と桂米朝の2人。

②の巻末解説は矢野誠一。
あれ、ここにも安藤鶴夫が登場しておりました。
うん。その箇所を引用してみることに。

「・・おつきあいのできた桂米朝さんを東京に引っぱり出して、
 紀伊國屋ホールで『桂米朝上方落語会』というのを催して・・

 なにしろ、プレイガイドの女の子が、持ちこんだポスターを見て、
 『ドカタ落語って、なんですか?』といったのだから、
 上方落語も東京では未だしの時代だった・・・・

 いまは亡き安藤鶴夫さんが、『地獄八景亡者の戯れ』をきいて、
 『 大阪にも、素晴らしい落語家がいるね 』と、
 感動のあまり声をふるわせていったのを思い出す。・・・・ 」(p220)

「 そんな活字による『桂米朝作品群』のなかにあって、
 この『落語と私』は、ひときわすぐれた名著で、
 桂米朝の著作ばかりか、こと落語について記された
 多くの類書を圧する存在のものである。

 10年前。『ポプラ・ブックス』の一巻としてポプラ社
 から出たとき一読して、すぐそう思った僕は、
 江國滋と三田純市に電話をかけたものである。

 10年ぶりに再読して、あのときの新鮮な印象が
 少しも失なわれていないことにおどろかされた。・・・ 」(p221)

うん。最後に、向井敏さんの『落語と私』の書評を引用しておきます。

「体裁はジュニア向きでも内容はきわめて高く、
 眼の肥えた大人にこそ読んでほしい本がある。・・・・

 桂米朝の『落語と私』。
 中学生向けの啓蒙書として書かれ、
 文体はやさしく語り口は具体的、

 気軽に読めるように工夫されているが、
 落語という話芸の本質をこれほど的確に把握し、
 鮮明に説いた本はざらにあるものではない。

 わけても注目されるのは、落語を単なる伝統芸能としてでなく、
 生きた通俗社会学としてとらえたことである。

 落語にはほんとうの悪人はめったに出てこない。
 といって、世人の鑑となるほどの大人物も見当らない。
 みんなそのあたりにいそうな人ばかり。

 つまり、落語というのは
『 大きなことはのぞまない。泣いたり笑ったりしながら、
  一日一日がぶじにすぎて、なんとか子や孫が育って
  自分はとしよりになって、やがて死ぬ 』と観念した、
 ごくふつうの世間を描く芸であることを桂米朝は強調する。 」


はい。向井敏さんの書評の半分を引用してしまいました。
さあ。この2冊。私にとってやっとこ読み頃を迎えました。
コメント (2)
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