庄野潤三著「夕べの雲」の目次は
最初が『 萩 』。次が『 終りと始まり 』。
目次の二番目の『 終りと始まり 』に、それはありました。
「 外房州の海岸へは、毎年行く。
二晩か三晩泊って、帰って来る。
東京から遠いのと、すぐ隣の町に大きな海水浴場があるので、
ここまで来た人もそっちへ集ってしまうせいか、
その海岸は静かであった。
彼等が初めてその村の小さな宿屋へ行ったのは、
もう十年前のことで、晴子と安雄はいたが、
正次郎はまだ生れていなかった。
有難いことにその漁村は、十年前もいまも殆ど変りがなかった。
色の黒い村の子供も、家族連れで来ている客も同じ磯で泳いでいて、
人数はそんなに多くならないのであった。
夕方になると、浜には誰もいなくなった。
この村へ行くようになったのは、
ひとつ隣の海水浴場のある町に大浦の友人が住んでいて、
『 いいところだから、来ないか。子供がきっと好きになるところだ 』
といって、誘ってくれたのであった。
彼の話によると、その海岸にはお宮さんの下にいい泳ぎ場がある。
まわりに岩礁があって、そこだけ特別に波が静かで、泳ぎよい。
岩礁の上を伝ってどこまでも歩いていくことが出来て、危くない。
岩の間の窪みにいるダボハゼを取るのに絶好の場所で、
魚取りに夢中になっていて、顔を上げると、
眼の前は太平洋だ。海の色が違う――と、
そういうのであった。
そこで、彼等は出かけて行った。
小学一年生の晴子と三つになる安雄と彼と細君とで。
友人がいった通り、子供はそこが気に入った。
彼も細君も気に入って、来年もここへ来ようと思った。
そのうち彼等の家族は、人数が一人ふえた。・・・・・ 」
年譜によると、昭和39年(1964)43歳
『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載(127回完結)とあります。
その年の年譜には『 八月、家族と太海へ行く。 』ともあります。
ちなみに、昭和31年の年譜にはじめて、出てくるのが
『 近藤啓太郎の紹介により千葉県安房郡江見町の太海へはじめて
家族と行く。子供はまだ小さかったが、夏には都合のつく限り
出かけるようにしたので、三人ともこの浜で泳ぎを覚えた。 』
( p583 「庄野潤三全集」第10巻 )
気になって古本を注文しました。
庄野潤三著「明夫と良二」( 岩波少年少女の本16 )。
それが、昨日届きました。凾入りハードカバー。
安西啓明氏の、表紙画と本文にところどころの挿画があります。
はい。庄野潤三全集第9巻に「明夫と良二」が載っているのですが、その
全集には、岩波少年少女の本に載った「あとがき」はありませんでした。
その「あとがき」に、海が出て来ておりました。
あとがきは、昭和47(1972)年3月とあります。
最後に「あとがき」を端折って引用しておきます。
「 『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、
どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。
小学生のころに、家にあった、絵入りのこの本を、
私は兄や姉なんかと同じように胸おどらせて読んだのですから。 」
そのあと途中を端折りますが、どうしてか、海という言葉が出て来ます。
「これは、どこの港からも船に乗らず、従って海のまっただ中で
怖ろしいあらしに出会うこともなく、無人島に流されもしない、
自分の家でふだんの通りに暮らしている五人の家族の物語であります。・・」
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