ついネットで、あれこれと見ていると要約をしたくなる。
今年の流行語大賞は『 ふてほど 』なのだそうですが、
しっくりくるのは、『 不適切なテレビマスコミ報道 』
というのが一番納得感がある意味になるなあと思えます。
こういう意味合いを重ね合わせることが出来る流行語は、
貴重であります。ふところの深い味わいが感じられます。
ところで、大賞には、選考委員という方々がいる。
いったい、選考委員が選ぶに足る作品がテレビや
マスコミにない場合は、困るだろうなあとおもう。
そんな困った話をあげつらうより、これぞという作品に
めぐりあった選考委員の話を、ひとつ引用してみたい。
ということで、
庄野潤三全集第9巻の月報9。
そのはじまりは与田準一氏でした。
第2回め(昭和47年度)の赤い鳥文学賞の選考委員のひとりが
与田準一氏。ここには候補作品を読んでいる与田氏がおります。
「 ・・・庄野潤三氏の『 明夫と良二 』を読んだ私は、
こんどの賞はこの作品だ、と思いました。
いや、読みすすむうち、もう三分の一あたりから、
候補作品読みといったお役め読みを忘れて、
純粋な読書の楽しみにひたっていたというのがほんとうです。
・・・『 明夫と良二 』の文章は平明です。
一見、平明です。ですが、味読には一種の咀嚼力がいります。
それは明晰な強さを持つ文章だからです。
明晰というのは無駄がないということです。
・・・このような自律的文章は、他の作品に見られなかったことでした。
・・・根本的には庄野さんの小説の文体と変りはない、
いやそれそのもので庄野さんは年少読者と付き合おうとしている。
平明だが咀嚼力がいるという、いっぱん的には
児童少年文学作品に欠けていた要素がここにあるという、
確信というか興奮というか、そのような不思議な時間帯のなかに、
ときに私は立ち止まり、また移りゆく状態でした。 」
はい。何やら選考委員冥利につきる出会いがあったようです。
与田氏はさらに続けるのでした。
「 ひとつもむつかしいものがありません。
むしろ読者私どもの忘れてかえりみずにいた日日(という不思議)が、
私どもの内部に眠りこんでいたものと共に甦る、
とでもいったらいいのでしょうか。
今は、大人も子どももなべてこの退色してとどまらない
日日の処在にじつは困っています。・・・・・ 」
さらに、与田氏は、同じ選考委員の巽聖歌氏に電話をするのでした。
うん。最後には、その箇所を引用。
「 聖歌は既に承知していて、
『 すばらしく、長い長い詩だね。 』などと応じたものでした。 」
はい。選考委員と作品との出会いというのは、そうそうあるものじゃない。
そうですよね。
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